2016年11月19日 (土)

(579) しつける側のハンデ

発達障害の子は、「人のふり見て我がふり直す」が不得手です。

人への興味が健常者よりも低いことにより、そもそも人に注目して見ることが少ない、更にその「人のふり」にどのような意味が込められているのかも読み取れないため、結果として「非常識」な行動を平気でして怒られる、ということも珍しくありません。

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2016年9月25日 (日)

(571) ABAで持ち上がった知能

我が家では、就学前から息子に対してABAによる療育を行っていました。

それにより、できることも増えましたし、結果として知能指数も伸びました。

知能指数は、多少の変動はあるものの基本的には変わらないものとされていますから、明らかに伸びた数値を見て、ABA療育の効果を実感しました。

ただ、これって持って生まれた知能だと思って良いのか、という疑問を最近になって親の私が感じるようになってきました。中学校に入って勉強する内容が難しくなったことはもちろん否めませんが、ここのところの息子のつまづきを見ていると、どうも新しい概念やルールの習得にかなり手こずっているように感じることが増えてきましたので。

上げ底というと表現が悪いですが、学業面についてはABAによる介入前の、元の知能レベルでの対応を考えた方が良いのかも知れない、と感じています。

ABA療育って、正しいやり方を示し、やらせて褒めて強化し定着させるというのが基本ですが、考えようによっては受験テクニックのように学問の本質理解とは離れた部分があるのかも知れません。ゆえに、教えたことは定着するけれど、教えていないことは本質理解が無いだけに考える基礎ができておらず、それが無ければ先に考えを発展させられないものがあるのかも知れない、という疑念があります。

とはいえ、ABA療育を否定するものではありません。何より、ABA療育によりできることを増やしたことは間違っていないと確信していますし、それで親も本人も助けられたのも事実ですから。ただ、それとは別の問題があるのかも知れないなあ…と感じるこの頃です。

2016年9月18日 (日)

(570) 異なる方向性

「子どもの将来に幸多かれ…」と思う。

障害の有無に関わらず、親が持つ子に対する普通の感情だと思います。

ただ、障害児の場合、自分でできることが健常児よりも少なく、できる程度も一部を除いて低くなりがちです。

障害児の親は、それを補うために療育をすることとなります。

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2015年7月 4日 (土)

(515) 量を減らす

発達障害の子は手先が不器用なことが多い。だから、健常の子と同じ量をやるのは負担感が大きく、過大な課題(シャレではありませんw)はやる気を損なう可能性がある。ゆえに、量を調節してあげると良い。

…という親向けの指導が書かれている本が散見されます。けれど、これについては一つ抜けているところがあるのではないでしょうか。

これだと、理解できているか、身に付いているのか、ということへのチェックが無いのです。

理解できている、身に付いているようであれば、もちろん量を調節して減らすというのはアリです。でも、このチェックも無しに、ただ量を減らしただけでは、みんなと一緒に取り組むという形式は満たされても、実質的に理解もできておらず身に付いてもいない、ということになってしまいます。それで良いのでしょうか。

やる気を重視することは、もちろん大切です。その意欲を摘まない、というニーズもわかります。けれども、やっても理解できない、身に付かないという状態が継続すると、それはそれで達成感が得られないことになります。

これに対しては、理解できていない、身に付いていない課題について、やはり時間を置いて再度チャレンジさせるとか、指示の出し方、伝え方等を工夫するといったフォローが必要になるだろうと感じます。ですから、ここまで親に一連で指導する書き方にしないと、余計な混乱を生じさせたり、後になって困ってしまうことになったりすることを危惧します。

発達障害児への療育での取り組みには、このような細かな部分への意識も必要になってきますね。

2015年5月23日 (土)

(509) その道の「ツウ」

発達障害のある子を抱えている親御さんで、療育施設を全く利用したことがないという方は、あまりいないと思います。民間施設があまりない地方であっても、公的施設(小児発達センターや特別支援学校での未就学児向け開放講座等)を利用される方って少なくないと思いますし。

都会は、選択肢が多いと言えば聞こえが良いですが、玉石混交であるとも言えます。この点、皆さんかなりシビアに見ておられるようです。

実は我が家では、比較的最近できた新しいところに通い始めました。そうしたところ、そこで以前別の施設で顔見知りだった親御さんとバッタリお会いすることとなりました。こちらは、まだその施設を完全にやめてはいないものの、回数を減らすという対応であったところ、そう言えば、この方とは全然会わなくなっていたなあとその時に思い至りました。このように、我が子の成長を期して、皆さんしっかり療育施設でやっていることとその効果を見極めているんだな、ということを改めて感じました。

この手の動きは、表立ったものにはなり得ませんよね。個人の静かな動きでしかありませんから。けれども、皆さんモノ言わざれども確実に動いている…。決して療育施設に任せて安心…にはしていない方が多いのだな、と感じます。

正直なところ、我が家でも「うーん、ここはイマイチだな」と思ったからこそ他を探したのです。そうであれば他の方もそういう動きをされる可能性があるということは、当然予想できるわけで、特筆すべきことではないという評価もできます。この点について、むしろ私達が感じていたのと同種の不満を感じていた方が他にもいたという事実に、妙な共感意識を持ってしまうのも正直なところです。逆に言えば、自分の判断はあながち間違っていなかった、と不安を打ち消す材料にもなることですし。

療育施設って、やめるのにも勇気がいります。でも、時間とお金は有限ですし、「子供の成長は早いもの」ですから、逡巡しているわけにもいきません。エイヤーで決めざるを得ないのは不可避であり、その精神的負担感が和らぐのは素直にありがたいと思います。

この世界に入ってもうすぐ二桁年になろうとする中で、多くの療育施設と関わってきました。その経験から判断をしていることを考えると、その道の「ツウ」になってきたことが、嬉しくもあり哀しくもあり…

2015年4月 3日 (金)

(502) 適切な療育を受けると

タイトルを見て、「伸びる」「成長する」を連想された方、残念ながら今回の趣旨とは異なります。

「は? 伸びないの?」と突っ込まれそうですね。もちろん、そうではありません。伸びるし成長すると思っています。

「じゃあ何が言いたいの?」と怒られそうなので、そろそろ自分の思いをお伝えしますが、「適切な療育を受けた子は、疲れる」だろうと思うのです。

…拍子抜けしました? 「このオジさん何を言っているの?」って更に怒りを買ってしまったかも知れませんね。

これに対しては、少し真面目にお答えします。まず最初に、ちょっと考えて頂きたいのは、普段通っている学校や療育機関で適切ではない授業・療育を受けていたとすると、大抵「つまらないorわからないから集中力が途切れて、課題から意識が離れる」ことが多くなるだろう、ということです。

このようなことは、当然本人の気分も良くないでしょうし、やる気も意欲もダダ下がりになることは容易に推測されます。でも、この場合、熱中していない分エネルギーの消費も少ない⇒疲れにくくなるのではないか、と思うのです。

ところが、適切な療育を受けた場合、本人のレベルに合い、意欲を掻き立てられ、スモールステップで達成感が満たされ、気持ちが高揚…という状況が持続する、つまり少なくとも今までよりは熱中する分消費するエネルギーも増える、ということになりますから、それだけ疲れやすくなってしまう、ということになります。

言うまでもなく、適切な療育を受けることは本人の成長にとって好ましく、良い影響を受けることは間違いないでしょうけれど、その反面疲労からくるさまざまな短所・不都合が発生する可能性も高くなる、ということは頭に入れておく必要があるだろうと思います。

なお、これらとは別次元のお話として、子どもが疲れた時に見せる沸点の低さとそれに伴う不適切な行動を学校や療育の先生に見せることは、それはまた違った一面に気付いてもらえるチャンスだとも言えます。この不適切な行動への対処法を一緒に考えるためにも有益なこととなります。

こう考えると、適切な療育も両刃の剣となる部分と、更に療育を深化させる可能性を獲得できる機会の両面があることに気付かされます。世の中を一面だけで捉えることは、視野を狭くしますし、結果として損をすることにつながりやすくなりますね。

何はともあれ、新年度もよろしくお願いします。

2015年3月 1日 (日)

(497) 能力が無い、低い

発達障害に関わっていると、○○する能力が無い(欠如している)、低いという表現を見聞きすることが多くなります。

最たるものは、注意欠如(欠陥)多動性障害というネーミングでしょうか。それ以外でも、人への関心やコミュニケーション能力、集中力、協調性やこだわり等に関して、そう表現されてしまうことがあり、息子を含む彼らの言動を見ていると、確かにそれもやむなしだな、と感じることはあります。

この能力の有無や高低って、それ自体には主観が含まれていないはずですが、実際のコメントを見聞きした場合、どうしても受け取る側には非難や軽侮されたような印象を与えがちだな、と感じます。

やはり、社会一般では能力は無いよりはあった方が、低いよりは高い方が良い、という価値観が前提にあり、その価値観が私達に幼い頃からの積み重ねで刷り込まれていることから、そのような印象を感じてしまうのではないか、と考えています。つまり、我々の価値観に能力絶対肯定主義が内在してしまっている、ということかと。

確かに、能力ってあって困るものではありませんし、大抵のものごとにおいてできないよりはできた方がよく、できるならよりできた方が有益かつ便利であることは、間違いないことではあると思います。

強いて言えば、人間は全ての能力が無くても、多少できないことがあっても生きていけるとは言えますが、それは能力絶対肯定主義を否定するものではありませんよね。

ただ、たとえ真実ではあっても、それ自体が言葉の刃になり得ることってあるなあ、とは感じます。

そういう表現の端々に、パッと見には客観的であるように感じさせながらも、社会の価値観が含まれていることがあるということを、しっかり認識する必要がありますね。

2015年2月22日 (日)

(496) 受容の中の詭弁

「何だ? このタイトル」と思われたかも知れません。

段々書くネタが無くなってきて、センセーショナルな見出しに頼るようになったか? と批判されるかも知れませんね。それは、甘受します。

帰宅途中にふと気付いたことですので、思いつきに近いのかも知れないことではありますがcoldsweats01、実は、受容という言葉は、単純にあるがままを受け入れるということを意味していないのではないか、ということに思い至ったのです。

何を言っているのかというと、単純にあるがままを受け入れるのだけでは足りず、one状況を前向きに捉え、更にtwo自らの人生を肯定するところまで含んでいるのではなかろうか、ということです。

よくよく考えてみると、このonetwoってかなり強い価値観だと言えます。一方で、なぜこれらの価値観に基づかなければならないのか、について全然説明されていません。即ち、あるがままを受け入れると、どうしてそれを前向きに捉えられるのか、また自らの人生を肯定できるのかがわからないということです。そういう点では、論理的でないと感じています。

何もそんなことまで言っていないではないか、という反論はあり得ます。でも、実際どうでしょうか? 

例えば、子の障害について悲観的に捉えていたり、「もうだめだ」と自棄になって天を呪っていたりする人って、残念ながら少なからず社会に存在しています。そして、あなたはそういう人に対して「ああ、この人は障害の受容ができている」と評価しますか? 

まずそうではないことを考えると、私が申し上げている問いの意味がお分かり頂けるものと思います。受容したからには、絶対に前向きに捉えていて、人生を肯定しているはずだ、という価値観、もっと言えば思い込みが含まれているのです。

ただ、禅問答では、世の中を構成する全ての存在を明らかにすることは、迷いがなくなることに繋がり、諦めの境地に至る、つまり悟りを得るということになるのだそうですから、この点では、「障害の受容」も子が障害者であることを明らかにすることである、ということから類推すると、それを前向きに捉えること、その与えられた条件の中で人生を肯定することにつながりやすくはなるかな、とは思います。

ただ、禅問答も宗教的なバイアスがかかっており、これは、やっぱり詭弁だと評価せざるを得ないと考えます。そもそも、こういう議論は、社会的には望ましい方向性であるがゆえに、途中経過を省いていても批判しにくくなることは否めません。また、最終的には、そういう結論になるのかも知れませんけれど、やはり丁寧さに欠けているとは感じます。

これについては、異論もあるでしょう。けれども、何事も批判的に見ることは、良さそうなことについてもそうあるべきだと考えており、この点はご理解いただきたいと思います。

2015年2月14日 (土)

(495) 叱れば動くこともなく

今は、共働きが普通の時代となりました。

それでも、家計において一般的には妻の収入の方が低いことが多く、その過半を担うのは夫側である、ということは、現状では決して珍しいことではないと認識しています。もちろん、ジェンダー論的にはいかがなものだろうか、という問題意識はあるものの、現実を基に議論をしないと発散するので、ここではそこに立ち入らないものとします。

会社において上司が数値目標を示して、その必達のために檄を飛ばす、うまくいっていない部下をしっ責するということは、普通にあることだと思います。

そういう厳しい環境の中、お父さんが家庭人として家族のことを思い、頭を下げていること自体は、素直に尊いことだと思うのです。

ただ、このようなどこの会社でも見られる悪い「常識」に捉われているうちに、立場が変わった際に、自分も他者をしっ責すれば、自分が思うように動くようになる、と大きな誤解をしてしまうのではないか、ということを危惧しています。虐待の連鎖ならぬしっ責の連鎖です。

私の感覚では、数値目標を満たしていないことに対してあれこれとしっ責してくる上司が、同じ口で「目的意識を持たなければだめだ」「自分で考えて行動できるようにしないと」と言うのは、言う側に大きな矛盾があると思います。自発行動を促すのであれば、しっ責ではなく教導すべきでしょうし。

私達が関わっている障害児育児の常識として、良くない行動に対してしっ責すれば良い、等と言われることはありませんよね。もしかしたら、障害児に対して叱ってはダメで、健常児ならしっ責しても良い、のでしょうか? ちょっと考えれば、そのようなことはないですよね。こういう叱りの効果に対しても大いに疑問を感じ、子育てのあるべき姿も考え直すべきでしょう。

しっ責に耐える、苦労をすることは、目的ではありません。望ましい行動を示して定着させることについて、日本人はもう少し前向きに受け止めるべきだと思います。苦労して体得することができる人は、決して多くありません。挫折リスク、誤解リスクも無視できませんし。

連合艦隊司令長官だった山本五十六氏を尊敬する経営者は、少なくありません。であるならば、その語録にある「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」についても、是非とも実践して頂きたいものだと考えています。

2015年1月17日 (土)

(491) できないこと

あなたは、何かができない時にどうしますか。

どうしてもやる必要があって、放っておく、諦めるという選択肢が選べない場合、人の手を借りてでもやろうとしませんか(場合によっては、幾ばくかの負担を負うか(お金を払う、等)はともかくとして、です)。

社会生活を営む上で、「できることは自分でやる」「できることを増やそうと努力する」までは望ましいことであり特段異論は無いように思うのですが、どうしてもできないことについては、どうでしょうか。「できないと諦めるのは甘えである」「できると信じて、本人にできるようになるまで取り組ませる」というのは、少なくとも療育の分野においてはいかがなものかと思うのです。

そもそも、できないこと・不得手なことがあるからこそ障害があると診断されているのですよね。私は、努力で何とか克服できるものは障害特性ではないと考えていますし、実際人によってはどうしてもできないことというのはあると思うのです。

世の中で、絶対にその個人が独力でやらなければならないことってあまりないと考えており、誰かに頼むことができて、かつその頼まれた人がそれほど負担に感じないようなことであるならば、素直に頼んでやってもらった方が合理的ではないかと考えています。

ただ、どうも療育で効果が出ていると、次もイケるだろうと思い込んでしまって、実は能力を超えた負担を子に強いてしまう可能性が高くなります。せっかくできたのに、更にハードルが上がる一方であれば、いずれ疲れて息切れしてしまうことも十分にあり得ると思うのです。

このリスクを負うのは誰か。結論から言えば親では無く子であることを考えれば、もう少し慎重になるべきだと思うのですが、意外にそういうことは意識されにくいようです。確かに、たまたまうまくいってしまう場合というのは世の中に一定の割合であって、かつ成功談はウケが良いですから、これはやむを得ないことではあります。

ただ、やはり潜在的なリスクというのはあることを認識し、うまくいった人が声高に「為せば成る」と言っていても、安易に飛びついてしまうことは避けるべきだと思います。もちろん、よくよく考えて、過去実績を踏まえてこれくらいならできそうという内容であり、かつ万が一リスクが発現した時の対処まで考えているならば、この限りではありませんが…。

素直に人に頼めるということも、大切なスキルです。人に頭を下げることの価値を、過小評価してはいけません。それで、後に大きな失敗につながったりするよりは、遥かに良いことでしょうし。意地とプライドのために失うものは多いと思いますが、いかがでしょうか。

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