2019年11月10日 (日)

(684) 療育の成果

療育は、治療的教育と言われます。私は、子どもに教えるべきことを、子どもの特性に合わせ理解しやすいようにアレンジしながら、教えていくことだと理解しています。

従って、理解しやすい=速攻で体得できる、ではありません。場合によっては、特性に合わせたつもりが、方向性がズレていてあまり奏功しないということも起こり得ます。

まさにトライアルアンドエラーなのですが、この辺りを誤解されている方も少なからずおられるようです。療育機関に通っているから大丈夫、というのはその最たるものでしょう。療育機関に通わせていること自体は良いことですが、それは理解の端緒をつかみやすくする可能性があるというだけで、実際それを習得するのはその子であり、習得の速さもその子の持って生まれた能力の育ち具合に大きく左右されます。

見方を変えると、ある課題についてわが子があっさりクリアできたとしたら、それは療育の成果というよりも、ジャストのタイミングでその課題に取り組むことができたと解するべきだと思います。

また、方向性のズレというのは、健常児ならこの順番で能力を獲得していくという経験知が、時として役に立たない場合がある、ということです。

昔、何かの本で読みましたが、英語で障害を表す「disorder」という単語は、「dis」=否定(ではない)、「order」=順番、ということで、まさに「順番通りではない」というのが元々の意味だそうです。能力の獲得を見ると、発達年齢通りではないですし。

このような視点でわが子の得意不得意を見ると、療育に通わせているのに何でできないのだろうと悩むよりも、そういう特性なのだと割り切ることができて、心の中のモヤモヤが晴れていくのではないでしょうか。私はこの手の割り切りも、長丁場の育児の中では必要だと思っています。

 

2019年9月 7日 (土)

(678)お医者さんにできること

お医者さんは、「医療における総合プロデューサーである」という見方を、もっとされるべきだろうと思います。

医療行為における責任者であり、診断を下し、関係する医療スタッフに指示を出し、薬を処方する。もちろん、その指示や処方は適当な思い付きではなく、過去の医学的知見に基づくものです。また、一部は自ら実施することもあります。これがお医者さんにできることです。

よって、難病とされるもの、予後がよくないとされるものについては、医学的知見として治療につながるものが見つかっていないわけで、そうなるとお医者さんができることは限られてしまいます。

ただ、この仕組みを理解していることって大事で、お医者さんが治せない時にその個人が医者として治せないのか、医学的に見てどの医者であっても治せないのか、を区分する必要があると思います。

個人として治せないのであれば、それは他の治せる医者に行くという選択肢はあり得ます。しかし、医学的に治せないものは、他に治せる医者はいないのです。

後者の場合、治せないことをもって医療に絶望し、医学的に未検証なものに手を出すことが往々にして起きますし、気持ちが収まらないのであれば、それはやむを得ません。それでも、こういう事実を踏まえ、かつお医者さんたちも現状で良いと思っているわけではないことを認識したうえで、本当にそれに手を出すべきかをよくよく考える必要はあると思います。医学的に未検証なものを宣伝する人で、うまく行かなかった時に責任を取った例って聞いたことがありませんから。

お医者さんが誠実であればあるほど、治せないことを率直にお話されるでしょう。それは、歯を食いしばってもキチンと受け止めるべきだと、私は考えます。

2018年11月18日 (日)

(656) スペクトラムの捉え方

息子の障害を知り、発達障害の世界に足を踏み入れざるを得なくなった時、「自閉症は、知能の高低とは別に自閉症そのものの軽重もあるスペクトラム(連続体)であり、自閉症者は健常者とも連続する存在であること、」ということを学びました。このこと自体は、10年以上が経っても間違ってはいないと思います。

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2017年11月 4日 (土)

(618) 親と療育の専門家

気が付くと早いもので、我が家が息子との療育的関わりを始めてから、10年が経ちます。

10年という期間は、大人にとってもそれなりに長いものですが、子どもにとっては更に重みを伴った長さ、とでも言えば良いのでしょうか。まだ幼稚園に通い始めて間もなかった頃から中学生生活が折り返しを迎えるまでの10年というのは、大人に比べて格段に変化も大きなものでした。

当初は、

指示が通らない、こだわりが強い、偏食、オウム返し、不器用、お遊戯に参加できない、友達との関わりができない…

という状態だったものの、本やネットから発達障害に関わる情報を集め、この子に今必要なものは何だろう、と常に考えて療育施設に通わせてきたこともあり、これまでに

やるやらないはともかく、指示は理解できる、こだわりらしいものはあまり感じられなくなった、食べ物も、新奇なものでも試してみよう、一口は食べてみよう、というスタンスになった、会話は成り立つようになったし意外に助詞は間違えなくなった、不器用さは相変わらずで今でもお箸トレーニングをしているものの、息子独特の発展形による橋遣いが奇異に見られないのであれば、日常生活で困るレベルではなくなっている、集団での行事ごとに対する不満は今でも言うけれど、合唱コンクールの始業前の練習にも早起きして出るようになった、おまけに口パクでも良いよ(本当は良くないけれど)と言っても、それは嫌だというようになった、友達がたまに我が家に遊びに来るようになった…

というように、かなり変わってきました。

親としてはやれやれと思いつつも、この後高校、更に就職をどうする?という問題に関心が高まってきた一方で、その分、かつてそれなりに精力を傾けて行ってきた療育についての興味は薄れてしまっている、忘れかけているというのが正直なところです。

この点、専門家の方々は、その時々に必要なことについての知識を持ち、更に勉強会等でアップデートを心掛けており、とても頼りになる存在だと思っています。彼らの大部分はそれぞれの持ち場において、ベストを尽くしてくれていると思います。それが仕事だ、と言えばそれまでですが。ある意味、専門家は発達障害児の成長マラソンにおける給水所の役割を担っているとも言えるでしょう。

昔に比べれば、療育施設の数も格段に増えています。選ばなければ以前のように療育施設に申し込んで通えるようになるまでに1年待ち、みたいなことも減ってきています。また、NHK等でも、発達障害を取り上げる機会が増えていて、「発達障害? 何それ?」的なリアクションを受けることは、まず無くなりました。

一方で、療育に携わる人員の数は増えても、子の人生に長くかかわるのは親、成長に対して一義的に責任を負うのも親です。成長マラソンの支援者は親であり、専門家の側で随意につないでいってくれるわけではありません。

更に、中学生になって課題が大きくなってくると、個々の課題についての療育の専門家はいるとしても、本質的な問題である、「どのように生きていくことがこの子にとって良いのか?」に対して総合的に考えられる専門家というのは、基本的にいないのではないか、と感じるようになりました。

具体的には、専門家は「こういう仕事は特性から向いている」とは言えても「その仕事が今後も継続していくという見通し、賃金はいくらくらいか、その仕事に従事している者の中で、発達障害の人間の割合はどれくらいか、逆に本人の適性の中で、その仕事が最適だと言える理由はあるのか」等の問いに対しては、答えを持ってはいないだろう、ということです。

発達障害児なりにも成長はするものであり、こうすればできないことができるようになる、というそもそもの「できないこと」が減っているという要因もあり、個々の療育テクニックも、それ自体が手段となるというよりは、会話や指示の中での間接的な行使に移行してきます。

これを「障害をある程度克服できてきた」と、前向きに捉える見方もあるでしょう。でも、その先には、専門家がおらずフローチャートもない、健常児育児に近い子育てとなっていく、ということを頭の片隅に置く必要があります。

そうなることを望んでいた10年前、一定程度そうなってはきたものの、不得手な部分をどうすれば良いのかに対する解がない無い今、手探りであることは、やはり変わりません。

ただ、やるべき課題が目の前にあって、それに対応するというこれまでの育児スタンスを変えていく必要があるな、と感じています。

2016年11月19日 (土)

(579) しつける側のハンデ

発達障害の子は、「人のふり見て我がふり直す」が不得手です。

人への興味が健常者よりも低いことにより、そもそも人に注目して見ることが少ない、更にその「人のふり」にどのような意味が込められているのかも読み取れないため、結果として「非常識」な行動を平気でして怒られる、ということも珍しくありません。

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2016年9月25日 (日)

(571) ABAで持ち上がった知能

我が家では、就学前から息子に対してABAによる療育を行っていました。

それにより、できることも増えましたし、結果として知能指数も伸びました。

知能指数は、多少の変動はあるものの基本的には変わらないものとされていますから、明らかに伸びた数値を見て、ABA療育の効果を実感しました。

ただ、これって持って生まれた知能だと思って良いのか、という疑問を最近になって親の私が感じるようになってきました。中学校に入って勉強する内容が難しくなったことはもちろん否めませんが、ここのところの息子のつまづきを見ていると、どうも新しい概念やルールの習得にかなり手こずっているように感じることが増えてきましたので。

上げ底というと表現が悪いですが、学業面についてはABAによる介入前の、元の知能レベルでの対応を考えた方が良いのかも知れない、と感じています。

ABA療育って、正しいやり方を示し、やらせて褒めて強化し定着させるというのが基本ですが、考えようによっては受験テクニックのように学問の本質理解とは離れた部分があるのかも知れません。ゆえに、教えたことは定着するけれど、教えていないことは本質理解が無いだけに考える基礎ができておらず、それが無ければ先に考えを発展させられないものがあるのかも知れない、という疑念があります。

とはいえ、ABA療育を否定するものではありません。何より、ABA療育によりできることを増やしたことは間違っていないと確信していますし、それで親も本人も助けられたのも事実ですから。ただ、それとは別の問題があるのかも知れないなあ…と感じるこの頃です。

2016年9月18日 (日)

(570) 異なる方向性

「子どもの将来に幸多かれ…」と思う。

障害の有無に関わらず、親が持つ子に対する普通の感情だと思います。

ただ、障害児の場合、自分でできることが健常児よりも少なく、できる程度も一部を除いて低くなりがちです。

障害児の親は、それを補うために療育をすることとなります。

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2015年7月 4日 (土)

(515) 量を減らす

発達障害の子は手先が不器用なことが多い。だから、健常の子と同じ量をやるのは負担感が大きく、過大な課題(シャレではありませんw)はやる気を損なう可能性がある。ゆえに、量を調節してあげると良い。

…という親向けの指導が書かれている本が散見されます。けれど、これについては一つ抜けているところがあるのではないでしょうか。

これだと、理解できているか、身に付いているのか、ということへのチェックが無いのです。

理解できている、身に付いているようであれば、もちろん量を調節して減らすというのはアリです。でも、このチェックも無しに、ただ量を減らしただけでは、みんなと一緒に取り組むという形式は満たされても、実質的に理解もできておらず身に付いてもいない、ということになってしまいます。それで良いのでしょうか。

やる気を重視することは、もちろん大切です。その意欲を摘まない、というニーズもわかります。けれども、やっても理解できない、身に付かないという状態が継続すると、それはそれで達成感が得られないことになります。

これに対しては、理解できていない、身に付いていない課題について、やはり時間を置いて再度チャレンジさせるとか、指示の出し方、伝え方等を工夫するといったフォローが必要になるだろうと感じます。ですから、ここまで親に一連で指導する書き方にしないと、余計な混乱を生じさせたり、後になって困ってしまうことになったりすることを危惧します。

発達障害児への療育での取り組みには、このような細かな部分への意識も必要になってきますね。

2015年5月23日 (土)

(509) その道の「ツウ」

発達障害のある子を抱えている親御さんで、療育施設を全く利用したことがないという方は、あまりいないと思います。民間施設があまりない地方であっても、公的施設(小児発達センターや特別支援学校での未就学児向け開放講座等)を利用される方って少なくないと思いますし。

都会は、選択肢が多いと言えば聞こえが良いですが、玉石混交であるとも言えます。この点、皆さんかなりシビアに見ておられるようです。

実は我が家では、比較的最近できた新しいところに通い始めました。そうしたところ、そこで以前別の施設で顔見知りだった親御さんとバッタリお会いすることとなりました。こちらは、まだその施設を完全にやめてはいないものの、回数を減らすという対応であったところ、そう言えば、この方とは全然会わなくなっていたなあとその時に思い至りました。このように、我が子の成長を期して、皆さんしっかり療育施設でやっていることとその効果を見極めているんだな、ということを改めて感じました。

この手の動きは、表立ったものにはなり得ませんよね。個人の静かな動きでしかありませんから。けれども、皆さんモノ言わざれども確実に動いている…。決して療育施設に任せて安心…にはしていない方が多いのだな、と感じます。

正直なところ、我が家でも「うーん、ここはイマイチだな」と思ったからこそ他を探したのです。そうであれば他の方もそういう動きをされる可能性があるということは、当然予想できるわけで、特筆すべきことではないという評価もできます。この点について、むしろ私達が感じていたのと同種の不満を感じていた方が他にもいたという事実に、妙な共感意識を持ってしまうのも正直なところです。逆に言えば、自分の判断はあながち間違っていなかった、と不安を打ち消す材料にもなることですし。

療育施設って、やめるのにも勇気がいります。でも、時間とお金は有限ですし、「子供の成長は早いもの」ですから、逡巡しているわけにもいきません。エイヤーで決めざるを得ないのは不可避であり、その精神的負担感が和らぐのは素直にありがたいと思います。

この世界に入ってもうすぐ二桁年になろうとする中で、多くの療育施設と関わってきました。その経験から判断をしていることを考えると、その道の「ツウ」になってきたことが、嬉しくもあり哀しくもあり…

2015年4月 3日 (金)

(502) 適切な療育を受けると

タイトルを見て、「伸びる」「成長する」を連想された方、残念ながら今回の趣旨とは異なります。

「は? 伸びないの?」と突っ込まれそうですね。もちろん、そうではありません。伸びるし成長すると思っています。

「じゃあ何が言いたいの?」と怒られそうなので、そろそろ自分の思いをお伝えしますが、「適切な療育を受けた子は、疲れる」だろうと思うのです。

…拍子抜けしました? 「このオジさん何を言っているの?」って更に怒りを買ってしまったかも知れませんね。

これに対しては、少し真面目にお答えします。まず最初に、ちょっと考えて頂きたいのは、普段通っている学校や療育機関で適切ではない授業・療育を受けていたとすると、大抵「つまらないorわからないから集中力が途切れて、課題から意識が離れる」ことが多くなるだろう、ということです。

このようなことは、当然本人の気分も良くないでしょうし、やる気も意欲もダダ下がりになることは容易に推測されます。でも、この場合、熱中していない分エネルギーの消費も少ない⇒疲れにくくなるのではないか、と思うのです。

ところが、適切な療育を受けた場合、本人のレベルに合い、意欲を掻き立てられ、スモールステップで達成感が満たされ、気持ちが高揚…という状況が持続する、つまり少なくとも今までよりは熱中する分消費するエネルギーも増える、ということになりますから、それだけ疲れやすくなってしまう、ということになります。

言うまでもなく、適切な療育を受けることは本人の成長にとって好ましく、良い影響を受けることは間違いないでしょうけれど、その反面疲労からくるさまざまな短所・不都合が発生する可能性も高くなる、ということは頭に入れておく必要があるだろうと思います。

なお、これらとは別次元のお話として、子どもが疲れた時に見せる沸点の低さとそれに伴う不適切な行動を学校や療育の先生に見せることは、それはまた違った一面に気付いてもらえるチャンスだとも言えます。この不適切な行動への対処法を一緒に考えるためにも有益なこととなります。

こう考えると、適切な療育も両刃の剣となる部分と、更に療育を深化させる可能性を獲得できる機会の両面があることに気付かされます。世の中を一面だけで捉えることは、視野を狭くしますし、結果として損をすることにつながりやすくなりますね。

何はともあれ、新年度もよろしくお願いします。

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    こちらの派生ブログです。 こちらが息子を中心に息子の成長の様子や成長に関わり教育や社会について考えたことを書いているのに対し、同じ発達障害絡みではあるものの、広く社会一般を理解する一方法を軽く書いています。 せっかく学んだ発達障害の知識を生かすとすれば、という視点で書いています。
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