2017年4月30日 (日)

(598) 特別支援学校の在籍者急増に伴う教室不足に思うこと

今朝のネットニュースに、標記の記事が掲載されていました。

http://digital.asahi.com/articles/ASK4X0QSNK4WUTIL07N.html?rm=569

親の側の理解が進んだことが一因となっていることは、間違いありません。それは評価されるべきことだと思います。

一方で、不足するくらいですから志望者はもちろん増えているのでしょうけれど、それが急だったのかと言えば、そうでもないようです。少しずつ、じわじわと、それでも確実に特別支援教育へのニーズが深まった結果としてこのような事態に陥っているのですから、じゃあ文科省は今まで何をやってきたのか? と聞きたくなってしまいます。

インクルーシブ教育推進と、特別支援学校の教室不足は、感覚的に方向性に矛盾が生じているのは否めません。「障害がある子とない子がともに学ぶ」ことを推進するならば、特別支援学校の存在自体が真逆の方向を示すものだからです。教室不足を奇貨として特別支援学校そのものを縮小化していく、というのも考えとしてはあり得ると思います。

ただ、本来教育は私事性があります。子の教育についての方向性は、第一義的にはそれぞれの家庭の考え方を尊重すべきであり、現状のように、特別支援学校を志望する親が増えているのであれば、その意思を踏まえて行政としてできることをやっていく、という考え方もあると思います。

むしろ、家庭の側でその選択ができる環境を維持することが大切で、国としてどちらか一方をエイヤーで決めて選んでしまうという考え方こそ、厳に慎むべきだと思います。

なお、インクルーシブ教育については、もう少し拡張して捉えた方が良いのではないかと思うことがあります。東京に住むようになって感じることですが、優秀な子の多くが小中時代から私立に通っていて、彼らは障害児と過ごすこともなく社会に出て、かなりの確率でその優秀な能力を基に主要な地位を占めることになっている、という現実。こういう流れを無視してインクルーシブ教育を主張しても、どの程度意味があるのでしょうか。

2017年2月25日 (土)

(593) 発達障害と主治医

発達障害は、持って生まれたもので、かつ今の医学では治らないとされています。従って、絶対に医師に診てもらわなければならないものでも、診てもらえば治るというものでもありません。

しかしながら、医師の診断を受けることで初めて診断名を得ることができ、それを基に例えば障害者手帳の取得ができる等、手続きを進められるようになります。

ただ、児童精神科医の数は少なく、どこの市町村にも普通にいるものではありません。たまに無医村がマスコミ等で問題として取り上げられることがありますが、児童精神科医については、無医市町村の方が遥かに多い一方、それを取り上げられることはありません。

昨今、発達障害に注目が集まるに連れて、診察を申し込んでも中々診てもらえない状態だと言われます。たまに新患を受け付けると、あっという間にそれも満杯になる、というお話を、息子の主治医から伺ったことがあります。

一方で、最初の診断の時から、成長過程の折々で相談できる主治医の存在は、やはり必要なものだと感じています。従って、今の状況は改善すべきことだと考えます。どうすれば、或いはどうなれば児童精神科医が増えてくれるのでしょうか。

他の診療科だと、実際に診てもらう時間は数分のことが多い一方で、児童精神科に息子を連れて行った時に数分で済むことは、経験上ありません。それで、窓口での支払額が時間数に見合って高額になるのかというと、そうでもありません。これって、診療科を選ぶ時にインセンティブが働きませんよね。

しかも、現状では治らない。主「治」医という表現の妥当性が問われる中で、医師としてのやりがい、モチベーションがどうなのか、ということも影響するだろうと思います。達成感が得にくいでしょうし。

それでも、敢えて児童精神科を選んで頂いた医師には、もっと感謝した方が良いのかも、と思っています。

2016年12月29日 (木)

(585) 療育施設の一風変わった使い方

タイトルを見て、「療育施設は、障害のある子に療育を受けさせるための施設だろう?」と思われる方は、健全です。

私もそうだと思っておりましたが、ある方の意見を伺って、ちょっと目から鱗でした。

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2016年12月18日 (日)

(583) 障害児親に必要なサービス

この週末、妻が療育施設に通う親の有志による忘年会に行ってきました。とても楽しんで帰ってきたようです。

子に障害が無ければ出会うことも関わることもなかった人たちではあるものの、こういう集いを開催しようという機運が仲間内で盛り上がり、実際に会って話すことで日ごろの思いを語り合えるというのは、精神の健康を保つうえでもとても大切なことだと思っています。

発達障害に限らず、障害のある子を育てるというのは、自分の意思が伝わらない、不測の行動により世間様から厳しい目で見られる、或いは批判的なことを言われる、夜もおとなしく寝てくれるとは限らない、等々とてもシンドイことであるのですけれど、だからこそ親にとっても息抜きの場というのは絶対に必要となります。

その息抜きを実現するためには、一時でも親の代わりに子の面倒をキチンと見てくれるサービスが必要となります。この種のサービスは、昼間であれば提供してくれるところもあるようですが、これが夜となるとどうでしょうか。もしかしたらあるのかも知れませんが、まだまだ数は少ないでしょう。寡聞により私が認識できていないだけかも知れませんが、私の周辺には無いと思っています。

親が謹厳実直に常に全精力を持って我が子に向き合え、というのは抗しがたい正論ではありますが、たまの息抜きまでも否定してはならないと考えます。真顔でこのような正論を言うのは、人を追い詰めます。障害のある子を育てているとしても、その親が楽しむことを諦めさせられる理由は無いのです。

夜もキチンと預かってくれるサービスが拡充することを願いますし、そのサービスの利用により親が取り戻す英気を軽く見てはならないと思います。

2016年12月10日 (土)

(582) 発達障害児育児と持ち家(2)

今回は、(580)での記載内容とは別の視点で考えてみました。

持ち家に伴う転居については、それまでと基本的な生活圏が大きく変わらない範囲での移転と、生活圏が全く変わってしまう移転がある、と思います。特に、我が家の場合、いずれ実家に帰って住む(相続する)ことを考えており、それは首都圏から完全に離れることとなりますから、後者に該当することとなります。

この場合、障害のある子をどうするのか、という問題に突き当たることとなります。

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2016年11月26日 (土)

(580) 発達障害児育児と持ち家

マイホームhouse、おお何と甘美な響き…happy01

子どもがある程度大きくなったら、持ち家を考えるという方も多いでしょう。健常のお子さんを育てている場合、お金の問題を除けば(そう簡単に除ける問題ではない、というご意見はその通りです)、そういう発想は全くナチュラルだと思います。

しかし、私たち発達障害の子を育てている家庭ではどうでしょうか。

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2016年11月12日 (土)

(578) 不登校について(2)

不登校となる子は、規律但しさ、集団行動、個を犠牲にするという点では確かに普通の子に比べて劣ると思います。でも、その評価が万能で、今後もそれを以てすべてヨシとできるのか、については大いに疑問がわきます。

今までの学校教育は、戦後復興から高度成長期には見事な適応を見せ、そのおかげで社会は急速に進歩してきました。でも、バブル崩壊後の長い不況の時期を経て、今一度行動成長期のようなことが起こるのかを考えれば、明らかに無理があります。つまり、教育制度も、今までのやり方を墨守するだけでは、大人になって社会に巣立った時に役に立つ人材の供給につながらなくなってきていると思うのです。

これまでの日本のコアの労働力となってきた、「中の上」の頑張り屋さんだけでは、不透明な先行きを見通すことも、乗り越えることも難しくなってきています。私は、パラダイムシフトを起こすような異能を探し、育てなければならない時代となってきたと受け止めています。

少なくとも、これまではおざなりの対応しかなされず、未活用のままで済まされてきた不登校者の活用について、今一度対応を考えるべき時に来ていると思うのです。人類の進歩の過程で、淘汰されることなく一定程度必ず生まれてきている彼らには、何らかの役割があると思った方が自然であり、学校に行かない=ダメな奴ではなく、それでも学べる方法を整備し、その独特の感性や視点から生み出されるもの、それが何かは私も凡人ゆえにわかりませんが、その独創に期待すべきだと思うのです。

もちろん、その全てがパラダイムシフトを起こすような大きなものばかりではないのは承知しており、この発想自体が楽観過ぎかもしれません。でも、「じゃあ他に何かあるのか?」と問われたら、何もないのも事実であり、少なくともその成果を見定めることをしても良いのではないでしょうか。

ブラック企業、過労死とも今の仕組みが限界にきていることを示しており、今の仕組みを変えるための試みは、無駄にはならない。私はそう考えます。

2016年11月 5日 (土)

(577) 不登校について(1)

幸い、まだ息子は不登校にはなっていません。

その危機は少なからずありました。でも、その都度息子に対して説得を行い何とか気持ちを変えさせることができ、これまでは何とか学校には通い続けています。もっとも、そういうやり取りをする時期を過ぎたのでしょうか、最近ではそこまでクリティカルな状況に陥ったことはないです。

我が身を振り返ってみると、私が中学生の頃の学校観は、ものすごくシンプルでした。

学校は「行くところ」、「行かなければならないところ」

であり、それ以上でもそれ以下でもありませんでした。ですから、そのことについてアレコレ考えることもなく、その必要もありませんでした。

ただ、大人になって考えてみると、単純に「行けばよい」、或いは学校に「行きさえすれば問題解決」なのかというと、それは違うと思います。

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2016年10月15日 (土)

(574) 正しいけど本質ではない

息子が小学校時代に通級指導教室に通っていたことは、既報の通りですが、そこで一緒に学んだお子さんというのが何人かいます。

先日、その中の一人の保護者の方と妻がバッタリ会ったそうで、双方のその後の様子について、ひとしきり話に花が咲いたようです。

ただ、その保護者のお子さんは、今は通級には通っていないそうです。何でも、小学校時代にクラスの男の子から「お前、○○学級に行っているんだろ、バカなんだな」とからかわれたことがあったそうで、そういうことがあって行くことを嫌がるようになり、中学では通級に通うことをやめてしまったとのこと。

こういう話を聞くと、ものすごくもったいないなあと思うのです。

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2016年5月 8日 (日)

(553) 表面的な取り繕い

最近は、暴力はもちろん暴言も公共の場・教育の現場で許さない風潮が広がってきています。

これは、とても結構なことだと思うのです。少なくとも私が子どもの頃は、ひどいからかいや悪口は当たり前、時には取っ組み合いのケンカもあったことを考えれば、隔世の感があります。

とはいえ、それが本心と結びついた行動なのかについては、疑問符がつきます。周囲からそういう風に指導されているから仕方がなくそうしている、という子も少なくないでしょう。

問題は、それが沈潜して別の形で表出してきているのではないか、ということだと思っています。昨今はちょっと聞かなくなりましたけど、学校裏サイトでのひどい誹謗中傷、LINEをめぐる軋轢・グループはずし等のイジメなど、何かの拍子に心の闇が噴き出すようになってしまっている感があります。これらは、ますます隠れた方向でしっかり残っていきそうです。

こういう風潮になると、表は何事も無かったように振る舞われていたとしても、裏で何をされているか分からない、知らぬが仏状態なのではないか、という疑心暗鬼が広がって、攻撃対象とならないようますます「空気を読む」ことに精力を注ぐようになる結果、それだけで疲れてしまう子が出てきてしまうのもやむを得ないですよね。

こういう風潮では、発達障害の子は極めてやっていきにくいだろうと思います。表面的には何も無いなかで、自らの感覚では察知できない何かがやはりあって、それによって確実にやりにくく生きにくくなっていく。

異質なものを「放置する」「生温かく見守る」というソーシャルスキルは、健常児でも発達途上では皆が身に付けられるものではなく、ある程度の衝突は不可避であろうと思います。

発達障害は、ブームと揶揄される程度には人口に膾炙するようになってきましたけど、それによって何も変わらないのだとしたら、まさにブーム以上にはなりません。表面的な取り繕いを越えて健常者の理解を得られるようになるのには、まだまだ時間がかかると思います。

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    こちらの派生ブログです。 こちらが息子を中心に息子の成長の様子や成長に関わり教育や社会について考えたことを書いているのに対し、同じ発達障害絡みではあるものの、広く社会一般を理解する一方法を軽く書いています。 せっかく学んだ発達障害の知識を生かすとすれば、という視点で書いています。
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