2017年10月21日 (土)

(616) 最近感じていること

今回は、発達障害とは内容が外れています。

元々何となく感じていて、先般の高速道路煽り停車による死亡事件で「ああそういうことか」と気付いたのですが、人間の成功は、努力できる才能と、我慢できる才能の2つで決まるのではないか、と。

元々の知能の高さとそれによる理解力の高低も全くないわけではありません。それでも、興味を持ったことを探求して自分の能力にまで高められる才能と、その過程で蓄積する疲労を甘受し、ほかのもっと平易に手に入れられる享楽に釣られない才能を持っているか否か、でその人の人生の大きな方向性、幸せの量が決まるのではないか、と思っています。

人間、そもそも努力できなければ、身につく能力もおのずと知れてしまいます。そして、不快に対する耐性が低いと、身につける能力の量と質が更に下がります。また、それに加えて、我慢できないことにより何かきっかけがあれば、他者への攻撃性も増すこととなります。

努力でき、我慢できる人は、そういう子が集まる学校に行ってそれが当たり前になるとともに、その才能を更に広げていきます。そうでない人は、努力や我慢ができない人が集まる学校に行って、お互いに傷を舐め合うか、不満をぶつけ合うサバイバル生活に陥ります。

それが社会に出たらどうなるか…火を見るよりも明らかですよね。

しかも、努力できる側の問題として、彼らは出来ない側と幼い時に別れて交わらずに育つことが増えています(少なくとも、首都圏ではそうですよね)。仲間意識のない両者が、社会の中で共存(正確には、社会的地位による支配と服従)するのって、お互いにものすごくストレスフルになります。

かつて、一億総中流と言っていた頃とは、明らかに時代が変わっていて、お互い様意識が薄れ、双方が分断されてきていることを、もっと真摯に受け止めなければならないと思います。

お互いに相手が全く別の世界の「連中」で、特にできない側がやむなく従うしかないという関係性の認識に至った時、自分が守るべきものの小ささと自らの不満への我慢能力の低下が背景にある時、何かの機会があれば簡単に火を噴くこともあろうと思うのです。

今までの一億総中流意識の残滓として忘れがちになっていますが、治安はタダではありません。固定化しつつある社会的地位、非正規雇用による生活不安、貧富の差の拡大、が強まれば強まるほど、下側に行った人の今の社会に対する不満も高まることは必至です。

私も、グローバル化、規制緩和、自由競争は本来あるべき姿だと思っていますが、その実現に向けて発生するこれらのリスクというのは確かにあって、それに対し何ら対処をしないのは、国民の幸せの総量が下がる。そう思っています。

2014年11月 6日 (木)

(481) イヤな風潮

いきなりですが、日本は戦後もうすぐ70年が経とうとしています。この間、国民は曲がりなりにも戦禍に苦しむことも無く平和に過ごすことができています。波風が立たず、秩序が保たれた状態が長く続いている、と評価することもできます。

しかしながら、その過程でバブル崩壊後20年以上が経過し、景気の悪い時代が長く続き社会の隅々から余裕が失われてきました。しかも消費税は上がり、追加利上げも視野に入り、加えて既に年金の受給開始年齢は引き上げられています。今の若者は、景気が良いという経験をしたことがないのです。

他方でここ数年、パソコンが無くてもスマホから簡単にネットに接続できるようになり、情報を得られるようになりました。その裏腹で、出版不況が恒常化するようになっています。かつて、時間つぶしに文庫本を携えて行くことは普通にあった生活の知恵ですが、今では時間つぶしもスマホに取って替わられた感があります。結果として、深く物事を考える習慣が薄れ、コピペばかりで表現も独創性が失われ、一つの情報に皆が簡単に乗っかってしまう危険性があるように感じます。

以上に述べたことが直ちに原因だとまでは言えないものの、何らかの影響はあるだろうと思っていることとして、今の世相を覆う閉塞感・将来への不安感に対する直接的・刹那的な言動・行動が増えてきているのではないか、という受け止めがあり、そのこと自体がさらに先行きに対する不透明感を増大させるというイヤな風潮を生み出しているように感じています。

この風潮の中で、障害児の親としては、福祉というものの世間の印象が昨今かなり悪くなってきていることを危惧します。

本来、福祉とは自由(競争)主義を前提としつつも、その行き過ぎに対する修正を行うための原理として存在する概念で、個人の尊厳を守るための一手段として認識すべきものだと考えています。

生活保護の受給者に対する攻撃的・侮蔑的な言辞、盲導犬に対する卑劣な傷害、児童養護施設に対する浅薄なドラマ化、マタニティハラスメント、電車の中でのベビーカー論争、白杖に対する批判、等は、皆人を人として尊重するという基本的な考え方が、まだまだ社会に浸透していないことを示していると思います。

確かに、できるのにやらない人がいるならば、改善の余地があります。それはそれで取り組むべきだと私も思います。でも、できないことはやれないわけですし、できない人・弱い人に代わって、できる人がいてその人の負担がそれほど大きなものでもないならば、その人にやってもらうこと・負担してもらうことは合理的だと考えます。少なくとも、それほど悪しざまに言われることだとは、私は思いません。

昨今、已むに已まれぬ思いを乗り越えて救いの手を求めている人がいる、このことへの想像力が少なからぬ人から失われてしまっていることは、とても残念に思いますし、そもそも弱い人を叩くことは全く美しくありません。そのようなことをして、それで本当に溜飲が下がるのか、大いに疑問です。

朝の通勤電車の車内放送で流れる、人身災害による他路線の電車の遅延情報が日常になり、それを聞いても腹立ちしか感じなくなる人が増えるのは、とても寂しいことだと思うのです。

我々が目指した社会はこのようなものだったのか、今一度考えるべきだと感じています。

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