2012年5月 9日 (水)

(328) 当事者本

私達保護者が自閉症のことを知ろうと思った時に、当事者が書いた本を読もうと思うことは少なくないと思います。ただ、その際に日本人が書いたものはそれほど多くないのが現実で、結果として海外の著作も対象とせざるを得なくなります。

いわゆる翻訳本になるわけですが、私の翻訳本への印象は一般に「読みにくい」です。どうしても文体が硬いと感じますし、その結果として読むスピードも遅くなります。

例に挙げるのは恐縮ですが、テンプル=グランディンさんの著書は、読むとやはりすごく疲れます。また、ドナ=ウイリアムズさんの著書は、テンプル=グランディンさんのものに比べると内容は平易なんですが、何で?という違和感を感じる部分が結構多くあります。

これには、日英翻訳の問題と健常者・障害者間の認知の差異の問題の二つがからみあっていると考えています。

まず、日英翻訳の問題ですが、これは身も蓋もなく言えば翻訳者の力量というファクターが大きいということなのでしょう。翻訳者には、外国語の意味するところを正確に把握して母国語に訳す能力が必要なのはもちろんですが、それに加えて母国語の読者の理解しやすさについての想定能力と、実際に理解しやすさを実現する国語表現力も求められることになります。

具体的には、読者が読んでわかりやすいか、どう書けば理解してもらえやすくなるかを工夫していく能力ということになろうかと思います。英語をそのまま訳しても通じにくいのは皆さん経験されていることで、ある程度の意訳を加えていくということになるのですが、そこでは、かなりセンスが問われます。つまるところ、日本語に訳したものが普通の日本人の書くものに近いと理解されやすくなるのですが、翻訳者の側として原文から離れることへの恐怖もあるのだろうとは同情しつつも、どうしてもこの視点でのチェックが2の次になってしまっているのではないか、と思うことが少なくないです。

ちなみに、自分が英文を読んでいる時に、カンマが連続している文章を読むと、何とも言えずかっちりしていないような違和感を感じます。そもそも日本語もその昔は句読点など使わなかった、という事実に鑑みると、英語圏の人は平安時代の日本人に近い感覚をお持ちなのか? 等と考えたりすることもできて、このあたりに正解はないのかも知れません。とはいえ、読んでスーッと頭に入ってこないところがあるのは、読者としてフラストレーションが溜まりますし、何とかしてもらいたいとは率直に思います。

次に、健常者・障害者間の認知の差異の問題については、これは努力して埋めきれるものではないと思いますし、これを翻訳者の責に帰すのは酷だと思います。障害者専門の訳者というのが存在するのかについては残念ながら知識がありませんが、そういう人がいない場合、経験と慣れという職人としての力量を発揮するレベルには中々到達できないだろうなあと思っています。

翻訳本は疲れる、でも日本語の本は少ないからやっぱり疲れても読んで理解を深めたい、という思いをずーっと抱いていましたが、先日読んだ「無限振子」は、日本人の著者が、純粋に当事者の書かれた世界を端的にわかりやすく書かれていて、自分のニーズに合致した希有の本だと感じました。

著者はカナータイプでありながら、精神科医であるという特殊なお立場であって、さすがに市井の人とは異なる一段深い書き方をされているように受け止めました。また、ドナ=ウイリアムズさんと同様に、表面的に社交的な別の人格を形成してそれで何とか世渡りしてきたというくだりは、極めて興味深かったです。高機能の人はそうやって生きていくしか方法がないのか、と感じました。

このような本が更に増えていくことを期待したいですが、高機能の人であってもその著書を読む限り皆が順調満帆な人生とはほど遠く、読み終わった時に何とも言えない裏寂しい思いを感じざるを得ないのも事実です。このことについては、やはり何とかならないものだろうかと思ったりもしますし、親ができることは今からでもやっていかないと、と改めて危機感を感じたりもしています。

2011年1月22日 (土)

(206) 働くことを考える

上岡一世著「自閉症児のY君が就職するまで━母と共に歩んだ指導の記録」(明治図書)を読みました。この本は、言葉の出ない自閉症児のY君が、高等部時代に教師と母親にサポートされつつ能力を伸ばして就職できるようになる(就職後の様子も若干出てきますが)までの様子を、主に指導記録(教師と母親の両方が記入)からの抜粋でつづった内容で、一つ一つの課題を根気よく習得させるよう努めた教師と母親、そしてその働きかけに呼応して成長してきたY君の様子が詳細に記載されています。ここまで持ってこられた努力に素直に敬意を表します。

著者は「働くこと=障害児の幸せ=実社会で堂々と生活できる」というスタンスでこの本を書かれているのですが、この本が書かれてから25年が経過した今、全く別のところで起こっている某社長の「恥ずかしいのは大人になっても自分でご飯が食べられないことだ」というコメントからスタートする騒動について考えてみました。

結論から言います。憲法13条で保障される「個人の尊厳」を達成するために各個人が自己実現に向けた取り組みをすることは疑いなく肯定されるべきものである一方、自己実現=自分でご飯を食べることではない、と考えます。正確に言えば、自分でご飯を食べられるようになることは、自己実現に向けた取り組みの発現形態の一つではあるのですが、それ以外の形もあり得る、ということです。その個人個人が納得した人生を歩み、それが社会のあり方とバッティングしない限りにおいて、他人がとやかく言うことではないなと思います。

ただ、大多数の人間が事実としてやっている「自分でご飯を食べること」について、親が本人の意思を無視または確認することなく最初から諦めるようなことは、恥ずかしくはないが宜しくもないと思います。単にパニックを恐れて負荷をかけないというのは親の自己保身であり論外としても、不得手であってもできるところまではやってみるという姿勢を持つことは、健常者だけでなく障害者にとっても望ましいことです。助け合いが大切だとは言われますが、助け「合い」はみんなが助けられる側にばかり回れない=助けることができる人の存在を前提としているわけですから、必然的な帰結だと考えます。

健常児も障害児もいずれは学校を終え、社会に出る時がやってきます。また、通常の場合親は子どもよりも先に亡くなります。その遠く見えるが日々を送るうちに確実に近づいてくる時を見据え、できることを増やす努力を継続していくことはとても大切です。

なお、ここで思うのは、健常児は自己実現のため自己の全ての能力を賭けて社会に挑戦していくこととなりますが、障害児はそれが難しいことがあり得ます。健常児の自由競争社会に対し、障害児は規制社会になる部分がある点で差は生じるな、と思います。とはいえ、それが本人と社会とで折り合えている限り、特段問題にはならないことだと思いますし、それで社会が回り、成り立つのならそれで良いことではないでしょうか。

2010年8月19日 (木)

(158) 読書の夏

本当は秋なんでしょうけど(笑)。子供達がいないのを幸い、数冊本を読みました。

・こんなとき、どうする?発達障害のある子への支援 幼稚園・保育園 (特別支援教育をすすめる本)

・こんなとき、どうする?発達障害のある子への支援 小学校 (特別支援教育をすすめる本)

・ケース別 発達障害のある子へのサポート実例集 小学校編

結局、今の息子には奇異な行動を取ることが少なからずあって、それに対してどうしたものかと思っていることから、その種の事例を集めた本を集中的に読むこととなっています。

基本、あまり厳しい叱責はせず、できる範囲のことをやらせて褒めて少しずつできることを増やしていく、ということになるわけですが、本人にやる気がいずれ育ってくるということを前提にしていて、そのエビデンスはあるのかな、と思ってしまいます。

結局、ここは信じるしかないというある意味宗教がかった部分になってしまいますが。

これらの本に共通する精神をそれなりに理解したので、妻子が帰ってきたらできるところから取り組もうと思っています。

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