2018年6月11日 (月)

(642) 病名によるレッテル

6月9日の夜に、新横浜~小田原間を走る新幹線車内で、男が突然刃物で周囲の乗客を襲い、男性一人が死亡、女性二人が重傷という悲惨な事件が発生しました。

亡くなられた方のご冥福、大ケガをさせられた方々の一日も早いご快癒を心よりお祈り申し上げます。

本件について取り上げたネットニュースは多々あったのですが、毎日新聞社が出元となった記事がYahoo!にも掲出され、そのタイトルについて疑義が出されました。そのまとめサイトが以下です。

【容疑者自閉症?】 毎日新聞の軽率な見出しに対してネット上で疑問の声・反論が続出、炎上中 - Togetter https://togetter.com/li/1235650 @togetter_jpさんから

このまとめサイトの存在に気付く前に、私自身Twitterで

https://twitter.com/Consciousnessof/status/1005563237172068352

https://twitter.com/Consciousnessof/status/1005565121442111488

等とつぶやいておりました。まとめサイトを見て、同じ思いの人がたくさんいて安堵しました。

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2018年6月 3日 (日)

(641) 障害に負けるとは

「障害に負けずに頑張っています」

よく聞くフレーズですが、では障害に負けるというのはどういう状態のことを言うのでしょうか。

元々、障害はdisability、つまりできる力が打ち消された状態を表しています。従って、障害があってそれが故にできないならば、できないのはむしろ当たり前だと思います。当たり前のことは、本来負けと評価すべきではないハズです。

しかるに、冒頭の表現はできないことをできるように努力している、その頑張りが負けていないと評価されるために必要だ、ということになります。

でも、こういうことであれば、負けではなく打ち勝っていると表現すべきでしょう。ことほど左様に、障害者は油断していると、当たり前のできない状態を負けと評価されるという理不尽が起こりやすいことを意識しなければなりません。健常者を基に評価基準が高めに設定されがちになるのです。

元々、集団行動を取れるのが当たり前、という世間の基準から逸脱した子を育てている私たちは、耳慣れた表現に潜む健常者ファースト意識に気を付けることが必要ですね。

2018年5月20日 (日)

(639) 療育と介護

ご無沙汰しております。

実は、今の私の負担感としては、息子に対するものよりも老母の方が重くなっていて、息子の方は、あまり記事にするようなイベントも発生していないのが実態です。

そういう状況で何かを書こうというのは、結構厳しいものがありますが、気付いたことがあります。それは、老母への対応はいわゆる介護となりますが、同じ「人間」への働きかけである療育とは、ちょっと異質なのではないか、というものです。

確かに、基本スタンスである「短く、明確に」という指示や、当事者が見てすぐ目的や内容を理解しやすいようにする構造化は、共通して使える部分があると思います。しかし、能力の獲得を目的とする療育と、失われていく能力の低下速度を緩やかにすることを目的とする介護は、どうしても合わない部分が出てくると思うのです。

例えば、ある行動をする、褒められる、行動が定着する、というものすごくオーソドックスな療育のやり方って、介護においてどの程度取り入れられているのでしょうか。端的に、療育/ABAでネット検索すると普通にヒットしますが、介護/ABAで検索すると排泄検知シートを開発した会社名が上位にきます。

もちろん、全くないわけではありません。「わが国における要介護高齢者の不適応行動に対する応用行動分析学的介入の現状」がヒットしますが、内容としてはまだ国内では事例が少ないという状況を伝えているに過ぎないように受け止めました。

ただ、「怒らずに最後まで話を聞く」というスタンスは、実際に役に立っています。これは、これからも守っていこうと思います。

2018年2月18日 (日)

(630) 発達障害における働き方改革

現在、国会にて働き方改革についての議論がなされています。

政治の与野党の攻防や主張の右左については、あまり関心がありません。ただ、労働時間数と自己の裁量にばかり焦点が当たっているのはどうかな、と思っています。

言い換えると、発達障害者の存在がこの論戦に全く意識されていないなあと思うのです。

少数者をメインに考えるのはおかしい、と言われるかも知れません。でも、彼らも働く必要がある以上、そのことを考えなければなりません。

実際、発達障害者の働き方改革を考えると、それは時間数と裁量だけを考えるのではなく、むしろ職場での直接業務の遂行以外に、現状では周囲との会話やコミュニケーションがかなり必要とされていることを問題として捉え、それをできるだけ排除するための方策を考えるべきであろうと感じています。

皆さんのお勤め先で導入されているかは不明ですが、本来、目標管理制度には記載されることがまず無いこれらの会話やコミュニケーションが、実際の職場での評価でかなりの重みを持っていることは、皆さんもご承知だと思います。ここに手を付けないと、発達障害者側は、相変わらず働きづらいままになります。

私は本来、チーム内外における個人間の細かな調整をするのが上長の役割だと思っています。だから、個々の担当者がそういう部分で神経をすり減らさないようにしつつ、明確な指示と達成度合いが本人に自覚できる仕組みづくりをすることが必要で、それは発達障害者にはもちろんのこと、健常者にとっても有用ではないか、と思うのです。

日本の職場では、地位と給与が低い人間が、これらの本来は決して簡単ではない調整を雑用と称されることで、担うことになり過ぎているように思います。

人が自らの得意分野で能力を発揮して戦える状態にすること、それが本来の働き方改革ではないか。そう思っています。

2018年2月10日 (土)

(629) 黄色い救急車

皆さんは、黄色い救急車という言葉を聞いたことがありますか?

私はあります。小学生の頃、「お前、そんなアホなことばかり言うてると、黄色い救急車が迎えに来るで」と言われ(当時、私は関西に住んでいました)、

「何で黄色やの?」と尋ねたら、

「患者を精神病院に運びこむための救急車は、黄色なんや」と言われて、素直に「へえ、そうなんだ」と思った記憶があります。

しかし、それはよくよく調べると、口裂け女と同様に全くの都市伝説なのだそうです。救急車の色は道路運送車両の保安基準という法令で、白と規定されているそうですから。また、精神病院専用の救急車というのは、無いはずですし。

精神を病む人が多くなってきている昨今、そういえば昔こんなことがあったなあ、ということをふと思い出しただけで、他意はありません。

今はただ、そういう精神系の病・障害に対する偏見というのは、このような形で表出するのだな、ということを改めて感じています。

2017年12月16日 (土)

(622) 12月15日放送のコウノドリを観て

12月15日放送のコウノドリのテーマは、「出生前診断」でした。

出生前診断で分かるのは、遺伝子の異常に関連する障害がほとんどで、我々の育てている自閉症スペクトラム系の障害は、分かりません。

そういう子を持つ立場から出生前診断を見ると、障害の全てが分かるものではないというご批判は確かにそうだと思います。しかしながら一方で、それでも、家族が生きやすく、家庭の健やかな営みにつながるものであるならば、それを受けることは否定すべきものではないと思います。

「生命の選別につながる」という批判も、選別しなければならない個々の理由の存在を軽視し過ぎていると思います。

障害のある子を育てるのは、決して楽ではありません。それは私も身に染みているだけに、命の大切さを錦の御旗として悩み苦しむ夫婦に対し、軽々に「キレイゴト」を言うのはいかがなものかと思います。

もちろん、それを乗り越えて産み育てようと決断されることを否定するものではありません。自分が、自分の気持ちと周囲の状況と将来の見通しを何度も考えて結論を出す。その過程をしっかり踏まえることが、大事だと思います。

残念ながら、相模原の事件を持ち出すまでもなく、社会から余裕が無くなり、人心も荒んで障害者に厳しい意見や態度を示す人も少なくありません。

そのような人たちの言動を真に受けて苦しむのではなく、黙っている多くの人たちの中に、まだ人を思いやる気持ちが残っていることを信じて自らの進む道を決めてもらいたい。そう思います。

2017年11月23日 (木)

(620) 普通の子としての育児

息子は、昔ほど発達障害の子に多く見られるとされる特性を見せません。

こだわり、常同行動、自己刺激、オウム返し等は、昔は結構あったものの今は見られなくなっています。初めてのものへの拒絶や、やりたくないことに対するイヤイヤも出なくなりました。むしろ、「食べてみる?」と聞くと「一口」と答える等、試してみることが多くなっています。

ただ、例えば会話において少なくとも本人から話しかけてくることは少なく、必要最小限になりがちである、という面はあります。また、不器用さはまだまだ多いです。今でも三本指で箸を食べる練習をしているくらいですから。

それでも、勉強も(お小遣い欲しさに)するようになっています。その割に(だからこそ、かも知れませんが)成績は今二つくらいですがcoldsweats01

客観的に見ると、あまり成績と運動神経の良くない普通の子になってきたと思います。ただ、昔憧れの的だった普通の子になったとしたら、じゃあ次にどうさせるのが良いのか、何を目安にしていけば良いのか、が課題になっています。

私は、「治る」と称する方々とは考えが違い、特性は目立たなくなるだけで無くなりはしないと思っています。それでも、目立たなくなることで、世の中の多数派である健常者と同じ生き方を「否が応でも求められる」ようになってしまう、少なくとも社会制度上はそうなっている、という現実を前に、普通の子としての子育て視点を今更ながら身につけなければならないのではないか、と遅まきながら気付きました。

これまで、発達障害に関する本を読み漁り、良さそうなものをあれこれ試してきましたが、そういう課題発生→対応法検索→学習→習得→実践というパターンではない育て方に移行する時期に来たということでしょう。

「良かったじゃないか」と思われるかも知れません。私も昔はそうありたいと思っていたはずなので、その通り「良かった」と思う部分もありますが、これまでの習い性からの脱却はまだまだ時間がかかりそうです。

もちろん、「こうすれば良い」的な育児本は、世にあふれています。でも、それらは大抵思想書に近いものだと受け止めており、それほど学会でコンセンサスができているものではありません。だからこそ、奇抜さが目に留まって売れる、ということになるのかと思いますが、数年で廃れるようなものは、信頼性が低いと思います。

そのようなこともあり、普通の子の育児として見れば、私は全くの初心者である、という事実に何とも言えない居心地の悪さを感じています。

2017年11月10日 (金)

(619) 告知の時を振り返って詩にしてみる

ここのところ、息子が告知を受けてから10年経つなあ、という感慨が湧くことが多くあります。まあ事実、10年前に児相で検査を受けたことで、モヤモヤとしていた息子の障害が明らかになったわけではありますし。

一区切りということもあり、ガラにもなく詩を作ってみました。でも、オリジナルではありません。そんな力もありませんし。詩で本歌取りというのがあるのかはわかりませんが、思いっきり室生犀星の「靴下」を下敷きにしています。

「蒼天」

白い小さな靴下をも備え

木でできたおもちやも買い入れ

ベビーカー、抱っこ紐もメーカー品をそろえ

ミルク作りもできる電気ポットなど

万端整えて里帰り出産に出でゆかしめぬ。

爾後三年を経て

眠らぬ子に祖父母まで振り回され

決意して児童相談所で検査を受けさしむ

自閉症なるべしとはばかることなく告げられ

外に出て子をベビーカーに乗せ歩みつつ蒼天をながめあるほどに

耐へがたくなり

下唇を噛みしめて泣きけり。

※室生犀星の「靴下」は中学の教科書で読んだ記憶がありますが、ご存知ない方は以下をご参照下さい。

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2017年10月28日 (土)

(617) メデュース号の筏

皆さんは、「メデュース号の筏」という絵をご存知でしょうか。

私は、中学校の美術の時間で習いました。この絵からは、人間の性と劫を強く感じられます。

生への欲求、具体的には、生きるためには何でもやる、絶対にあちら(死者)の側に行きたくないという思いを実際の事件を基に見事に芸術として昇華した傑作だと思います。

今、発達障害のある子を育てる立場になって改めてこの絵を見ると、やはり発達障害の世界に身を置き子を育てる親それぞれの思いに無意識に当てはめてしまって、人間はどのような状況でも変わらないなあ、との思いを禁じえません。

健常児にしたいという欲求、健常児にするためには未検証、すなわちエビデンスのない療法や風説に従って何でもやる、自分は健常児にするために努力する気力を失ったダメな親の側には行きたくないという思い、と比定して書き換えてみたら、見事に相似的関係になることに気付きます。

人間の性というものは、原罪的に避けられないものだとは理解します。でも、やはりこのように一歩引いてみたら、どう見ても美しくないことは明らかです。しかも、発達障害については、エビデンスがない療法が本当に奏功したのかについて、やはり検証がなされていない以上わからない、ということになります。それで良いのでしょうか。

得体の知れないものに縋らない勇気。当たり前だと笑える人ばかりではありません。ご用心、ご用心。

2017年9月10日 (日)

(613) 軽度・重度

発達障害に関わる言葉として、「軽度発達障害」は耳にすることがありますが、「重度発達障害」は聞いたことがありません。

では、「重度」という言葉が遣われることがないのかというと、そうではありません。「重度知的障害を伴う」自閉症、というような遣われ方をします。

これは、よく考えると軽度と重度が非対称になっていることに気付きます。つまり、所謂「自閉症」に関わる部分と「知的能力」に関わる部分について、軽度の場合は(知的にはあまり問題ないけれど)自閉的な部分がある、と自閉的に注目がなされているのに対し、重度の場合は、知的能力そのものに注目がなされている、ということです。

そもそも自閉的な部分が重度の場合、人とのコミュニケーションに大きな弱みがあることは想像に難くありません。この場合、検査を行っても、そこで指示を受けた内容を理解できず、また理解できてもその通りに動く意欲が高いとも思えず、迅速的確に対応することは困難です。その結果として、知的能力についての評価も低くなりがち、ということは十分に起こり得ます。

ゆえに重度の場合、自閉的な部分と知的能力を厳密に分ける実益に乏しいという理解も成り立ちます。なぜなら、純粋に知的能力だけを取り出して評価されることは難しいからです。このことが「重度発達障害」という言葉が世に存在しない理由になっているのかも知れない、とは思います。

この点について、発想を変えると重度とされている人でも、情報のインプットを工夫すれば指示内容を理解できやすくなって、今まで以上のパフォーマンスを発揮できる可能性がある、という推測も成り立ち得ます。

発達障害については、この「あたり前に思われがちだけど、実は詰めて受け止められていない」構造が理解されていない実態があり、この実態についてはより意識される必要があると感じています。なぜなら、このことが発達障害者の就労・社会進出についても、多くの困難を招来してしまう大きな要因になっていると考えるからです。

具体的には、軽度の人は、なまじ中途半端に意思疎通ができてしまうために、支持者は全てを当然理解できると思い込みがちです。このことが、結果として不出来だった時の軽度発達障害者への評価を不必要に低く下げてしまうことにもつながっていると認識しており、この点についての社会の理解度を上げていくことが、不可欠であろうと思います。

「これくらいは言わなくても」と「分かるように言って欲しい」のギャップを意識し、埋めることを不断に行うことが、お互いの不幸を避けるために大切でしょうから。

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    こちらの派生ブログです。 こちらが息子を中心に息子の成長の様子や成長に関わり教育や社会について考えたことを書いているのに対し、同じ発達障害絡みではあるものの、広く社会一般を理解する一方法を軽く書いています。 せっかく学んだ発達障害の知識を生かすとすれば、という視点で書いています。
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