2020年5月 5日 (火)

(696) 緊急事態宣言の延長決定があったものの

ご無沙汰しております。

子供たちは、3月はじめからずっと学校に行けておらず、在宅のままで過ごしています。そして、そのことによる支障も出ていないため、取り立てて書くことがありません。

それぞれ、学校から課題指示がタブレットやPCに送られてきて、それをやって送り返す単調な日々を過ごしています。

息子は、人と関わらないと心が病むようなタイプではないですし、逆に娘は、人と関わりたい気持ちはあるものの、なし崩しで学校に通えないままクラス替えとなり、新しいクラスになじめるのかを心配する不安が上回るタイプなので、いずれも学校に行けなくても困らない状況です。方向性が違う兄妹の、なぜか共通する適応状態とでも表現すべきでしょうか。

緊急事態宣言の延長により、この子たちも今月いっぱいは登校できない可能性が高くなっています。

我が家の場合は、恐らくこのまま行けるだろうとは予想しますが、むしろ宣言が解除された後にさまざまな問題が噴出するだろうと思います。

社会全体もポストコロナに移行するでしょうし、学校の開始・学業の遅れ解消・新しく変わる変化への追随と、めまぐるしく変わる世の中の動向に振り回されつつも、立ち止まることも許されずついて行かなければならないことが想定されます。

生命第一、健康第一、家庭円満で頑張っていきましょう。

2020年3月18日 (水)

(693) 相模原障害者殺傷事件判決について

死刑判決が出ました。当然だと思います。

twitter上ではこの事件について、福祉施設勤務者の劣悪な労働条件が背景にある、障害者に生産性がないのは否めない、或いは植松被告の心情は理解できる、等のご意見を見ましたけど、これ、植松被告が言いましたか?

植松被告は、労働条件に不満があるとは述べておらず、生産性ではなく意思疎通ができないことを基準にしていたことを考えると、植松被告の心情は理解できるというのも、眉唾です。結局、判決のインパクトに乗っかろうとしているだけ、或いは被告の心情などどうでもよく、ただ自分の不満をぶちまけたいだけだったのではないかと思うのです。

twitterでも言いましたが、心の闇なんてそうそう解明できるものではありません。せいぜい解明したつもりになるのが関の山です。そして、もっと重い話として、彼の心の闇が解明されたら、あなたは一緒に生活しようと思いますか?

刑罰にはいろいろな側面がありますが、一緒に生活しない究極の方法として死刑があると私は思っています。そういうことを考えると、理解できないことはこの世にあることを、私たちが心の片隅に置いて生きていくしかないのではないでしょうか?

考えても恐らく出ることがない答えを求めるのは、やめるべきだと思います。

 

2020年1月26日 (日)

(690) 生産性

昨今、生産性について考えることが多くなっています。

私がこの言葉を聞いて、思い浮かぶのは以下の言葉。

飛鳥尽きて良弓蔵れ、狡兎死して走狗烹らる。(ひちょうつきてりょうきゅうかくれこうとししてそうくにらる。)

意:捕まえる鳥がいなくなってしまえば、良い弓でも袋に仕舞われる。 俊敏なうさぎが死ねば、猟犬は不要になって煮て食われる。

紀元前の中国の歴史書、史記に出てくる言葉です。

乱暴に意訳すると、用が済んだらお払い箱、です。

軽く2000年以上前からあるこの言葉は、私たちにかなり示唆的ではないでしょうか。

生産性の無い者の存在価値を疑い社会から排除すれば、生産性の無い者のいない社会が一瞬はできます。でも、その世界はそれで平和でいられるでしょうか?

今度は、生産性の低い者がターゲットにならないでしょうか? そして生産性の低い者が排除されれば、次にどうなるでしょうか?

こういうことを考えた時、自分が排除されない側に回れるよう、立ち回ろうとする人も出てくるでしょう。そういう人が現れて自分よりも低いと目した他者を蹴落とそうと動き回るさまは、まさに修羅の世界、地獄絵図と呼ばずして何と表現すれば良いのでしょうか?

純粋な人類愛だけではなく、功利的な観点からも、人を生産性でその価値を測って排除することは、いずれ我が身に返ってくる点で下策。

私はそう考えます。

2020年1月12日 (日)

(689) 相模原障害者施設殺傷事件の公判開始と社会の反応について

標記事件の初公判が、2020年1月8日に行われました。

被告人が、自身の小指をかみ切ろうとする奇矯な振る舞いで退廷となる等、この先もすんなり進むのかが懸念されます。

ただ、今回の事件は被告人も起訴事実自体は争わないようです。2月19日に結審、3月16日に判決が予定されているとの報道がありました。

この事件に関し、ネット上では被告人の心情も理解できる旨のtweetやニュースコメントが散見され、それらについて「いいね!」ボタンを押す人が結構な数おられることに、驚いています。

また、事件の現場となった施設において、虐待が行われていたことも県の検証委員会で明らかとされた(「やまゆり園」で25人に虐待の疑い 神奈川県検証委、初会合後明らかに  - 毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20200111/k00/00m/040/126000c )ことを根拠に、被告人の犯行もある部分やむを得なかったように受け止めているものもあり、それには唐突感を覚えています。

正直、全く理解できない のです。

障害者に手が掛かるのは否定できませんし、そういう経験が続けばネガティブな感情(苛立ち、嫌い、憎しみ等)を持つことも、否定しません。私も世間ズレした初老のオヤジであり、世の中に聖人君主ばかりいるわけではないことも分かっていますから、その気持ちを持つことは防げないと思います。

でも、だからといって、そのネガティブな感情は、殺人という形でしか解消できないものなのでしょうか? そういう人ばかりであれば、世の中は殺人者だらけになってしまいますが、現状でそういう傾向は見られません。

次に、施設側での虐待については、それが事実であれば管理者側が責められるべきであって、入所者はむしろ被害者なのに、そちらに加害が及んだことを理解・納得できる理由が全く分からないのです。

被告人が、障害者について意思疎通のとれない障害者は生きる価値がない」との思想を持ち、衆議院議長に手紙で「私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界」を訴えた。これは、あくまでも本人の内心に留まる限り、やむなしだと考えます(同意はしませんが、内心の自由は唯一無制限な自由ですし)。

しかし、それを実行した時点で、犯罪者以外の何ものでもありません。犯罪者は法の定める手続に則り、裁きを受けてもらう、それしかありません。心情を理解というのも、犯罪後に「逮捕後の監禁は最長で2年までとし、その後は自由な人生を送らせて下さい」等という、自身の行為が本来は犯罪であることを十分認識して実行したこと、自分に対して超法規的な取り扱いがなされ、むしろ社会が英雄のように取り扱ってくれるとの妄想を持っていたことまで理解してしまえるものなのでしょうか? 

実は、「理解」という言葉の含む範囲が、単なる表象に留まるのか、認容まで含むのかで結論は変わり得ます。それでも、理解される方の論調には、認容まで含まれている印象があり、それは違うだろう、と強く思うのです。

むしろ、被告人がいみじくも指摘した「全人類が心の隅に隠した想い」という言葉。全人類ではないことは声を大にして申し上げ明確に否定するものですが、障害者に対する差別意識は、残念ながら確かに複数の人の心の隅には存在し、それがネット上で露呈していることに、障害者家族として慄然たる思いを禁じ得ません。

社会に余裕が失われれば失われるほど、他者への思いやり・多様性の受容が減っていく。これは、一筋縄ではいかない課題だと考えます。

2019年9月 7日 (土)

(678)お医者さんにできること

お医者さんは、「医療における総合プロデューサーである」という見方を、もっとされるべきだろうと思います。

医療行為における責任者であり、診断を下し、関係する医療スタッフに指示を出し、薬を処方する。もちろん、その指示や処方は適当な思い付きではなく、過去の医学的知見に基づくものです。また、一部は自ら実施することもあります。これがお医者さんにできることです。

よって、難病とされるもの、予後がよくないとされるものについては、医学的知見として治療につながるものが見つかっていないわけで、そうなるとお医者さんができることは限られてしまいます。

ただ、この仕組みを理解していることって大事で、お医者さんが治せない時にその個人が医者として治せないのか、医学的に見てどの医者であっても治せないのか、を区分する必要があると思います。

個人として治せないのであれば、それは他の治せる医者に行くという選択肢はあり得ます。しかし、医学的に治せないものは、他に治せる医者はいないのです。

後者の場合、治せないことをもって医療に絶望し、医学的に未検証なものに手を出すことが往々にして起きますし、気持ちが収まらないのであれば、それはやむを得ません。それでも、こういう事実を踏まえ、かつお医者さんたちも現状で良いと思っているわけではないことを認識したうえで、本当にそれに手を出すべきかをよくよく考える必要はあると思います。医学的に未検証なものを宣伝する人で、うまく行かなかった時に責任を取った例って聞いたことがありませんから。

お医者さんが誠実であればあるほど、治せないことを率直にお話されるでしょう。それは、歯を食いしばってもキチンと受け止めるべきだと、私は考えます。

2018年12月14日 (金)

(658) 障害の受容時の心の痛み

我が子の発達障害の受容について考える時に、私はどうしても遠藤周作の『沈黙』のクライマックス部分を思い浮かべてしまいます。そのクライマックス部分とは

「夜明けに、ロドリゴは奉行所の中庭で踏絵を踏むことになる。すり減った銅板に刻まれた「神」の顔に近づけた彼の足を襲う激しい痛み。そのとき、踏絵のなかのイエスが「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」と語りかける。」

というくだり(出典「Wikipedia」)。

我が子の障害を受け入れることは、親である私たちにとっても、かなりの重大事です。私たちのこれまでの生きざまからの決別、これまで築いてきた実績の放棄、これまであたり前だと信じてきた未来像の瓦解にもつながることです。軽々に受け入れることはできません。理屈では分かっていて、そうしようとしても、心にかなりの痛みが伝わってくることなのです。

我々が我が子の障害の受容に直面した時、残念ながら『沈黙』のようにイエスが話しかけてくれることはありません。全く孤独な作業となります。

誰も理解をしてくれないという孤独感、そこから派生する絶望感は、私も分からないわけではありません。その痛みは重く強く私たちにのしかかってきます。

ただ、障害を持つ子の親は、自分たちが初めてではなく、そういう辛い場面を乗り越えて先人たちも生きてきたということ、だから自分は孤独ではないことを、後から来る親たちにも知ってもらいたい、とは思いますし、その努力はこれからもやっていきたいと思います。

2018年9月24日 (月)

(652) 陰に回った発達キャラ

テレビの第二クール、グッド・ドクターと透明なゆりかごを毎週楽しみに観ていました。

グッド・ドクターは、「驚異的な暗記力を持つ一方、コミュニケーション能力に障害がある」サヴァン症候群の医師の成長物語であり、透明なゆりかごは、「ADHDの高校生が、看護師見習いとして実習先に産婦人科を選択し、そこでのできごとを隠すことなく世に問うた物語」だったと思います。それぞれ見ごたえはありました。

ただグッド・ドクターは、突発事象が発生しても、主人公は決してパニックに陥ることはありませんでした。的確な知識を瞬時に表出するというところが、発達障害のある子を育てている身として、どうしても腑に落ちませんでした。

また、透明なゆりかごは、小児精神神経科医・宮尾益知さんのアドバイスを受けて制作されています。これは、原作者の沖田×華さんが発達障害であり、そのエピソードをドラマに取り込む過程で必要となったものだと理解しています。

一応、主人公の青田アオイが発達障害であることは、ドラマ中でも診断がなされているのですけれど、それ以上にドラマの主テーマである産婦人科での生命が余りにも重みがあって、青田アオイの発達障害も単なるエピソードとして流された感が否めません。

結局、両ドラマとも発達障害はメインではなく、エピソードとして流されて終わってしまいました。それが発達障害の子を持つ親としては、大いに不満に感じるところです。

発達障害そのものを取り上げることって、かなり難しいことも理解しています。だからこそ、もう少し発達障害者ならではの視点を取り込むことができなかったのかが残念に思うところです。

2018年8月15日 (水)

(648) 障害者への理解を考える

家族がいないと暇なので、いろいろと考えてしまいます。

また、例の番組のシーズンが近づいてきています。批判されても、頑張る障害者賞賛姿勢は変わらないのでしょうね。

障害者を生産性で判断する発言をして炎上した国会議員がいますが、私はある意味この番組のコンセプトにも生産性が背景にあると考えています。前向きに純粋に頑張る障害者は偉いとされ、その分頑張らない障害者が下に見られたり批判されたりすることにならないかを、心配してしまうのです。

本当は、障害者にもいろいろな人がいて、中には悪人だっていると思うのです。そういう幻想を持ちがちなのはなぜだろうかを考えると、ひとえに相手をよく知らないことに尽きるのではないか、と。だから、障害者を平板かつ一般的なイメージで括ってしまうのだろう、と。

外国人、特に異人種の人の場合、顔の区別がつきにくいと感じることはありませんか。もちろん、しばらく付き合ううちに、個体ごとの差異を見出せるようになりますが。

大雑把に人をくくって一面で紋切り型に見てしまうのは、やはり個性にまで意識が及んでいない段階だと思うのです。まだまだ理解が足りないと言えばそれまでですが、だからと言って諦めない、機会があれば少しずつ理解を求めていく。

月並みですが、そうやって行くしかないのだろうなあと思います。

2018年8月11日 (土)

(647) 言外の意味

木曜日に、家族は私を置いて妻の実家に帰っていきました

と書くと、別れたかのような誤解を生みますが、単純に妻の里に帰省しただけです。

でも、実際のところ素直に一行目を読んだ場合、そのような「誤解」をする方が恐らく多数派になると思います。それは健常者が言外の意味を読み取ろうとした結果だろうと思うのです。

逆に、私たちの子供は、言外の意味を読み取るのが苦手・不可能であり、単純に妻の実家に帰っていったという事実以上の意味を読み取らないでしょう。

でも、多数派の考え方が世の中で支配的な重みを持つことは不可避だと考えると、こういう言外の意味を読み取れないのは、生きづらいだろうなあと思います。

ただ、健常者でも「それは深読みし過ぎ」と指摘されることはあって、場合によってはそれが深刻な非難につながることもあるだけに、実は程度問題な部分もあるとは思うのですけどね。

2018年6月11日 (月)

(642) 病名によるレッテル

6月9日の夜に、新横浜~小田原間を走る新幹線車内で、男が突然刃物で周囲の乗客を襲い、男性一人が死亡、女性二人が重傷という悲惨な事件が発生しました。

亡くなられた方のご冥福、大ケガをさせられた方々の一日も早いご快癒を心よりお祈り申し上げます。

本件について取り上げたネットニュースは多々あったのですが、毎日新聞社が出元となった記事がYahoo!にも掲出され、そのタイトルについて疑義が出されました。そのまとめサイトが以下です。

【容疑者自閉症?】 毎日新聞の軽率な見出しに対してネット上で疑問の声・反論が続出、炎上中 - Togetter https://togetter.com/li/1235650 @togetter_jpさんから

このまとめサイトの存在に気付く前に、私自身Twitterで

https://twitter.com/Consciousnessof/status/1005563237172068352

https://twitter.com/Consciousnessof/status/1005565121442111488

等とつぶやいておりました。まとめサイトを見て、同じ思いの人がたくさんいて安堵しました。

続きを読む "(642) 病名によるレッテル" »

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