2017年11月10日 (金)

(619) 告知の時を振り返って詩にしてみる

ここのところ、息子が告知を受けてから10年経つなあ、という感慨が湧くことが多くあります。まあ事実、10年前に児相で検査を受けたことで、モヤモヤとしていた息子の障害が明らかになったわけではありますし。

一区切りということもあり、ガラにもなく詩を作ってみました。でも、オリジナルではありません。そんな力もありませんし。詩で本歌取りというのがあるのかはわかりませんが、思いっきり室生犀星の「靴下」を下敷きにしています。

「蒼天」

白い小さな靴下をも備え

木でできたおもちやも買い入れ

ベビーカー、抱っこ紐もメーカー品をそろえ

ミルク作りもできる電気ポットなど

万端整えて里帰り出産に出でゆかしめぬ。

爾後三年を経て

眠らぬ子に祖父母まで振り回され

決意して児童相談所で検査を受けさしむ

自閉症なるべしとはばかることなく告げられ

外に出て子をベビーカーに乗せ歩みつつ蒼天をながめあるほどに

耐へがたくなり

下唇を噛みしめて泣きけり。

※室生犀星の「靴下」は中学の教科書で読んだ記憶がありますが、ご存知ない方は以下をご参照下さい。

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2017年10月28日 (土)

(617) メデュース号の筏

皆さんは、「メデュース号の筏」という絵をご存知でしょうか。

私は、中学校の美術の時間で習いました。この絵からは、人間の性と劫を強く感じられます。

生への欲求、具体的には、生きるためには何でもやる、絶対にあちら(死者)の側に行きたくないという思いを実際の事件を基に見事に芸術として昇華した傑作だと思います。

今、発達障害のある子を育てる立場になって改めてこの絵を見ると、やはり発達障害の世界に身を置き子を育てる親それぞれの思いに無意識に当てはめてしまって、人間はどのような状況でも変わらないなあ、との思いを禁じえません。

健常児にしたいという欲求、健常児にするためには未検証、すなわちエビデンスのない療法や風説に従って何でもやる、自分は健常児にするために努力する気力を失ったダメな親の側には行きたくないという思い、と比定して書き換えてみたら、見事に相似的関係になることに気付きます。

人間の性というものは、原罪的に避けられないものだとは理解します。でも、やはりこのように一歩引いてみたら、どう見ても美しくないことは明らかです。しかも、発達障害については、エビデンスがない療法が本当に奏功したのかについて、やはり検証がなされていない以上わからない、ということになります。それで良いのでしょうか。

得体の知れないものに縋らない勇気。当たり前だと笑える人ばかりではありません。ご用心、ご用心。

2017年9月10日 (日)

(613) 軽度・重度

発達障害に関わる言葉として、「軽度発達障害」は耳にすることがありますが、「重度発達障害」は聞いたことがありません。

では、「重度」という言葉が遣われることがないのかというと、そうではありません。「重度知的障害を伴う」自閉症、というような遣われ方をします。

これは、よく考えると軽度と重度が非対称になっていることに気付きます。つまり、所謂「自閉症」に関わる部分と「知的能力」に関わる部分について、軽度の場合は(知的にはあまり問題ないけれど)自閉的な部分がある、と自閉的に注目がなされているのに対し、重度の場合は、知的能力そのものに注目がなされている、ということです。

そもそも自閉的な部分が重度の場合、人とのコミュニケーションに大きな弱みがあることは想像に難くありません。この場合、検査を行っても、そこで指示を受けた内容を理解できず、また理解できてもその通りに動く意欲が高いとも思えず、迅速的確に対応することは困難です。その結果として、知的能力についての評価も低くなりがち、ということは十分に起こり得ます。

ゆえに重度の場合、自閉的な部分と知的能力を厳密に分ける実益に乏しいという理解も成り立ちます。なぜなら、純粋に知的能力だけを取り出して評価されることは難しいからです。このことが「重度発達障害」という言葉が世に存在しない理由になっているのかも知れない、とは思います。

この点について、発想を変えると重度とされている人でも、情報のインプットを工夫すれば指示内容を理解できやすくなって、今まで以上のパフォーマンスを発揮できる可能性がある、という推測も成り立ち得ます。

発達障害については、この「あたり前に思われがちだけど、実は詰めて受け止められていない」構造が理解されていない実態があり、この実態についてはより意識される必要があると感じています。なぜなら、このことが発達障害者の就労・社会進出についても、多くの困難を招来してしまう大きな要因になっていると考えるからです。

具体的には、軽度の人は、なまじ中途半端に意思疎通ができてしまうために、支持者は全てを当然理解できると思い込みがちです。このことが、結果として不出来だった時の軽度発達障害者への評価を不必要に低く下げてしまうことにもつながっていると認識しており、この点についての社会の理解度を上げていくことが、不可欠であろうと思います。

「これくらいは言わなくても」と「分かるように言って欲しい」のギャップを意識し、埋めることを不断に行うことが、お互いの不幸を避けるために大切でしょうから。

2017年2月13日 (月)

(591) コミュニケーション全盛の時代に

今の世の中では、コミュニケーションが下手な人は「コミュ障」とまで言われて、蔑まれることとなってしまっています。

ネットスラングとはいえ、こういうダメ出しはいかがなものかと思います。

ただ、メール、掲示板、twitter、Facebook、ライン等、コミュニケーションツールは充実するばかりなのに、それがうまくできない人、うまくできているつもりで足元をすくわれる人が後を絶ちません。最悪、殺人事件にまで巻き込まれてしまう人もいます。それでもなお、人との繋がりを求める人が引きも切らない状況というのが一方であって、これをどう評価すれば良いのでしょうか。

繋がっていることって、それほど価値を置くべきことなのでしょうか。それを確認し続けたりその数を競うことに、意味なんてない。私はそう思っています。必要だと声を上げた人に、手を差し伸べればそれで良いのではないでしょうか。でも、繋がっている事実に重きを置く人って、多いんですよね。

こういう世相の中では、人との関わりにハンディキャップがある発達障害系の人たちは、ただ立ちすくむばかりとならざるを得ません。ジッと堪えていくのが男の修行とは言われるものの、これはかなりつらいことでしょう。人と繋がれないことのみならず、マイノリティの悲哀も味わうこととなる可能性が高く、親としては忸怩たる思いを禁じ得ません。

でも、レコードやカセットテープが「味がある」とされて、若干復権してきているように、心ならずも孤高であり続ける彼らにも、もしかしたら日が当たる時が来るのではないか、と思うのです。

確率としては、かなり低いかも知れません。でも、メインストリームとはならなくても、そういう生き方を認められ、猫額の狭さであっても居場所を持てるようになるならば、それはとても素晴らしいことだと感じますし、それならそれでも良い、と思っています。

完全に平等などそもそも無理なことだと達観すれば、ニッチな生き方を許容するくらいの裕度を求める方向もアリだ、と考えるのは楽観に過ぎるでしょうか。

2017年1月29日 (日)

(589) ABC分析と行動随伴性

今日、ネットニュースから、以下の記事に行き当たりました。

<糖尿病「教育入院」をしてみた>まずい食事でも糖尿病を改善しようとがんばる人は多いか?

大学院で行動分析を学んだという著者であっても、このような誤解をされているのか、ということに驚きました。私がそう思ったのは、ABC分析のところです。

ABC分析とは、先行条件A(antecedent)、行動B(behavior)、結果C(consequence)を直接観察する方法です。著者は、ABC分析を以下のようにされています。

A:カロリー制限で糖尿病を改善しようとする

B:出てくる食事がまずい

C:カロリー制限なんか止めようと思う

ここで、特に、Bって主観的な事実であって行動ではありません。また、Cも行動者の思考であって、観察できませんから対象とはなりません。更に言えば、Aは先行条件とするには大くくり過ぎます。

もし、私が本件でABC分析をするならば、

A:(空腹で)イライラしている

B:糖尿病食を食べる

C:(カロリー制限のため空腹が満たせず、かつまずいことで)イライラしている

ではないかと思います(これも間違いかも知れません。そうであれば、ご指摘下さい)。こうなると、糖尿病食を食べる行動が、行動随伴性により弱化されると考えます。

そもそも、生活習慣病系って行動随伴性がほとんどない場合が多いと感じています。もし、飽食により都度痛むようなことがあれば、当然その痛みは嫌ですから食事をセーブするようになるでしょう。

でも、糖尿病は、静かに進行します。著者ご指摘の網膜症(失明の可能性)、腎症(透析に至る可能性)、神経障害(壊疽による切断の可能性)という糖尿病性三大合併症も、発症するまでは特段自覚がありません。そうなると、医療機関から指摘を受けるまで、改善努力をしようと思わないのもやむを得ないことだと思います。

また、実際に糖尿病食を継続して改善しようとしても、これも同様に自覚症状がありません。数字が改善してきたら動機としては十分となるものの、行動に直結する快適な刺激にはなりにくいため、意思に基づかざるを得ないと考えます。

障害児育児において、ABC分析により望ましい行動を増やし、望ましくない行動を減らす取り組みは、療育でかなりのウエートを占めます。今回の記事を目にして、適切なABC分析の大切さを再認識しました。

2017年1月21日 (土)

(588) 障害者のマネを考える

まだ就任前のこととはいえ、「障害者のマネをした」と非難されているトランプ大統領。

彼に対する批判は、今回の趣旨ではありません。

もちろん、褒めたたえるようなことではないのですが、障害者側の思いを考えた時に、ちょっと複雑な心境になります。

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2017年1月 9日 (月)

(586) 新年に思うこと

バタバタしているうちに、松の内が明けてしまいました。
何はともあれ、今年もよろしくお願いします。

あまり変わらないように見える息子も、よそ様から言われるとやはり成長しているんだな、と感じます。

一つは、(581)でも書いた通り、一人で外出できるようになったこと。これは自立の第一歩だと思います。

次に、息子に一年ぶりに会ったある方から「いやぁ、すごく大きくなりましたねえ」と言われました。実際、昨年よりも10㎝程度伸びていますので、それはごもっともだと思います。私の出勤時間は、息子の通う中学校の生徒の登校時間とも重なるため、彼らとすれ違うこともあるのですが、彼らと息子を見比べた場合、息子は明らかに大きいです。しかも、すれ違う同じ学校の生徒は、上の学年である可能性が三分の二ほどあるわけですから、それを加味すると大きい部類であろうことは間違いありません。

また、これもあまり意識していなかったことですが、妹とのケンカも減りました。明らかに軋轢の発生度合いが下がっています。息子を見ていると、脊髄反射レベルの反応も減っていて、また怒り方も前ほど圧力が高くありません。

これと多少関連しますが、少しストレス耐性がついてきたのかな、と感じています。これまでは、運動して疲れるとすぐに不機嫌になり、「もうやらない」と言い出すことも度々ありました。でも、今ではそういうことがほとんど見られなくなっています。

これまで、障害を持つ子の親として常に「崩れた時の立て直しのきっかけ」になるようなモノ、機会、スペース等をあらかじめ用意することを考えてきましたが、昨今の様子を見る限り今後は崩れてもド外れたことにはならないかも知れないと感じており、そうであればこういう事前の準備についてももう考えなくても良いのかな、と思うようになっています。

目の前の子の不適切なふるまいがいつまで続くのか、という思いを持たれている方も多いと思います。私が自分の経験だけに基づいて申し上げるのは普遍性が無いかもしれないことは承知しつつも、不適切なふるまいはいずれ改善していくものだと考えて頂いて良いと思います。

今年が良い年になりますよう、祈念しております。

2016年12月23日 (金)

(584) 渾沌

紀元前の中国の思想家・荘子の著として『荘子』があります。その内篇應帝王篇、第七に渾沌の寓話が記載されています。その内容は、以下の通り。

昔、渾沌という帝がいました。ただ渾沌は、目、鼻、耳、口の七孔がありませんでした。平たく言えば、のっぺらぼうだったということになります。

でも、聖帝であったようで、南海の帝と北海の帝は、渾沌から受けた恩に何とか報いようと考えました。その結果、渾沌が喜びを感じられるようになれば良いと考えたようで、美しいものを見られたリ、心に響く音楽を聴けたり、芳しい臭いを感じられたり、美味を味わえたりできるようにと(どうやったのかはわかりませんが)渾沌の顔に七孔を開けたそうです。そうしたところ、渾沌は死んでしまった、という短い寓話。

皆さんは、この寓話を読んでどう感じられたでしょうか。

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2016年10月 7日 (金)

(573) 本音は素晴らしくない

「本音で語り合おう」「君の本音を聞きたい」…などなど、本音って妙に持ち上げられている印象があります。

「人間の真正直な思いを言って何が悪い?」と問われたら、なかなか言い返すのも難しくなりますが、大人になるということは、本音を奇麗に包み隠しつつも、自分の意図を実現できるようになることでもある、と思っています。

本音と建前という対比は昔からよく行われてきましたが、社会をうまく回すためには、本音だけでは生々しくてむき出しの利害が出てうまくいかないからこそ、みんなが納得できる建て前を打ち立てて、周囲を説得するというやり方が生まれ、広く行われるようになったと考えます。

この点、子ども達はまだまだ本音ベースが基本となっており、大人にならないと建前を使うことは身につかないでしょう。大人になると基本は建前で取り澄ましつつ、ここぞという時にブッチャケ本音トークで片を付けるという、硬軟両様の対応こそが「できる人」の嗜みである、という認識が一般的のように感じています。

昨今の世相を見ていると、本音と建前の乖離が拡大してきていて、双方の話し合いの基本となる事実認識の共有も難しくなってきている印象があり、これが結論としての落としどころを探ることを困難にしていると思っています。

「本音で話そう」は、議論がある程度進んだ時に更に話し合いを促進し結論に導くために用いる手段であり、それを軽々に持ち出すのは美しくも素晴らしくもない結果を招来しがちであることを、私たちも改めて認識すべきだと思います。

2016年8月20日 (土)

(566) 規制と福祉

今はあまり聞かれなくなった言葉として、規制緩和があります。

規制による壁を低くする、あるいは撤廃することによって自由競争が促進され、国民の利益が図られるという発想は、決して間違ったものではありません。規制には表裏一体で利権がついて回りますし。そういう無駄を省くこと自体は、悪くないはずです。

ただ、単純に自由競争だけが強まると、優勝劣敗も明らかとなり弱者の居場所が少なくなります。昔は、弱者にあてがう仕事も余裕もありましたが、仕事は機械化や海外流出によって大幅に減少しています。また、国民全体が貧しくなることで税収も下がり、福祉に回せる予算も少なくなりました。もちろん、ゼロになったわけではありませんが…。

だからこそ、自由競争は絶対ではなくある程度の制約もやむなしで、福祉主義による自由主義の修正は現憲法の取る立場ではありますが、その公布からもうすぐ70年が経とうとしているのに、未だに福祉についての理解が浸透していないのは、なぜなのだろう? と思います。

弱者は弱いから弱者なのであり、弱さは人間の価値とは別のもののはずですが、何かの拍子に弱者に人並みを強いたり、それができないと見下げたり、と言った風潮・論調が出てくる実態を憂慮しています。

何かあった時の安全弁があることは誰にとっても好ましいことであり、実際にそれを使えることは喜ばしいとなぜ思えないのか。

まだまだヒト科の生き物として進化する余地がたくさんあるのではないか、と思います。

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    こちらの派生ブログです。 こちらが息子を中心に息子の成長の様子や成長に関わり教育や社会について考えたことを書いているのに対し、同じ発達障害絡みではあるものの、広く社会一般を理解する一方法を軽く書いています。 せっかく学んだ発達障害の知識を生かすとすれば、という視点で書いています。
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