2017年2月13日 (月)

(591) コミュニケーション全盛の時代に

今の世の中では、コミュニケーションが下手な人は「コミュ障」とまで言われて、蔑まれることとなってしまっています。

ネットスラングとはいえ、こういうダメ出しはいかがなものかと思います。

ただ、メール、掲示板、twitter、Facebook、ライン等、コミュニケーションツールは充実するばかりなのに、それがうまくできない人、うまくできているつもりで足元をすくわれる人が後を絶ちません。最悪、殺人事件にまで巻き込まれてしまう人もいます。それでもなお、人との繋がりを求める人が引きも切らない状況というのが一方であって、これをどう評価すれば良いのでしょうか。

繋がっていることって、それほど価値を置くべきことなのでしょうか。それを確認し続けたりその数を競うことに、意味なんてない。私はそう思っています。必要だと声を上げた人に、手を差し伸べればそれで良いのではないでしょうか。でも、繋がっている事実に重きを置く人って、多いんですよね。

こういう世相の中では、人との関わりにハンディキャップがある発達障害系の人たちは、ただ立ちすくむばかりとならざるを得ません。ジッと堪えていくのが男の修行とは言われるものの、これはかなりつらいことでしょう。人と繋がれないことのみならず、マイノリティの悲哀も味わうこととなる可能性が高く、親としては忸怩たる思いを禁じ得ません。

でも、レコードやカセットテープが「味がある」とされて、若干復権してきているように、心ならずも孤高であり続ける彼らにも、もしかしたら日が当たる時が来るのではないか、と思うのです。

確率としては、かなり低いかも知れません。でも、メインストリームとはならなくても、そういう生き方を認められ、猫額の狭さであっても居場所を持てるようになるならば、それはとても素晴らしいことだと感じますし、それならそれでも良い、と思っています。

完全に平等などそもそも無理なことだと達観すれば、ニッチな生き方を許容するくらいの裕度を求める方向もアリだ、と考えるのは楽観に過ぎるでしょうか。

2017年1月29日 (日)

(589) ABC分析と行動随伴性

今日、ネットニュースから、以下の記事に行き当たりました。

<糖尿病「教育入院」をしてみた>まずい食事でも糖尿病を改善しようとがんばる人は多いか?

大学院で行動分析を学んだという著者であっても、このような誤解をされているのか、ということに驚きました。私がそう思ったのは、ABC分析のところです。

ABC分析とは、先行条件A(antecedent)、行動B(behavior)、結果C(consequence)を直接観察する方法です。著者は、ABC分析を以下のようにされています。

A:カロリー制限で糖尿病を改善しようとする

B:出てくる食事がまずい

C:カロリー制限なんか止めようと思う

ここで、特に、Bって主観的な事実であって行動ではありません。また、Cも行動者の思考であって、観察できませんから対象とはなりません。更に言えば、Aは先行条件とするには大くくり過ぎます。

もし、私が本件でABC分析をするならば、

A:(空腹で)イライラしている

B:糖尿病食を食べる

C:(カロリー制限のため空腹が満たせず、かつまずいことで)イライラしている

ではないかと思います(これも間違いかも知れません。そうであれば、ご指摘下さい)。こうなると、糖尿病食を食べる行動が、行動随伴性により弱化されると考えます。

そもそも、生活習慣病系って行動随伴性がほとんどない場合が多いと感じています。もし、飽食により都度痛むようなことがあれば、当然その痛みは嫌ですから食事をセーブするようになるでしょう。

でも、糖尿病は、静かに進行します。著者ご指摘の網膜症(失明の可能性)、腎症(透析に至る可能性)、神経障害(壊疽による切断の可能性)という糖尿病性三大合併症も、発症するまでは特段自覚がありません。そうなると、医療機関から指摘を受けるまで、改善努力をしようと思わないのもやむを得ないことだと思います。

また、実際に糖尿病食を継続して改善しようとしても、これも同様に自覚症状がありません。数字が改善してきたら動機としては十分となるものの、行動に直結する快適な刺激にはなりにくいため、意思に基づかざるを得ないと考えます。

障害児育児において、ABC分析により望ましい行動を増やし、望ましくない行動を減らす取り組みは、療育でかなりのウエートを占めます。今回の記事を目にして、適切なABC分析の大切さを再認識しました。

2017年1月21日 (土)

(588) 障害者のマネを考える

まだ就任前のこととはいえ、「障害者のマネをした」と非難されているトランプ大統領。

彼に対する批判は、今回の趣旨ではありません。

もちろん、褒めたたえるようなことではないのですが、障害者側の思いを考えた時に、ちょっと複雑な心境になります。

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2017年1月 9日 (月)

(586) 新年に思うこと

バタバタしているうちに、松の内が明けてしまいました。
何はともあれ、今年もよろしくお願いします。

あまり変わらないように見える息子も、よそ様から言われるとやはり成長しているんだな、と感じます。

一つは、(581)でも書いた通り、一人で外出できるようになったこと。これは自立の第一歩だと思います。

次に、息子に一年ぶりに会ったある方から「いやぁ、すごく大きくなりましたねえ」と言われました。実際、昨年よりも10㎝程度伸びていますので、それはごもっともだと思います。私の出勤時間は、息子の通う中学校の生徒の登校時間とも重なるため、彼らとすれ違うこともあるのですが、彼らと息子を見比べた場合、息子は明らかに大きいです。しかも、すれ違う同じ学校の生徒は、上の学年である可能性が三分の二ほどあるわけですから、それを加味すると大きい部類であろうことは間違いありません。

また、これもあまり意識していなかったことですが、妹とのケンカも減りました。明らかに軋轢の発生度合いが下がっています。息子を見ていると、脊髄反射レベルの反応も減っていて、また怒り方も前ほど圧力が高くありません。

これと多少関連しますが、少しストレス耐性がついてきたのかな、と感じています。これまでは、運動して疲れるとすぐに不機嫌になり、「もうやらない」と言い出すことも度々ありました。でも、今ではそういうことがほとんど見られなくなっています。

これまで、障害を持つ子の親として常に「崩れた時の立て直しのきっかけ」になるようなモノ、機会、スペース等をあらかじめ用意することを考えてきましたが、昨今の様子を見る限り今後は崩れてもド外れたことにはならないかも知れないと感じており、そうであればこういう事前の準備についてももう考えなくても良いのかな、と思うようになっています。

目の前の子の不適切なふるまいがいつまで続くのか、という思いを持たれている方も多いと思います。私が自分の経験だけに基づいて申し上げるのは普遍性が無いかもしれないことは承知しつつも、不適切なふるまいはいずれ改善していくものだと考えて頂いて良いと思います。

今年が良い年になりますよう、祈念しております。

2016年12月23日 (金)

(584) 渾沌

紀元前の中国の思想家・荘子の著として『荘子』があります。その内篇應帝王篇、第七に渾沌の寓話が記載されています。その内容は、以下の通り。

昔、渾沌という帝がいました。ただ渾沌は、目、鼻、耳、口の七孔がありませんでした。平たく言えば、のっぺらぼうだったということになります。

でも、聖帝であったようで、南海の帝と北海の帝は、渾沌から受けた恩に何とか報いようと考えました。その結果、渾沌が喜びを感じられるようになれば良いと考えたようで、美しいものを見られたリ、心に響く音楽を聴けたり、芳しい臭いを感じられたり、美味を味わえたりできるようにと(どうやったのかはわかりませんが)渾沌の顔に七孔を開けたそうです。そうしたところ、渾沌は死んでしまった、という短い寓話。

皆さんは、この寓話を読んでどう感じられたでしょうか。

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2016年10月 7日 (金)

(573) 本音は素晴らしくない

「本音で語り合おう」「君の本音を聞きたい」…などなど、本音って妙に持ち上げられている印象があります。

「人間の真正直な思いを言って何が悪い?」と問われたら、なかなか言い返すのも難しくなりますが、大人になるということは、本音を奇麗に包み隠しつつも、自分の意図を実現できるようになることでもある、と思っています。

本音と建前という対比は昔からよく行われてきましたが、社会をうまく回すためには、本音だけでは生々しくてむき出しの利害が出てうまくいかないからこそ、みんなが納得できる建て前を打ち立てて、周囲を説得するというやり方が生まれ、広く行われるようになったと考えます。

この点、子ども達はまだまだ本音ベースが基本となっており、大人にならないと建前を使うことは身につかないでしょう。大人になると基本は建前で取り澄ましつつ、ここぞという時にブッチャケ本音トークで片を付けるという、硬軟両様の対応こそが「できる人」の嗜みである、という認識が一般的のように感じています。

昨今の世相を見ていると、本音と建前の乖離が拡大してきていて、双方の話し合いの基本となる事実認識の共有も難しくなってきている印象があり、これが結論としての落としどころを探ることを困難にしていると思っています。

「本音で話そう」は、議論がある程度進んだ時に更に話し合いを促進し結論に導くために用いる手段であり、それを軽々に持ち出すのは美しくも素晴らしくもない結果を招来しがちであることを、私たちも改めて認識すべきだと思います。

2016年8月20日 (土)

(566) 規制と福祉

今はあまり聞かれなくなった言葉として、規制緩和があります。

規制による壁を低くする、あるいは撤廃することによって自由競争が促進され、国民の利益が図られるという発想は、決して間違ったものではありません。規制には表裏一体で利権がついて回りますし。そういう無駄を省くこと自体は、悪くないはずです。

ただ、単純に自由競争だけが強まると、優勝劣敗も明らかとなり弱者の居場所が少なくなります。昔は、弱者にあてがう仕事も余裕もありましたが、仕事は機械化や海外流出によって大幅に減少しています。また、国民全体が貧しくなることで税収も下がり、福祉に回せる予算も少なくなりました。もちろん、ゼロになったわけではありませんが…。

だからこそ、自由競争は絶対ではなくある程度の制約もやむなしで、福祉主義による自由主義の修正は現憲法の取る立場ではありますが、その公布からもうすぐ70年が経とうとしているのに、未だに福祉についての理解が浸透していないのは、なぜなのだろう? と思います。

弱者は弱いから弱者なのであり、弱さは人間の価値とは別のもののはずですが、何かの拍子に弱者に人並みを強いたり、それができないと見下げたり、と言った風潮・論調が出てくる実態を憂慮しています。

何かあった時の安全弁があることは誰にとっても好ましいことであり、実際にそれを使えることは喜ばしいとなぜ思えないのか。

まだまだヒト科の生き物として進化する余地がたくさんあるのではないか、と思います。

2016年7月26日 (火)

(563) 障害者の生きる価値

今朝のネットニュースで度肝を抜かれた、相模原市の障害者福祉施設での大量殺人事件。人間、ここまで独善的になれるものかと驚きを禁じ得ません。

「障害者なんていなくなればいい」「施設利用者に安楽死を」…そう思うのは勝手ですが、ちっぽけな自分を省みない容疑者の薄っぺらい屁理屈で、今日現在19人の方が亡くなり、26人の方が負傷しています。

亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、負傷された方の早い回復をお祈り申し上げます。

そもそも、他者が生きる価値を決められる資格・地位・権利なんて、この現代社会においてあろうはずがありません。生きる価値は生そのものに内在しています。この点で容疑者は、根本から間違っています。

本来、他者の人生は他者のものであり、容喙すべきものではありません。人は合わない人とは距離を置けば良いのであって、他者を放置できない社会性の高さが仇になった感を禁じ得ません。これは発達障害児親ならではの、奇矯な視点なのかも知れませんが。

生き残られた入所者の一日も早い平穏な生活への復帰を、心から願っています。

2016年7月16日 (土)

(562) 「天国の特別なこども」への深い懐疑

(202) 障害児を育てること」でも触れた表題の詩。障害児を育てている方なら、どこかで一度は見聞きしたことがあると思います。

私は、この詩の内容はやはりとても受け入れられないと思っていますが、検索をかけてこの詩に触れている方のブログ等を見ると、意外と好意的に受け止めている方が多いようで、ちょっと驚いています。

私が一番引っかかるのは、人間ならば普通に湧き起こる疑問に対して一切答えていないからです。

  • 特別な子が所与の存在として記載されているが、全知全能のはずの神がなぜ特別な子をわざわざ作ったのか。言い換えると、普通の子にしてあげなかったのはなぜか。
  • 「神様のために特別な任務をひきうけてくれるような両親」ということであれば、その子の成長は神様のために必要だということとなるが、神様のニーズは何か。
  • 逆に、両親側のニーズではないのに、なぜ「二人は自分たちに与えられた特別の神の思し召しをさとる」こととなるのか。
  • 信仰心を深める方法は、特別な子を育てる行為以外にないのか。

一応宗教的なものを持ちだすのであれば、人生の懊悩に答えるべきだと思うのですが、この詩の中にその要素は全く見出せません。

加えて、この詩は徹底的に親の視点からのみ見ていて、肝心の子どもの気持ちや思いが全く表現されていません。これは、アウトだと思います。この子は特別な子になりたかったのでしょうか。

「困った子は困っている子」という言葉に照らして考えれば、困りたがる子などいないはずで、本人が困ることの多い特別な子になりたかったとは、とても思えません。まして、「両親」の信仰心を深めるためのツールとしての人生ってあり得ないと思います。

詩の作者は、恐らく善意で創作されたのだとは思います。でも、「神様に選ばれた特別な存在だ」とおだてることで納得させようというのには、あまりにも理屈があやふやで、やはり私には合いません。

皆様は、どのように受け止められているのでしょうか。

2016年6月18日 (土)

(558) 第二次構わずにはおれない時期

今回は、私の個人的な思いつきを書いています。

反抗期について、一般に幼児期を第一次、思春期を第二次として考えるようです。

それと並行する感じで、「構わずにはおれない時期」というのも第一次、第二次があるのではないか、と思うのです。

具体的には、周りのものに向いた関心を制御できず、不必要なのに過度に構おうとする姿。幼児期には虫だったりモノだったり、狭いスキ間coldsweats02だったりで、最後には死なせてしまったり壊してしまったり抜け出せなくなったりします。そういう過程で、周囲との関わり方を身に付けて行くのが第一次。

これに対し第二次は、専ら人に関心が向きます。そして、自分と気質の合う人間とは徒党を組み、合わない人間とは不必要に反目する。反抗期と密接に絡み、異質な人間を過度に排除しようとしたり、逆に支配下に置こうとしたり…端的にはイジメにもつながります。

しかも、幼児的な分かりやすい勧善懲悪への懐疑からか、本人が妙にワルぶってみせたり、周囲も悪い行為を悪いと言うことを子供っぽいと感じるのか、見なかったことにしたり、と反応も複雑かつ悪化していきます。

大人になってしまうと、やはり良くないことは良くないと分かりますし、合わない人と適度な距離を保って付き合うこともできるようになります。が、それもこの時期のこういう試行錯誤があったからではないか、とも考えられます。

もちろん、そのただなかにいてイヤな思いをさせられている側の人間からすれば、先の見えない暗闇にいるようなものですし、理不尽としか言いようがありません。誰かを犠牲にしなければ大人になれないとしたら、人間の持って生まれた欠陥だとしか言いようがありません。

ただ、良くないことを良くないと言うだけでは、この時期の子供達に通じません。その心に響かないのです。かといって、自律を期待せず管理を徹底すべし、何かやったら厳罰に処すべし、も違うと思うのです。

名案はありません。できることは「ただ関心を持って見守る」。今流行の表現としては、「セコム親」になるしかないのかなあ、と感じています。

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