2018年9月24日 (月)

(652) 陰に回った発達キャラ

テレビの第二クール、グッド・ドクターと透明なゆりかごを毎週楽しみに観ていました。

グッド・ドクターは、「驚異的な暗記力を持つ一方、コミュニケーション能力に障害がある」サヴァン症候群の医師の成長物語であり、透明なゆりかごは、「ADHDの高校生が、看護師見習いとして実習先に産婦人科を選択し、そこでのできごとを隠すことなく世に問うた物語」だったと思います。それぞれ見ごたえはありました。

ただグッド・ドクターは、突発事象が発生しても、主人公は決してパニックに陥ることはありませんでした。的確な知識を瞬時に表出するというところが、発達障害のある子を育てている身として、どうしても腑に落ちませんでした。

また、透明なゆりかごは、小児精神神経科医・宮尾益知さんのアドバイスを受けて制作されています。これは、原作者の沖田×華さんが発達障害であり、そのエピソードをドラマに取り込む過程で必要となったものだと理解しています。

一応、主人公の青田アオイが発達障害であることは、ドラマ中でも診断がなされているのですけれど、それ以上にドラマの主テーマである産婦人科での生命が余りにも重みがあって、青田アオイの発達障害も単なるエピソードとして流された感が否めません。

結局、両ドラマとも発達障害はメインではなく、エピソードとして流されて終わってしまいました。それが発達障害の子を持つ親としては、大いに不満に感じるところです。

発達障害そのものを取り上げることって、かなり難しいことも理解しています。だからこそ、もう少し発達障害者ならではの視点を取り込むことができなかったのかが残念に思うところです。

2018年8月15日 (水)

(648) 障害者への理解を考える

家族がいないと暇なのでbleah、いろいろと考えてしまいます。

また、例の番組のシーズンが近づいてきています。批判されても、頑張る障害者賞賛姿勢は変わらないのでしょうね。

障害者を生産性で判断する発言をして炎上した国会議員がいますが、私はある意味この番組のコンセプトにも生産性が背景にあると考えています。前向きに純粋に頑張る障害者は偉いとされ、その分頑張らない障害者が下に見られたり批判されたりすることにならないかを、心配してしまうのです。

本当は、障害者にもいろいろな人がいて、中には悪人だっていると思うのです。そういう幻想を持ちがちなのはなぜだろうかを考えると、ひとえに相手をよく知らないことに尽きるのではないか、と。だから、障害者を平板かつ一般的なイメージで括ってしまうのだろう、と。

外国人、特に異人種の人の場合、顔の区別がつきにくいと感じることはありませんか。もちろん、しばらく付き合ううちに、個体ごとの差異を見出せるようになりますが。

大雑把に人をくくって一面で紋切り型に見てしまうのは、やはり個性にまで意識が及んでいない段階だと思うのです。まだまだ理解が足りないと言えばそれまでですが、だからと言って諦めない、機会があれば少しずつ理解を求めていく。

月並みですが、そうやって行くしかないのだろうなあと思います。

2018年8月11日 (土)

(647) 言外の意味

木曜日に、家族は私を置いて妻の実家に帰っていきました

と書くと、別れたかのような誤解を生みますがcoldsweats01、単純に妻の里に帰省しただけです。

でも、実際のところ素直に一行目を読んだ場合、そのような「誤解」をする方が恐らく多数派になると思います。それは健常者が言外の意味を読み取ろうとした結果だろうと思うのです。

逆に、私たちの子供は、言外の意味を読み取るのが苦手・不可能であり、単純に妻の実家に帰っていったという事実以上の意味を読み取らないでしょう。

でも、多数派の考え方が世の中で支配的な重みを持つことは不可避だと考えると、こういう言外の意味を読み取れないのは、生きづらいだろうなあと思います。

ただ、健常者でも「それは深読みし過ぎ」と指摘されることはあって、場合によってはそれが深刻な非難につながることもあるだけに、実は程度問題な部分もあるとは思うのですけどね。

2018年6月11日 (月)

(642) 病名によるレッテル

6月9日の夜に、新横浜~小田原間を走る新幹線車内で、男が突然刃物で周囲の乗客を襲い、男性一人が死亡、女性二人が重傷という悲惨な事件が発生しました。

亡くなられた方のご冥福、大ケガをさせられた方々の一日も早いご快癒を心よりお祈り申し上げます。

本件について取り上げたネットニュースは多々あったのですが、毎日新聞社が出元となった記事がYahoo!にも掲出され、そのタイトルについて疑義が出されました。そのまとめサイトが以下です。

【容疑者自閉症?】 毎日新聞の軽率な見出しに対してネット上で疑問の声・反論が続出、炎上中 - Togetter https://togetter.com/li/1235650 @togetter_jpさんから

このまとめサイトの存在に気付く前に、私自身Twitterで

https://twitter.com/Consciousnessof/status/1005563237172068352

https://twitter.com/Consciousnessof/status/1005565121442111488

等とつぶやいておりました。まとめサイトを見て、同じ思いの人がたくさんいて安堵しました。

続きを読む "(642) 病名によるレッテル" »

2018年6月 3日 (日)

(641) 障害に負けるとは

「障害に負けずに頑張っています」

よく聞くフレーズですが、では障害に負けるというのはどういう状態のことを言うのでしょうか。

元々、障害はdisability、つまりできる力が打ち消された状態を表しています。従って、障害があってそれが故にできないならば、できないのはむしろ当たり前だと思います。当たり前のことは、本来負けと評価すべきではないハズです。

しかるに、冒頭の表現はできないことをできるように努力している、その頑張りが負けていないと評価されるために必要だ、ということになります。

でも、こういうことであれば、負けではなく打ち勝っていると表現すべきでしょう。ことほど左様に、障害者は油断していると、当たり前のできない状態を負けと評価されるという理不尽が起こりやすいことを意識しなければなりません。健常者を基に評価基準が高めに設定されがちになるのです。

元々、集団行動を取れるのが当たり前、という世間の基準から逸脱した子を育てている私たちは、耳慣れた表現に潜む健常者ファースト意識に気を付けることが必要ですね。

2018年5月20日 (日)

(639) 療育と介護

ご無沙汰しております。

実は、今の私の負担感としては、息子に対するものよりも老母の方が重くなっていて、息子の方は、あまり記事にするようなイベントも発生していないのが実態です。

そういう状況で何かを書こうというのは、結構厳しいものがありますが、気付いたことがあります。それは、老母への対応はいわゆる介護となりますが、同じ「人間」への働きかけである療育とは、ちょっと異質なのではないか、というものです。

確かに、基本スタンスである「短く、明確に」という指示や、当事者が見てすぐ目的や内容を理解しやすいようにする構造化は、共通して使える部分があると思います。しかし、能力の獲得を目的とする療育と、失われていく能力の低下速度を緩やかにすることを目的とする介護は、どうしても合わない部分が出てくると思うのです。

例えば、ある行動をする、褒められる、行動が定着する、というものすごくオーソドックスな療育のやり方って、介護においてどの程度取り入れられているのでしょうか。端的に、療育/ABAでネット検索すると普通にヒットしますが、介護/ABAで検索すると排泄検知シートを開発した会社名が上位にきます。

もちろん、全くないわけではありません。「わが国における要介護高齢者の不適応行動に対する応用行動分析学的介入の現状」がヒットしますが、内容としてはまだ国内では事例が少ないという状況を伝えているに過ぎないように受け止めました。

ただ、「怒らずに最後まで話を聞く」というスタンスは、実際に役に立っています。これは、これからも守っていこうと思います。

2018年2月18日 (日)

(630) 発達障害における働き方改革

現在、国会にて働き方改革についての議論がなされています。

政治の与野党の攻防や主張の右左については、あまり関心がありません。ただ、労働時間数と自己の裁量にばかり焦点が当たっているのはどうかな、と思っています。

言い換えると、発達障害者の存在がこの論戦に全く意識されていないなあと思うのです。

少数者をメインに考えるのはおかしい、と言われるかも知れません。でも、彼らも働く必要がある以上、そのことを考えなければなりません。

実際、発達障害者の働き方改革を考えると、それは時間数と裁量だけを考えるのではなく、むしろ職場での直接業務の遂行以外に、現状では周囲との会話やコミュニケーションがかなり必要とされていることを問題として捉え、それをできるだけ排除するための方策を考えるべきであろうと感じています。

皆さんのお勤め先で導入されているかは不明ですが、本来、目標管理制度には記載されることがまず無いこれらの会話やコミュニケーションが、実際の職場での評価でかなりの重みを持っていることは、皆さんもご承知だと思います。ここに手を付けないと、発達障害者側は、相変わらず働きづらいままになります。

私は本来、チーム内外における個人間の細かな調整をするのが上長の役割だと思っています。だから、個々の担当者がそういう部分で神経をすり減らさないようにしつつ、明確な指示と達成度合いが本人に自覚できる仕組みづくりをすることが必要で、それは発達障害者にはもちろんのこと、健常者にとっても有用ではないか、と思うのです。

日本の職場では、地位と給与が低い人間が、これらの本来は決して簡単ではない調整を雑用と称されることで、担うことになり過ぎているように思います。

人が自らの得意分野で能力を発揮して戦える状態にすること、それが本来の働き方改革ではないか。そう思っています。

2018年2月10日 (土)

(629) 黄色い救急車

皆さんは、黄色い救急車という言葉を聞いたことがありますか?

私はあります。小学生の頃、「お前、そんなアホなことばかり言うてると、黄色い救急車が迎えに来るで」と言われ(当時、私は関西に住んでいました)、

「何で黄色やの?」と尋ねたら、

「患者を精神病院に運びこむための救急車は、黄色なんや」と言われて、素直に「へえ、そうなんだ」と思った記憶があります。

しかし、それはよくよく調べると、口裂け女と同様に全くの都市伝説なのだそうです。救急車の色は道路運送車両の保安基準という法令で、白と規定されているそうですから。また、精神病院専用の救急車というのは、無いはずですし。

精神を病む人が多くなってきている昨今、そういえば昔こんなことがあったなあ、ということをふと思い出しただけで、他意はありません。

今はただ、そういう精神系の病・障害に対する偏見というのは、このような形で表出するのだな、ということを改めて感じています。

2017年12月16日 (土)

(622) 12月15日放送のコウノドリを観て

12月15日放送のコウノドリのテーマは、「出生前診断」でした。

出生前診断で分かるのは、遺伝子の異常に関連する障害がほとんどで、我々の育てている自閉症スペクトラム系の障害は、分かりません。

そういう子を持つ立場から出生前診断を見ると、障害の全てが分かるものではないというご批判は確かにそうだと思います。しかしながら一方で、それでも、家族が生きやすく、家庭の健やかな営みにつながるものであるならば、それを受けることは否定すべきものではないと思います。

「生命の選別につながる」という批判も、選別しなければならない個々の理由の存在を軽視し過ぎていると思います。

障害のある子を育てるのは、決して楽ではありません。それは私も身に染みているだけに、命の大切さを錦の御旗として悩み苦しむ夫婦に対し、軽々に「キレイゴト」を言うのはいかがなものかと思います。

もちろん、それを乗り越えて産み育てようと決断されることを否定するものではありません。自分が、自分の気持ちと周囲の状況と将来の見通しを何度も考えて結論を出す。その過程をしっかり踏まえることが、大事だと思います。

残念ながら、相模原の事件を持ち出すまでもなく、社会から余裕が無くなり、人心も荒んで障害者に厳しい意見や態度を示す人も少なくありません。

そのような人たちの言動を真に受けて苦しむのではなく、黙っている多くの人たちの中に、まだ人を思いやる気持ちが残っていることを信じて自らの進む道を決めてもらいたい。そう思います。

2017年11月23日 (木)

(620) 普通の子としての育児

息子は、昔ほど発達障害の子に多く見られるとされる特性を見せません。

こだわり、常同行動、自己刺激、オウム返し等は、昔は結構あったものの今は見られなくなっています。初めてのものへの拒絶や、やりたくないことに対するイヤイヤも出なくなりました。むしろ、「食べてみる?」と聞くと「一口」と答える等、試してみることが多くなっています。

ただ、例えば会話において少なくとも本人から話しかけてくることは少なく、必要最小限になりがちである、という面はあります。また、不器用さはまだまだ多いです。今でも三本指で箸を食べる練習をしているくらいですから。

それでも、勉強も(お小遣い欲しさに)するようになっています。その割に(だからこそ、かも知れませんが)成績は今二つくらいですがcoldsweats01

客観的に見ると、あまり成績と運動神経の良くない普通の子になってきたと思います。ただ、昔憧れの的だった普通の子になったとしたら、じゃあ次にどうさせるのが良いのか、何を目安にしていけば良いのか、が課題になっています。

私は、「治る」と称する方々とは考えが違い、特性は目立たなくなるだけで無くなりはしないと思っています。それでも、目立たなくなることで、世の中の多数派である健常者と同じ生き方を「否が応でも求められる」ようになってしまう、少なくとも社会制度上はそうなっている、という現実を前に、普通の子としての子育て視点を今更ながら身につけなければならないのではないか、と遅まきながら気付きました。

これまで、発達障害に関する本を読み漁り、良さそうなものをあれこれ試してきましたが、そういう課題発生→対応法検索→学習→習得→実践というパターンではない育て方に移行する時期に来たということでしょう。

「良かったじゃないか」と思われるかも知れません。私も昔はそうありたいと思っていたはずなので、その通り「良かった」と思う部分もありますが、これまでの習い性からの脱却はまだまだ時間がかかりそうです。

もちろん、「こうすれば良い」的な育児本は、世にあふれています。でも、それらは大抵思想書に近いものだと受け止めており、それほど学会でコンセンサスができているものではありません。だからこそ、奇抜さが目に留まって売れる、ということになるのかと思いますが、数年で廃れるようなものは、信頼性が低いと思います。

そのようなこともあり、普通の子の育児として見れば、私は全くの初心者である、という事実に何とも言えない居心地の悪さを感じています。

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    こちらの派生ブログです。 こちらが息子を中心に息子の成長の様子や成長に関わり教育や社会について考えたことを書いているのに対し、同じ発達障害絡みではあるものの、広く社会一般を理解する一方法を軽く書いています。 せっかく学んだ発達障害の知識を生かすとすれば、という視点で書いています。
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