(620) 普通の子としての育児
息子は、昔ほど発達障害の子に多く見られるとされる特性を見せません。
こだわり、常同行動、自己刺激、オウム返し等は、昔は結構あったものの今は見られなくなっています。初めてのものへの拒絶や、やりたくないことに対するイヤイヤも出なくなりました。むしろ、「食べてみる?」と聞くと「一口」と答える等、試してみることが多くなっています。
ただ、例えば会話において少なくとも本人から話しかけてくることは少なく、必要最小限になりがちである、という面はあります。また、不器用さはまだまだ多いです。今でも三本指で箸を食べる練習をしているくらいですから。
それでも、勉強も(お小遣い欲しさに)するようになっています。その割に(だからこそ、かも知れませんが)成績は今二つくらいですが
客観的に見ると、あまり成績と運動神経の良くない普通の子になってきたと思います。ただ、昔憧れの的だった普通の子になったとしたら、じゃあ次にどうさせるのが良いのか、何を目安にしていけば良いのか、が課題になっています。
私は、「治る」と称する方々とは考えが違い、特性は目立たなくなるだけで無くなりはしないと思っています。それでも、目立たなくなることで、世の中の多数派である健常者と同じ生き方を「否が応でも求められる」ようになってしまう、少なくとも社会制度上はそうなっている、という現実を前に、普通の子としての子育て視点を今更ながら身につけなければならないのではないか、と遅まきながら気付きました。
これまで、発達障害に関する本を読み漁り、良さそうなものをあれこれ試してきましたが、そういう課題発生→対応法検索→学習→習得→実践というパターンではない育て方に移行する時期に来たということでしょう。
「良かったじゃないか」と思われるかも知れません。私も昔はそうありたいと思っていたはずなので、その通り「良かった」と思う部分もありますが、これまでの習い性からの脱却はまだまだ時間がかかりそうです。
もちろん、「こうすれば良い」的な育児本は、世にあふれています。でも、それらは大抵思想書に近いものだと受け止めており、それほど学会でコンセンサスができているものではありません。だからこそ、奇抜さが目に留まって売れる、ということになるのかと思いますが、数年で廃れるようなものは、信頼性が低いと思います。
そのようなこともあり、普通の子の育児として見れば、私は全くの初心者である、という事実に何とも言えない居心地の悪さを感じています。
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