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2016年12月23日 (金)

(584) 渾沌

紀元前の中国の思想家・荘子の著として『荘子』があります。その内篇應帝王篇、第七に渾沌の寓話が記載されています。その内容は、以下の通り。

昔、渾沌という帝がいました。ただ渾沌は、目、鼻、耳、口の七孔がありませんでした。平たく言えば、のっぺらぼうだったということになります。

でも、聖帝であったようで、南海の帝と北海の帝は、渾沌から受けた恩に何とか報いようと考えました。その結果、渾沌が喜びを感じられるようになれば良いと考えたようで、美しいものを見られたリ、心に響く音楽を聴けたり、芳しい臭いを感じられたり、美味を味わえたりできるようにと(どうやったのかはわかりませんが)渾沌の顔に七孔を開けたそうです。そうしたところ、渾沌は死んでしまった、という短い寓話。

皆さんは、この寓話を読んでどう感じられたでしょうか。

南海の帝も北海の帝も良かれと思ってやったこと、全く悪意が無いだけに、何とも言えぬやるせなさとでも言うのか、救いがないとでも言えばよいのか…すごく後味の悪いお話のようにも感じ、モヤモヤとした感覚にとらわれてしまいます。「ごんぎつね」の読後感に近い感じがします。

ただ、ハッキリしていることが一つ。良かれと思ったこととはいえ、彼らのやったことが渾沌の命を縮めてしまった。つまり無用のことをしたということ。

ここは、もう少し考える必要があるでしょう。それは、単に無用のことをしたのみならず、そもそも渾沌が喜びを感じるだろうと彼らが思ったものが、渾沌も喜びを感じるものだったのだろうか、ということ。

恐らく、渾沌は渾沌なりの喜びというのがあって、それは恐らく七孔を必要としないものだったのではないか、あるいは、そういう通常人の喜びを超越したところに渾沌の喜びがあったのではないか。

逆に、南海の帝と北海の帝は、自分たちの基準でのみ人の喜びを考えてしまい、それ以外のものの存在を思いつけなかったのではないか。それが、このような救いのない話を生んでしまったのではないか。

このお話は、人間の喜びとは何かを深く問いかける内容だと思います。そして、障害児育児をしている私たちにとっても、警鐘になるのではないでしょうか。

障害のあるわが子の喜びを、親の私たちが勝手に慮って決めてかかっていないか。彼らには、私たちにはわからない彼らなりの喜びがあるのではないか。良かれと思ってやったことが、わが子の心を殺していないか…。

自戒、自戒。

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