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2015年2月22日 (日)

(496) 受容の中の詭弁

「何だ? このタイトル」と思われたかも知れません。

段々書くネタが無くなってきて、センセーショナルな見出しに頼るようになったか? と批判されるかも知れませんね。それは、甘受します。

帰宅途中にふと気付いたことですので、思いつきに近いのかも知れないことではありますが、実は、受容という言葉は、単純にあるがままを受け入れるということを意味していないのではないか、ということに思い至ったのです。

何を言っているのかというと、単純にあるがままを受け入れるのだけでは足りず、状況を前向きに捉え、更に自らの人生を肯定するところまで含んでいるのではなかろうか、ということです。

よくよく考えてみると、このってかなり強い価値観だと言えます。一方で、なぜこれらの価値観に基づかなければならないのか、について全然説明されていません。即ち、あるがままを受け入れると、どうしてそれを前向きに捉えられるのか、また自らの人生を肯定できるのかがわからないということです。そういう点では、論理的でないと感じています。

何もそんなことまで言っていないではないか、という反論はあり得ます。でも、実際どうでしょうか? 

例えば、子の障害について悲観的に捉えていたり、「もうだめだ」と自棄になって天を呪っていたりする人って、残念ながら少なからず社会に存在しています。そして、あなたはそういう人に対して「ああ、この人は障害の受容ができている」と評価しますか? 

まずそうではないことを考えると、私が申し上げている問いの意味がお分かり頂けるものと思います。受容したからには、絶対に前向きに捉えていて、人生を肯定しているはずだ、という価値観、もっと言えば思い込みが含まれているのです。

ただ、禅問答では、世の中を構成する全ての存在を明らかにすることは、迷いがなくなることに繋がり、諦めの境地に至る、つまり悟りを得るということになるのだそうですから、この点では、「障害の受容」も子が障害者であることを明らかにすることである、ということから類推すると、それを前向きに捉えること、その与えられた条件の中で人生を肯定することにつながりやすくはなるかな、とは思います。

ただ、禅問答も宗教的なバイアスがかかっており、これは、やっぱり詭弁だと評価せざるを得ないと考えます。そもそも、こういう議論は、社会的には望ましい方向性であるがゆえに、途中経過を省いていても批判しにくくなることは否めません。また、最終的には、そういう結論になるのかも知れませんけれど、やはり丁寧さに欠けているとは感じます。

これについては、異論もあるでしょう。けれども、何事も批判的に見ることは、良さそうなことについてもそうあるべきだと考えており、この点はご理解いただきたいと思います。

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