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2014年10月19日 (日)

(478) どこまでを目指すのか

発達障害は、持って生まれたもの。改善はするが完治はしない。

一般的によく言われることです。

でも、「改善はする」というのであれば、ではどこまでイケると思いますか?

意外とこのあたり、詰めて考えたことは無いのではなかろうか、と感じています。

一般論として、願望はいくらでも持つことができます。でも、実現性が無いことまでイケると考えてしまうと、結果としてかなりシンドイことになりますよね。第一長続きしませんし。

どこまでイケるのかを冷静に考えることで、目標としての目指すところが定まってくるのだろうと考えています。

発達障害に関わる人の意識の中では、日本の社会は細やかな気配り・気遣いを尊ぶことから、空気を読むことが苦手な発達障害者にとっては海外よりも生きにくいことが多いのではないか、とてもできないところまで目指せられているのではないか、と考えられがちです。でも、私は必ずしもそうではないだろうと思っています。

例えばアメリカ人の場合は、大勢の人(知らない人も含む)の集まるパーティーにキチンとした身なりを整えて参加し、如才なく挨拶を交わし、にこやかに談笑。時折ジョークを交えて周囲を沸かせることまで期待されてしまう、という日本とは別の社会性が求められており、これはこれでかなりハードルが高そうです(よね?)。

勝手に憶測で申し上げますが、こちらに来られている読者の方で、発達障害者がこのような振る舞いまでできるようになる、だからそれを目指すべきだ、と考えておられる方ってまずいないと考えています。

目指すところは個体によって異なるでしょうから、一般化した議論の余地はあまりないかと思います。但し考える方向性については、Needs(必要性。これくらいはできないと困る)から考えるのではなく、Seeds(持っている能力の種。この能力をうまく活かせば、ここまでは行けそう)から考えるべきだと感じています。

私の場合、息子については、周囲の支援を得ながら、何とか社会の中でやっていける程度の業務スキル、最低限の意思を伝えられるコミュニケーション力、犯罪は悪いことだと認識できる程度の善悪の判断力、身の回りのことは自分で何とかこなせる身辺自立能力が必要だと考えており、その能力の獲得や伸長のための示唆や指導を気長に少しずつやってきています。

息子は勿論、周囲の発達障害児を見ている限り、彼らの人とのコミュニケーションの硬さ・ぎこちなさはいかんともしがたいのではないか、と感じています。どうしてもコミュニケーションの入出力が0か100かと極端で、その中間でバランスを取ることが難しい特性があるなあと感じつつも、まあそれでも昔に比べれば必要なことをそれなりに伝えられるようになりつつはあって、当面息子の目指すところは現状で維持したいし、できると感じています。

なお、目指すところは不磨の大典ではありません。状況に応じ適宜見直して構わない、むしろそうするべきだと感じています。このさじ加減は、難しいですが。

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