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2014年9月

2014年9月30日 (火)

(475) 風邪を引くと

先週末、息子は風邪を引きました。

我が家では、風邪の時は外出は勿論ゲームやパソコンは禁止となり、おとなしく療養に専念することとなっています。

それゆえに、かなり不機嫌になっています。

「どうして、自分だけ風邪をひいたんだ!」とかなりの怒りモード。別に風邪なんて他の家族もひきますし、本人自身もこれまでの人生で何度も風邪をひいてきたのですけどね。こういう過去の経験や周囲の状況に思いを致さず、シングルフォーカスな怒り方をしてしまうところに、障害特性の一端が表れているなあと感じます。

まあ、医者に行く以外家で大人しくしていたこともあって、そこそこ回復はしましたけれど。

しかし、回復したらしたで「外に出るから風邪をひいたんだ! もう外に出るのはやめよう」と引きこもり宣言を始めましたcoldsweats01

「じゃあ、もう外に出なくて良いの?」と聞いたら「それはイヤだ」そうで、でも出たらまた風邪をひくかも知れない、とリスクアセスの堂々巡りに陥ってしまって、ちょっと呆れつつも笑ってしまいましたsad

世の中に絶対の安心なんて無いのですけどね、でも、少しでも可能性があるのであれば、その可能性の存在を許せないのでしょう。

その後、健康を取り戻すに従って、風邪についての言及もなく、ケロッとしています。これも、シングルフォーカスの賜物かなと思うと、特性も痛し痒しですねhappy02

2014年9月24日 (水)

(474) 蚊を叩く

最近はめっきり涼しくなりました。でも、困ったことにまだまだ蚊は健在です。

唐突ですが、お子さんは蚊を叩けますか?

「虫が嫌いで触るのもイヤ」という場合は、もちろん無理だと思います。なお、ここでの主題は、「生物の命を無闇に奪ってはならない」という道徳的な意味は考えないものとします。

単に「物理的に飛んでいる蚊を両手でパチンと叩いて殺すことで、蚊に刺されてカユミにしばらく不愉快な思いをすることを未然に防止することができますか?」ということです。

息子は、できません(キッパリ)。アッチ行ったりコッチ行ったり不規則に飛ぶ蚊の動きを目線で追い、方向を換える一瞬の動きが緩やかになったタイミングで決断し、両手を協応させて素早く仕留める、ということはとても難しいことのようです。

本人に、自分が運動が下手であるという自覚があって、かつその分うまくやらなきゃという気負いが加わって、中々叩く決断できないのですよね。しかも、両手を一緒に動かすということがとても困難なようで、いざ叩いた時にはもう蚊は別のところに余裕で逃げている、ということになっています。

発達障害というと、他者とのコミュニケーション不全に注目が集まりがちですが、こういう不器用さによってできない自分を思い知らされること、更には生きることにも困難を生じやすいということは、軽く考えてはならないなあと感じます。

2014年9月19日 (金)

(473) ある書評

広汎性発達障害の子を育てるためには、言うまでもありませんが療育の知識が必要となります。主治医、発達センター、地域の特別支援学校、療育機関、親の会等での説明会や勉強会、育児相談等で知識を増やすことももちろん大切ですが、その他に自分で障害に関する本を読むことは必須だと思っています。

その理由として、説明会や勉強会、育児相談では時間が限られていること、その時その時でテーマが絞られていることが多く、体系的に、広く全体をつかむという面においてはどうしても弱くなってしまう、ということが上げられます。本の場合、章を追って順番に書かれており、全体像を理解するのに向いているほか、筆者も何度も推敲を重ねているでしょうから内容も洗練されている、ということもあります。更に、わからない部分を読み返して理解、会得する、ということが可能であるという点も見逃せません。

とりわけ、療育用語に不慣れなうちは、結構良いお話をされていても、その中で使われる独特な用語について聞き逃したり聞き取れなかったり、或いは聞き取れても意味がわからなかったり、ということが少なからず起こります。本の場合は、そこで止まって調べたりすることができるのはもちろん、最近の本にはこういう単語に注釈がつけられていることも多く、スムーズに内容を理解できることになります。

特に初期に、本を読んで大まかな流れを理解することは大切だと思っています。では、どの本を選ぶべきなのか? 結構迷っている時に、書評(ブックレビュー)を参考にするのはよくあることだと思います。これは、療育本に限らずそうだと思うのです。

ある本の書評で、私はこの本は良いと思っていたところ、評価が低くつけられているレビューの書かれたものがいくつかありました。そういう本は、他の「良いという評価をつけたレビュー」に対しても「参考にならなかった」等のネガティブな二次的評価がなされています。

この場合、(ネガティブな)レビューそのものとレビューに対する(参考にならなかった、という)評価は分けて考える必要があると考えます。

まずネガティブなレビューの内容をしっかり読み、なぜネガティブなのかをキチンと把握することが大切です。何に満足できなかったのか、何を期待していたのか、が適切かどうかが問題で、無いものねだりだったり、要求が過剰であったりしないかをチェックすることが大切だと思います。

「他の療育本にも書いてある」という類の批判的なレビューについては、私は異論があります。同じ(系統の)障害について書いたものであれば、内容の一部はかぶるのが当たり前だと思うからです。きれいにその部分を外して書くことは、無理だと思いますし。

ただ、意外とそういう内容のことが書かれている場合があって、この手の低評価レビューしかないのであれば、それはあまり考慮に入れる必要がないと思います。

次に、レビューに対する評価ですが、これは実はレビュアーに対する評価が紛れ込んでいる可能性があります。言い換えると、本が素晴らしいと思っても、レビュアーが嫌いだったりすると、そのレビューに対してネガティブな評価をしてしまう人がいる、ということです。だから、レビューに対する評価は、レビューそのものよりもその本の価値を正確に表してはいない、ということがあります。

療育を始めたばかりの頃は、このような時にどのようにすればよいのか対応に迷うこともあろうかと思います。けれども、ここは慣れるしかありません。最後は自身の感性を信じる他は無いでしょう。

一方で、そういう批判もあるんだな、と受け流すことも大切になります。完全な本などないのですから。

うまくバランスを取る、と言葉で言うのは簡単ですが、結構難しいと思います。それでも一つ言えることとしては、医学界のメジャーな意見を軽く見ない方が良い、ということです。画期的な療育法が見つかったのであれば、みんなそれを取り入れているはずだ、という「当たり前」のことを思い出してください。これだけでも、だいぶ判断力が向上するはずです。

ご検討をお祈りします。

2014年9月12日 (金)

(472) つまらない人生

人生に感じる面白さ、つまらなさって外から見てわかる客観的事実と、その事実に対して人生を生きている本人の気持ちの組み合わせ次第だな、と思っています。

でも、これってかなりのバリエーションがあって、傍から見たら「・・・それ、面白い?」って聞きたくなるようなことであっても、本人は面白くてしょうがない、ということもあり得ますし、その逆に「どう考えても楽しいでしょう?」としか思えないようなことであっても、本人にとってはつまらない、ということはあり得ます。

結局、最後は人がどう思おうと、本人の主観で人生の面白さは決まってしまうのでしょう。当たり前だと思われるかも知れませんが、じゃあ障害児親の人生ってどうなのでしょうか?

これも、面と向かって言われることはないものの、俗にチラシの裏に書かれることとしては、「心配ばかりですよね」「楽しくないでしょう」「苦労が多そう」「育て甲斐を感じることってあるの?」といったネガティブなものが非常に多いように感じます。ひとことで言えば、「つまらない人生」なのではなかろうか、と。

でも、その方々と同じ価値観を持ってしまったら、それこそ本当につまらない人生になってしまうと思うのです。自分の思いはどうなのか、を素で考えてみる必要があります。

人間は、置かれた境遇に従って生きるほかはありません。私たちがすごい美貌の持ち主であったり、運動万能であったり、明晰な頭脳を持っていたり、大金持ちの家に生まれたり、というようなことがあまり無かった(そうでない方は、申し訳ありません)のも、選択できたわけではないのです。人生の面白さは、今の境遇をどう受け止め、生きていくかにかかっていると思います。

当たり前を当たり前としか感じられないことって、それは面白い人生なのでしょうか? ホンのわずかの成長が当たり前ではなく、とても価値があることだと気付く感性を開化させられることって、とても面白い人生につながると思うのですが、いかがでしょうか?

大多数の価値観に従うことは楽であるとはいえ、所詮他人のものです。他人の価値観に乗ってしまった人生は、自分の思いとかけ離れがちであって、それはやっぱりつまらないだろうなあと感じます。

その呪縛から自らを解き放ち、ちょっとしたことでも感動できる感性を取り戻した時、その後の人生はきっとより充実した楽しいものに感じられると確信しています。

2014年9月 1日 (月)

(471)話せるようになればなったで

「這えば立て、立てば歩めの親心」

このことわざは、子の成長を願う親の気持ちを素直に詠んでいますよね。

その先に「歩んだら言葉を発し、言葉を発したら会話ができる」ということも、あると疑うこともなく信じていたあの頃。ふと遠い目をしてしまいます。

残念ながら、我が子は、歩んだ以降中々言葉を発しませんでした。単語は何とかチラホラ出てはいましたけれど、頼りない限り。それで、話しかけをしたり、一緒にお散歩したり、絵本を読んだり、言葉を引き出すのに良いとされていることはいろいろやったのですけどね。

自閉症スペクトラム障害の子の場合、それでも遅ればせながら言葉が出てくるようになることは、少なからずあります。私の息子もその一人です。但し、それまで「出ろ出ろ」と願っていた単語がたくさんになっても、じゃあ会話が成り立ったか? と問われると、残念ながらそれは違うということになりますね。

状況に合わない言葉を使う、そもそも単語が日本語じゃない、単語から二語文、三語文に中々移行しない、おうむ返しばかり…という時期が結構長く続きます。やれやれやっと話せるようになるのではないか、という期待を見事に裏切ってくれます。

息子が年少の頃だったでしょうか、何かの行事があって幼稚園に行った時に、ある女の子から「息子君、面白いね。言ったこと何でも真似するんだもん」と言われたことがあります。きっと、おうむ返しをしていたのでしょう。言葉は確かにマネをするところから始まるのですけどね、このように言われた時には、しょうがないとは思いつつもちょっとガッカリしたものです。

それからも、運動をさせようと室内遊具(ジャングルジム)を設置したり、ジュースを買う時には必ず複数買って、飲むたびにどちらかを選ばせたり、といろいろなことを試みて、少しずつ会話になるようになってきました。

一方で、話すようになると、本当に言わなくても良いこと(一般的には「余計なひとこと」)を気兼ねなく口にするようになったりして、親がヒヤヒヤすることも少なくなく、「話せるようになって本当に良かったのか・・・?」とジッと手を見るようなことも無くはありませんでした。

健常の子と比較すると、恐らく数倍の時間をかけて言葉を習得しつつありますが、小学校高学年になった今でも言語聴覚士さんの指導を受けており、まだまだだと感じることも多くあります。

このブログに来られている方の中で、言葉を伸ばしたいと思っている方も多いと思いますが、話せるようになったらなったで、次の課題が出てくることは理解・覚悟して頂きたいと思います。

もちろん、生きやすさに直結する能力でもありますし、このような課題があるとしても、やはり伸ばせるものなら伸ばすべきなのでしょうけどねえ。

ただ、言葉は指導すればしただけ伸びるというものではありません。指導の前提として、信頼関係を築き、何かあったら親に伝えられるような雰囲気を作っておくことも大切です。健常の子が、何かあると親を呼びに来たり、親に見せに手のものを持ってきたりすることを考えれば、信頼関係があって初めて成り立つことだというのは自明だと思います。

親の側も、子が何か伝えてくれたら、たとえそれがたどたどしく、多少不正確であっても嬉しさを爆発させて肯定的に反応する。このフィードバックが次のやる気を引き出します。

今も、息子が話せなかった時のことを時々思い出しながら、伸びたことへの感謝を忘れず接するように心がけています。

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    こちらの派生ブログです。 こちらが息子を中心に息子の成長の様子や成長に関わり教育や社会について考えたことを書いているのに対し、同じ発達障害絡みではあるものの、広く社会一般を理解する一方法を軽く書いています。 せっかく学んだ発達障害の知識を生かすとすれば、という視点で書いています。
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