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2014年4月

2014年4月29日 (火)

(452) 細やかな配慮

これ、記事にするほどのことかな、と思いつつも正直嬉しかったので書きます。

今日、私は親の介護のために単身帰省していた名古屋から、新幹線で帰京しました。

名古屋と言えば、土産物として考えられるものの筆頭としてういろうがあります。ただし、これは重いので今回は却下。ちょっと考えて坂角のゆかり(えびせんべい)、うなぎパイ(厳密には名古屋じゃなくて浜松土産ですね)、納屋橋まんじゅうを買って帰りました。

元々おまんじゅうは息子が好きなのはわかっていた一方で、あまり日持ちしないので若干思案していたところ、売店で2個パックを売っていたのを見て衝動買いしたという経緯がありますcoldsweats01

家で、息子はまんじゅうを一つ食べ、「すごく美味しかったheart04 もう一つ食べても良い?」と聞いてきました。これを受けて妻は、「お母さんも味見して良いかしら。半分こしてくれる?」と聞いたところ、「じゃあ、いらない」と息子が言い出したのです。

機嫌が悪くなったのかなあと若干不安になりつつ成り行きを伺っていたところ、息子は「こんなにおいしいまんじゅうだから、お母さんと妹にも食べてもらいたいなあと思って」と言ったのです。

息子が、このような配慮を明確に示したのは、恐らく初めてのことです。親としても、想定外に成長していることがわかって、ビックリするとともにとても嬉しく感じました。

何だそんなことか…と思われるかも知れませんが、自分の欲求を抑え、周囲への細やかな配慮を優先する言葉を何のプロンプトもなく言い出したことは、やはり成長しているなあと感じざるを得ません。

順調に、このようなことばかりだと良いのですけどねえ。

2014年4月25日 (金)

(451) 障害者家族の連帯

障害者は、少数派に属します。ゆえに、その育児をする上では周囲との軋轢は避けにくいものとなります。

ここに来られている方の中にも、周囲の理解を得られずに孤独感にさいなまれておられる方は少なくないと思います。私自身そうでしたし、同じようにネットで情報を探し回ったことがあります。

だからこそ、少数に属する者同士連帯していくべきだ、という思いは私も無いわけではありません。ただ、これはすごく難しいことだろうな、とも考えています。

なぜこのような「悲観的」な考えになってしまうのか、ということになりますね。

これは、一言で言えば、私たちは家族に障害を持つ者がいる、という1点のみを共有しているからだということになります。

出身地も、居住地も、家族の成り立ちも、学歴も、勤め先も、収入も、みんな異なります。加えて、実は共有できている「家族に障害を持つ者がいる」ということすらも、障害の種類や態様、軽重も、それぞれ違うことになります。

人間は、共有できる範囲が多いほど共感し連帯感を持てます。私は、共有できる範囲とは、共有できる項目数とその各項目のレベル、さらにそれらへの興味関心の度合いの3つで決まると考えており、この重なり具合が少なければ、連帯を維持できないと思うのです。

実際、障害を告知された直後は、頭の中は障害のことでいっぱいになるでしょう。一方で、障害について詳しくない、という状態になりますから、重なる範囲は大きいのです。それが、段々障害の程度を理解するとともに受容し、やるべきことが見えて落ち着いてくると、興味関心が障害の外にも向く(戻る)ようになります。となれば、段々重なる範囲が異なってくるのは自然の成り行きだと言えます。

もちろん、こうやって出会った方々の中には、趣味と嗜好が合うという方も出てくるでしょうし、そういう人との付き合いは継続できると思います。でも、ただ、障害がある、という一点のみであれば、かなりシンドイことが予想されます。

このような状況って前もあったなあ、と思い出すと、個人的な経験で申し訳ありませんが、自動車の合宿免許がまさにこんな感じなんですよね。何の接点も無かった人たちと、17日間寝食を共にして、免許取得という共通目標に向かって過ごすうちには、すごく仲良く連帯感も生まれました。でも、いざ合宿先での教習を終えて家に戻り免許を取ってしまえば、その後付き合いも無くなってしまうのですよね。

共通する一点での付き合いって、このようなことになりがちだと思うのです。

障害者の家族がつながるためには、一案として更に何かを求めて具体的な主張を基に社会への働きかけ、運動をしていく、ということが考えられます。ただ、これも何をどれくらい求めていくのか、の調整が必要になりますし、それはかなり難航しそうですよね。

加えて、運動はそれ自体が目的化してしまうということにも注意が必要です。必要だと思うことを求めて運動していたはずが、気が付いたら何かを求める活動を継続することそれ自体が目的化してしまう。意外と陥りがちなことだと思います。

ことほど左様に、障害者家族の連帯は難しい。残念ながらそう考えてしまいます。

2014年4月20日 (日)

(450) 褒めて!

古くからの読者の方(がいるのかは不明ですがw)はご存知の通り、我が家は息子ヘの療育を実施するにあたり、小さい頃からABA的な関わりを中心にしてきており、良い行動は強化して伸ばすという対応をしてきました。

これは、決して間違っていなかったと思います。強化子による対応は、人を成長させる力があると確信させてくれましたし。

このような関わりをし続けた息子も、現在小5になっています。はるか昔、ABAをおっかなびっくり始めた当初は、課題ができたらチョコベビーを強化子としたりするなど、モノによる対応をしてきたのですが、今では専ら褒め言葉で対応できています。

ある日、息子が自分で遊びをやめて片づけを始めた時に、息子は妻に対して「お母さん、何か言うことない?」と聞いてきました。

どうやら、褒め言葉を要求しているらしいと察したので、妻はそのような対応(つまり褒めまくり)をしたところ、嬉しそうに片づけを続けていました。

この件について、「要求によってかけられる褒め言葉ってどうよ?」という批判はあると思います。でも、そのような要求があるということは、自分の判断基準の中でこれは良いことをやっている、という認識を持っているということに加え、良いことをやればやはり褒められたいという欲求は持っているのだな、ということがわかりますし、そうであるならばそれを面倒がらずに充足することってやっぱり大切なのだと感じています。

もちろん、そもそも論として「褒められなければやらないのか?」「本当に自発的な行動と言えるのか?」はあると思います。

これに対しては、「褒められればやるのであれば、それはそれで良いのではないか?」という「とらえ方の問題」として考えることもできるだろうと思います。

実は、世の中で無償の行動はそれほど多くないという現実を前にすれば、十分に反論できると考えています。給料無しで働く人って、まずいないわけですから。

むしろ、褒める(という手間はかかるものの金銭的な支出を伴わない)ことによって、人が動くようになるのであれば、それはとても結構なことなのではないか、と考えるのですが、いかがでしょうか。

療育に行き詰まっている時、初心に帰ってまず褒めてみることって大事だと思います。

2014年4月13日 (日)

(449) 療育先での知り合いと再会(おまけ)

前回、書きもらしていたことをいくつか。

発達障害児同士の再会において、目を合わせる行為ってやはり少なかったです。二人とも一瞥はするものの、視線が交わる回数は明らかに健常者同士よりも少ない、というよりまず見ていないと言った方が正しいです。

お互いに、悪意や敵意は持っていないはずなのですが、両方ともちょっとズレた方を見ていたり、視線をあらぬ方向に動かしながら話をするのです。また表情もイマイチで、少なくとも会えて嬉しいという気持ちを前面に押し出すような感じからは程遠いものでした。

加えて、言語の表出能力が低めであることから、同じ内容を繰り返したり、相互の発言に乗っかりながらというのではなく、一段抜かした「いきなり感満載」の会話になったり、私は傍で聞いていて素直に「この二人、相手が言っていることをキチンと理解できているのだろうか?」と不安を覚えるような状態ではありました。目線も合わさずに、たどたどしい会話が進行する状況を客観的に見れば、残念ながらこの二人はコミュニケーションがうまくできていない、と評価されることでしょう。

但し、それなりにそれぞれ受けてきたであろうSSTの成果が出ている部分もあって、別れ際には妙に丁寧に、かつ相変わらずぎこちなく「それじゃあ、またお会いしたいですね」と言っていたのは、ちょっとおかしくもありました。

こんな感じではあったものの、それでも、後で聞くとやはり嬉しかったようです。まあ、ちょっと違うとは思いつつ、好きな子に中々思いを伝えられない思春期の純朴さのような感じに近いかなあと。

何はともあれ、相手と話をしようとする意欲とその実践が垣間見られたできごとではありました。こういうことは、やらなければそれまでになってしまいますし、意欲を維持できたことは、成長した点として喜びたいと思っています。

2014年4月 5日 (土)

(448) 療育先での知り合いと再会

春休みももうすぐ終わりですね。土日の度にどうやって過ごすかを考える日々からも、もうすぐ解放されますhappy01

先日のことですが、昔ある療育先で出会った親子と、全く別の場所で再会することがありました。

私の場合、療育先で出会った方に対しては、個体の問題とは別に良くも悪くも戦友のような妙な連帯感を抱いてしまいます。同じ経験、同じ思い、同じ苦しみをした人である、との感覚からくるものなのでしょうけれど…。

そして、やはりお子さんの成長ぶりも「見て」しまいます。順調に育っているようであればもちろん良かったなと思いますし、そうでなければ何が問題なのだろう、と考えをめぐらすことになります。

特に、息子より学年が上のお子さんの場合、少し先を行く先輩としてその動向が気になります。これは、親としてやむを得ない感情だと思います。だからこそ、うまく行っている人に対して、喜びこそすれ嫉妬等抱きようもないわけですけれど、このあたりをどうも誤解している人が残念ながらいますね…。

広汎性発達障害の子は、人の顔を覚えることが苦手な場合が多いです。というか、顔の表情に興味が向きにくいことから、顔を見る頻度がそもそも健常児に比して少ない、あるいは逆に顔の一部分だけに視線が過集中してしまう結果として、顔全体を記憶しにくくなるのかなあと推測しています。

ゆえに、今回お会いした子供同士も、かつて療育先でお付き合いをしたことがあったことを覚えていたのかはかなり怪しい状態でした(少なくとも、息子は「さあ、記憶にないなあ」とつれないことを言っていましたorz)。でも、再会してしばらくすると、お互いに同じ「におい」を感じるのか、結構仲良く遊びだしたりもしました。

記憶の中の思い出は、もちろんお互いを再び結ぶきっかけになるのでしょうけれど、仮にそれが怪しくてもまた遊べるようになるのだなあ、とちょっとうれしく感じました。

当分はその子と会うこともないのでしょうけれど、またどこかで再会できたら良いなあと思っています。

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