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2013年12月

2013年12月29日 (日)

(435) 少数派のハンディ

発達障害児を育てている今、常々感じることですが、やはり多数派は楽です。世の中の価値観は多数派によって形成されていて、似たような考え方をする人が周囲にたくさんいて、いちいち自分の考えていることを微に入り細に入り説明しなくても済むというのは、楽ですよね。

それどころか、思ったことをほとんど口にしなくても、周りに伝わって実現してしまうことすらあります。もっとも、これはその人が周囲から大事に見守られているからだ、という事情もあるからでしょうけれど。でも、発達障害側から見れば、♪あんなこといいな できたらいいな のドラえもんの歌詞の通りに感じられるくらいの羨ましいできごとであったりします。

さらに多数派は、敢えて異なる考え方を知ろうとしなくても、特段生活に困ることはありません。イメージ的には、英米人は、敢えて他の言語を学ぼうとしなくても済む、というのに近いでしょうか。植民地であった地域が独立しても、英語が公用語等として残ったことによって、彼らはそのような環境を得ることができてしまいました。加えて、相対的にでも多数派言語となったことで、非英語文化圏の人達も英語を学ぶようになった結果、今後も広範囲に英語が使われ続けていくこととなるでしょう。定型発達文化も、基本的には同様だと思っています。

これに対して、少数派は真逆です。自分の考えていることを細かく説明しないと、理解を得るきっかけをつかむことができません。理解を得られないだけならともかく、時には非難されてしまうことや、攻撃されてしまうことすらあります。

だからこそ、多数派の考え方を学び、理解することにエネルギーを注がなければなりません。そして、自分の考え方との接点を探し、自身を納得させられるような自分なりの落とし所を探し続けなければなりません。

少数派が負うハンディは、単純に差異があるということだけではなく、差異を埋める努力をどちらがより負うかという点でも顕著に表れると思います。言い換えると、「みんな違ってみんな良い」ということが、ようやく認められるようになってきているものの、その差異の存在を許容されるだけでは、ハンディは埋まらないということです。

確かに、一方的に多数派の価値観に合わせることを強いられなくなりつつあるのは良いことでしょう。しかし、共存を認めてもらうだけでは相互理解・相互交流は成り立ちません。だとすれば、本来は両者が歩み寄る「べき」ではあるものの、多数派は必要性をあまり感じないことから、結果的に少数派が文字通り必要に迫られて努力せざるを得なくなってしまっている、という現状があるように感じます。

本当は、どちらが異なる考え方の存在を想定し、それに合わせた行動をすることが容易か? ということを考えた場合、能力的には多数派である定型発達側の方が得意なはずなのであり、不得意な発達障害者側が努力義務を事実上負ってしまっていることには何とも言えないジレンマがあると思っています。

ただ、これは恐らくどれだけ声高に世に訴えても、変わらないでしょうね。残念ではありますが。

2013年12月21日 (土)

(434) SSTを考える

発達障害児の社会性を伸ばすための取り組みとして、代表的なものにSST(Social Skills Training)があります。息子もこの取り組みを実施中ですが、これは、マンツーマンで行う方法と集団で行う方法があるようです。

マンツーマンの場合は、主にイラスト(例えば、ケンカをしている絵)等を見ながら、原因は何か、何が問題なのか、どうすれば良いのか等について先生と本人で話し合いをしながら解決策を探っていく、また集団の場合では、与えられた課題(例えば、すごろくを作る)を達成するために、複数の参加者で案を出し合い、相互の主張を折り込みながら、作り上げていく、というようなことを行う中で、社会性の向上を目指すこととなります。

本来、社会は複数の人間で成り立っているので、集団で実施していく方がベターだと思いますが、集団でやるためにはいくつかのハードルがあります。

まず、当たり前ですが集団でやるためには複数の参加者が必要になります。こういうニーズを持つ希少な子が、同時期にその教室に申し込まないと成立しないことになります。

そして、ある程度レベルが近い子同士でないと、上述のような課題に対して一緒に取り組むことが難しくなります。つまり、複数の近いレベルの子がいないとこの方法は成り立ちにくいことになり、ある程度の規模の療育先でなければ、教室の立ち上げ自体が困難となる、という現実があります。

逆に、成り立ったとしても、今度は定員の関係から後から追加的に参加することが難しく、空き待ちになる場合も有り得ます。

加えて、取り組む子にとっては、もちろん集団の場合の方がマンツーマンでやる場合よりも取り組みレベルが高くなります。元々社会性が弱いからこそSSTに取り組む必要が生じているわけですから、放置してうまく課題が達成できるわけではありません。状況を見ながら、時に先生が方向性を示したり助け舟を出しながら進めていくことが必要となりますので、先生の技量も必要になります。

このような多くのハードルを乗り越えてできた集団に身を置くことができるのは、かなりの幸運だということになります。ところが、実際にそういう集団の中でSSTをやらせてみると、意外にうまくできてしまう例をよく見ます。なぜだろうと考えると、

one課題が明確
two参加者も、自分たちが何をしにこの教室に来ているかがわかっている
three本人もその解決に全力で取り組める状況・環境である
four先生のリードやアドバイスで、解決策が容易に見つけられる

というようなことが考えられます。

むしろ、なぜSSTに取り組み始めたのかを考えると、最終的には何気ない日々の生活における人との関わりの中でのちょっとした行き違い・思惑のズレの中から、課題を抽出して(⇔one)、その解決の必要性をキチンと認識して(⇔two)、他にもやることがある状況でありながら感情の激発を抑えて(⇔three)、独力で解決策を考えられる(⇔four)、ということを目指すことになるのだとしたら、この手の教室での取り組みは、かなりヒントが多い状況だということになります。

私のイメージでは、数学の問題で、同じ問題を理系クラスでは一気に解かなければならないところ、文系クラスでは小問(1)、(2)、(3)を個別に問われて、これらを基に(4)の解を求めなさい、と回答の筋道を小問で導かれるような感じですかね(わかりにくい例えかも知れませんがcoldsweats01)。

このようなわけで、SSTに対するニーズは高いものの、どうしても易しめの取り組み内容になりがちなのですね。ゆえに、期待したほどの成果が感じられないことから、途中で辞めてしまわれる方もおられます(厳密には、そう言い切られたことは無いので、私の憶測でしかありませんけれど。なお、空き待ちの人にとっては、チャンスが回ってくることにもなりますが…)。

とはいえ、だから全然役に立たないかと問われたら、私はそうではないと思っています。文系数学のようなものでもやらないよりはマシですし、いくつかのパターンをこなしていくうちには、応用できる範囲も広がってゆくでしょうし。

もちろんできるにこしたことはありませんが、どのようなことでも全勝を目指そうとするとシンドくなります。元々不得手な部分であり、赤点にならないレベルでさえあれば良いのではないか、と思うのです。

時には失敗することがあるかも知れませんが、その穴を埋めるために膨大な時間と労力を費やしても奏功するかがわからないわけです。それよりは、他の得意な部分を伸ばすことに力を注いだ方が、本人のトータルの人間的能力・魅力は高まるでしょうし、その見極めをキチンとつける方が大切ではないか、と感じています。

2013年12月14日 (土)

(433) 困った時に

人間誰しも
「困ったな…」despair
「うーん、どうしよう?」think

と思う瞬間があると思います。

そう思うこと自体は全く普通なのですけれど、発達障害の子の場合、不器用、独特の認知等の要因によって能力的に自力で解決できない可能性が高いため、本来は速やかに周囲に助けを求める方が問題解決が早いはずなのです。

しかしながら、彼らはシングルフォーカスという特性があり、今取り組んでいることに全力を注いで集中してしまう傾向にある結果、助けを求めることについて思い至ることが困難となります。

そして、「何を根拠に?」と問いたくなるくらい妙にプライドが高いという特性も併せ持つことから、人に何かを頼むことに心理的な抵抗感を抱きがちです。

更に、やっと助けを求めようという気になったとしても、人に助けを求めて話しかけるタイミングが分からないという特性から、マゴマゴしてしまうことにもなります。

おまけに、それらを乗り越えても、自分の置かれている状況や困っている内容、どうしたいのかを的確に表現して伝えるのが苦手という特性もあったりします。

これらの相乗作用によって、発達障害の子が困った問題に直面し、解決まで至ることは、かなりの難関ということになります。

とはいえ、一度取り掛かってしまうと、逆に途中で諦めることも困難な彼らは、イライラ感を募らせてバーストしてしまうということも、残念ながら決して珍しくはないです。これでは決して楽しい人生とはなりませんcoldsweats01よね。ゆえに、まず彼らに対しては、どうもうまくいかないなあと感じた時点で、取り組んでいる事柄から気持ちをちょっと離す訓練が必要になります。

本来、試行錯誤をすることも、成長にとってはあながち悪いことではないとは認識しつつも、大体これくらいやれば…という見極めがつけにくいのであれば、与えられた時間や自分自身の気持ちの変化(イライラし始めた、等)を冷静に判断できるようにすることはどうしても必要となります。それが難しいと言われたら、その通りではあるのですが…。

次に、助けを求めることは恥ずかしくないことを教えていく必要があります。これは、親自身が子供の見ている前で、誰かに助けを求める姿を見せる、というやり方もありますし、逆に子の側も、第三者ではなく親にならまだ助けを求めやすいでしょうから、(助けを求めるようにプロンプトし)助けを求めて来たら、その行動を誉めて強化する、というやり方もあるかと思います。

話しかけるタイミングや困っている内容説明については、正直なところ場数を踏んでいくしかないなあと感じています。本当に困っていて緊急性がある場合には、タイミングを図っていられませんし、内容説明も、ある程度は頼られた側の理解力・推理力に期待しなければならないことにもなりますし。ケースバイケースと言ってしまうと、漠とし過ぎていてそれはそれでちょっと問題ではありますが…。

もちろん、SSTや言語指導を受けるという手もあるでしょうけど、これらを上手に指導できる人はかなり限られていて、順番待ちとなってしまうという現実があります。親が感度を高めて、日常生活のちょっとした指導の機会を見つけて逃さないよう意識していくしかなさそうです。

自分が困っている時にそれを誰かに伝えて解決していくことは、逆説的ですが「自立」に不可欠な能力だと思っています。ゆえに、この取り組みも不可避のものとなります。ただ、他者と冗談を交え円滑なコミュニケーションを取る、という極めて高いハードルに比べれば、まだ取り組みやすい課題であるとも言えますし、地道にやっていくしかないなあと感じています。

2013年12月 7日 (土)

(432) なにごともない贅沢

日常の業務にかなり追われているのとネタ切れから、今回は短文です。

いきなりですが、私がかつて泊まって良かったなと思う宿(「椎葉山荘」佐賀・嬉野温泉)のキャッチコピーとして、「なにもしないことが、とても贅沢。」という表現があります(なお、アフィリエイトではありませんので念のためw)。

発達障害の子を育てていて感じるのは、「なにごともないことが、とても贅沢。」だということ。

行事ごとがあるたびに、「大丈夫かな…」とドキドキしながら行って、たまたまうまくできてしまった時の安堵感。これは心底から贅沢な感じなんですよね。

活躍する我が子の姿を一目見たいという健常児の親御さんとは、恐らく全く違うこの感覚。理解してくれる人は、少ないとは思いますけどw。

演目が終わり、「どこにいるのかわからなかった」という状態を成長と感じられることは、それはそれで良いことなのでしょう。そういう楽しみを積極的に見つけていくくらいの姿勢の方が、負担感が下がって良いのではないでしょうか。

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