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2013年10月

2013年10月25日 (金)

(426) マイペースと譲れる範囲

広汎性発達障害と診断済の息子との生活も、10年になろうとしています。

やはりその特性から来るものだからしょうがないとはわかっているものの、息子は自身のペースを崩されることが苦手です。幼少期の、激しく抵抗するというようなことは無くなってきていますが…

例えば、学校に行く時間が迫っている時に、急いで間に合わせようという意欲を見せることは、まずありません。このままだと確実に遅刻するなあと思うと、親としては「息子君、時計を見て! あと10分で家から出ないと学校に間に合わないよ」と言わざるを得ません。これに対して息子は、「時間が経つのが早過ぎる!」という、極めて「ユニーク」な言葉を返してきますcoldsweats01

思わず平清盛が、「なかなか進まない海の工事に業をにやして、扇で太陽を仰いで戻した」伝説を思い出してしまいました…bearing厳しく言っても効果がないばかりか、かえって事態を悪化させてしまう結果を招くのはわかっている一方で、黙っているわけにもいかず、公知の事実として「時間は皆に平等に経っていくのだから、時間に合わせて準備をするしかないよ」と伝えるようにしています。そうすると「わかってる!」と不愉快になってしまいます。

実は、息子も冷静になれば私が言っていることはキチンと理解できるのです。でも、彼の不愉快回路(私の勝手な命名です)が作動し始めると、そういう理性的な判断ができなくなってしまうのですね。発達障害児の多くは、特性から自分の意思に反した急な予定変更をすることも苦手なため、言われてもすぐに反応することができず、グズグズした態度をとってしまいます。

ところが、これを一般の人から見ると「正しいことを言われても従おうとしない、反抗的な態度であって、許してはならない」と受け取られやすくなってしまうという事実があります。

実は、いざ会社に入ってしまうと、マイペースな人って結構います。私も、「へ? そんなのアリ?」と思ったことがあります。ただ、大人になってしまうと半分は諦められて周りの方で調整してしまうことも多い(もちろん、その分その人の評価は低めになる)のですが、子供だと、むしろ子供のうちなら治せるという特性に配慮しない善意の誤解から、厳しくされることが多くなり、結果として彼らがかえって辛い立場に追い込まれることも多いのではないかと危惧しています。

息子は、今では昔よりも短い時間(但し、普通の人よりは長い時間)で「気を取り直して」やるべきことをできるようになってはきました。この部分については、特性に配慮して厳しく言うことは避けるべきではあるものの、ブレずに伝えるべきことは伝えていくという姿勢が大切だと感じています。

配慮とは、譲れるところは譲ることでもある一方で、譲れないところまで譲ることは配慮ではなくスポイルになってしまう、ということを忘れてはならないと思います。この見極めが大切なのですが、まさに微妙なさじ加減であり、最後はエイヤーでやらざるを得ないことになりますね。

2013年10月19日 (土)

(425) まだ行ける

息子に対して療育をやってきていて、費用対効果を全く意識しないか? と言われたら嘘になります(ここで言う費用とは、お金だけではなく労力や時間も含んで考えています)。

幸い、今まで療育をやったらやったなりに何らかの効果があったので続けてきていますが、いくらやっても身につかない、変わらないという状態になった時にどうするか? このことは常に頭の片隅にあって、いずれその時が来るかもしれないと恐れながら続けてきているのが実態でもあります。

もしそのような状態になった時には、自分以上に息子も辛いだろうなあと思いますし、無理強いをすることなく、障害者として生きていける場所を探してあげなければならないな、と考えています。

療育は、独特の認知能力に合わせた教え方をすることで、子の学習意欲を継続させつつ学力を向上させたり、ソーシャルスキルを教えることで社会生活へ適合しやすくさせたりするものであって、最終的には社会で生きていくために必要なことを教えるものだと考えています。学力については、ギフテッド教育(突出した高い能力のある子の能力を更に高める教育)も魅惑的ではありますが、まずは地道に学校の授業についていけるようにする、ということが当面は求められます。

一方で、昔から学校教育は「七五三教育」と言われてきました。小学校で7割、中学で五割、高校では三割の子しか内容を理解できていないということで、半分は揶揄も入っていると思うものの、小学校で既に三割が落ちこぼれてしまうわけです。

しかも、この中には特別支援学校・学級の子は含まれていないでしょうから、この率はもう少し高くなるはずです。加えて、ゆとり教育への反省から、今は逆に昔以上に学習量が増えているように感じますし、ついて行けずに落ちこぼれてしまう子は増える方向に進むことが予想されます。

不謹慎かも知れませんが、落ちこぼれて覚悟を決められるなら、その方が楽なのではないかと考えてしまうことがあります。「まだ行ける、まだ頑張れる」という考えは、苦しい状況が継続することとほぼ一緒であって、いずれ白旗を上げることがわかっているなら、そうしたいという思いがわく一方、やはり行けるところまでは頑張らないと、とも思います。

この狭間で揺れるのは、月並みですが親の業なのでしょうね。

中国の宋の時代の有名な詩人、蘇軾の七言絶句に「春風を待ち得たるは幾枝か在る」という一節があります。冬の雪や霜にやられてしまい、春風が吹くまでに枯死した枝はたくさんある。即ち多くの有為な人材が春を待てずに死んでいったことを嘆いたものですが、子供が学習も含めて自分の意欲を枯らせてしまわないよう、親は「まだ行ける」と信じてやっていくしかないのでしょう。

春はいずれやってきて、その時に芽を出せるようにしておくために。

2013年10月13日 (日)

(424) 適切な療育と将来像の変化

障害児の親は、障害児の親になろうと思ってなったわけではありません(願った通りだった方がもしおられたら、ご教示下さい)。まあ、強いて言えば第一子が障害児で、そのことを既に知っていて、第二子(以降)を望まれた場合には、もしかしたらその可能性があるなあくらいには思っていたかも知れません。でも、なろうと思っていたわけではないという点は、変わらないでしょう。

多少のバリエーションはあるかも知れませんが、ベースとして心の準備が全く無い状態で子が生まれ、育ってくるうちに何となく不安だけが募って、あちこち訪ね歩いて最終的に告知された、というパターンが一番多いのではないでしょうか。

このような過程を経て、障害というものに向き合うことになった(≒向き合わざるを得なくなった)親は、(1)子供の障害を受け入れているか、(2)子供に対し療育をしているか、の二つの観点から、以下の3タイプに分かれるように感じています。

one 子供の障害を受け入れ、子供の療育に手を尽くすタイプ
two 子供の障害を受け入れたものの、子供の療育を行わないタイプ
three 子供の障害を受け入れず、従って子供の療育に意を払わないタイプ

単純な組み合わせで考えると、

four子供の障害を受け入れないが、子供の療育に手を尽くすタイプ

も一瞬は頭に浮かぶのですが、これは事実上あり得ないので除外します。

実は、twoは客観的には同じなのですが、親の側の事情として更に

two-1として、「諦めてしまったがゆえに何もしない」というタイプ
two-2として、「何かしないととは思うものの、重圧から思考停止になってしまって何もできなくなってしまった」というタイプ

の2パターンに分かれるように感じます。

また、threeも実際は

three-1として、「子供の障害を受け入れないものの、健常児と同様にしつけていこうとする」タイプ
three-2として、「子供の障害を受け入れず、かといって健常児と同様のしつけもしない」タイプ

の2パターンに分かれることとなります。

three-1のタイプは、そう珍しいものでもありません。即ち、「うちの子は障害児ではありません。ちょっと変わっているだけです。親として、きちんとしつけていきます」という方って、お近くにおられないでしょうか? 確かに多くはないと思う一方で、無視できるほど少数でもないと考えておりますが、いかがでしょうか?

なお、three-2は単なるネグレクトですよね。障害の有無とは別の次元で対応が必要になるかと思います。

これら全体を俯瞰して見ると、障害を持って生まれた子供のの中で、成長度合いに応じた適切な支援を受けられる可能性があるのは、oneのタイプの親を持った子供の一部でしかない、ということに気付きます。

「えっ? 一部ってどういうこと?」と思われるかも知れません。

まず、twothreeがダメなのは自明だと思います。次に、oneのタイプについて考えてみましょう。確かに、手を尽くすのは結構なことではあります。しかし、親もついつい子のためを思うあまり熱心になり過ぎてしまったり、あるいは既存の療育に限界を感じ、効果が客観的に確かめられていないものにまで手を広げてしまったり、といった不適切な取り組みをしてしまう可能性を否定できないと思います。

熱心になり過ぎると、親も子もともに燃え尽きるリスクがあります。この中で、親が燃え尽きてしまえば事実上twoになってしまいます。

また、効果が確かめられていないものに手を広げてしまうことについては、実は本当に障害を受け入れていたら、既存の療育にも限界があることも含めて理解し受け入れなければならないはずなのですが、この点で親の欲目が出てしまうわけですね。かえって何もしない方がまだマシだった、という可能性すら出てきます。

このようなことを防ぐためには、やはり小児精神科医や信頼できる療育機関としっかり連携し、相談しながら客観性を保って進めていくことが必要になることを、常に心に留めておかなければならないだろうと思います。

それにしても、このように考えると、障害を持つ子が適切な療育を受けることはかなり難しい、稀有のことになるのかも知れません。そして、世間のイメージする障害児像も、もしかするとこの不適切な療育を経た子の姿からデフォルメされて作り上げられている可能性もあることを考えれば、親の側も自制と自戒が必要になると感じます。

一方で、このことは、親の側が意識して対応を変えていくことで子供たちがよりよく社会に適応できるかも知れないこと、即ち変えられる未来に希望を持てることを示しているとも考えられます。

この希望を胸に持続し、子供との日々の関わりに「にじみ出し」ていくことで、良い方向に変えていけたら良いなあと思います。

2013年10月 3日 (木)

(423) 子どもとの距離

健常児と障害児の育児の差異において、意外と意識されないことに、親が子との距離をコントロールできるか、という点があるのではないかと思っています。

具体的に言うと、健常児は育つに従い見聞を深める中で、彼らの世界が広がっていく。それに従い、その世界の中で相対的に親の占める割合が小さくなっていく。そうなると、彼らは彼ら自身の考えや思いに従って振舞うことが増え、結果として次第に親との距離が段々と広がっていく、ということになります。この流れ自体も含めて、親子の距離は、親の側でコントロールできなくなっていく、ということが起こると考えています。

一方で、障害児育児ではどうでしょうか。何だかんだと言いながらも親が前面に立たざるを得なくなる状況や場面も少なくなく、ある程度までは子が親の支援を仰がなければならない期間が長くなります。結果的に、親の側で子どもとの距離をコントロール可能な状況が続くことになる、ということになるのではないかと。

もちろん、一概に二分できるとも言えませんが、傾向としてはこんな感じになるのではないかと考えています。

障害児育児の場合について、もう少し考えてみます。このような状況下では、親子の距離をコントロールできる親が、意識して子どもとの距離を少しずつ広げていく、という試みをやっていかないと、往々にして年齢にふさわしい関わりから外れてしまう、ということが起こります。もちろん、障害による特性から、健常児と全く同様に接することは無理があるものの、ゆっくりとでも距離を広げていく試みは、やはり必要になると思っています。

コントロールできる、ということはコントロールしなければならない、ということでもあるのだなあと感じます。残念ながら、親はいつまでも生きていられませんし、またそれ以前に親も老化して無理が利かなくなっていきますから、子供の自立を促すためにもこの試みは避けられないものとなります。

もちろん、見ていて手を出したくなることが多いことはわかっていますが、その気持ちをグッとこらえる忍耐が必要になります。この点、健常児の場合は、自力でスっと次のステージに上がっていってくれることが多いので、ラクなんですよね。

世の大多数の人にはわからない葛藤ではありますが、地道にやっていくしかないなあと達観して頑張りましょう。

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