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2013年9月

2013年9月25日 (水)

(422) 仮に健常だったとして

更に、前回の話を受けて考えてみます。

仮に、自分の目の前にいる子が、実は健常児だとします。その場合、どのような人生を歩んでいるでしょうか?

前回、「見果てぬ夢」と表現したことが現実になったことを想像してみましょう。

恐らく、その育児は今よりも格段にラクです。寝ない子どもに付き合わされて睡眠不足になることも、奇声や奇矯な行動に周囲の冷たい視線に晒されることも、こだわりに悩まされることも、コミュニケーションを取れない不安に追い詰められることも、まず無い人生を歩んでいるでしょう。

そうなると、あなたのマンパワーの内、育児の占める割合は加齢とともに急速に少なくなっていくはずです。小学校に上がり、中学年も終わる頃には、もう親の引力圏から殆ど遠ざかっているでしょう。あなたには、少なからぬ時間と、余力を手に入れられることになるはずです。

で、そうなるとしたならば、あなたは何をするでしょうか?

当初抱いていた夢のように、有名中学校受験に親子で取り組んでいるかも知れませんし、リトルリーグに入れて活躍する我が子の姿に目を細めているかも知れません。あるいは、そもそも子育て自体にエネルギーを注ぐことなく、会社で更なる上の地位を手に入れることを目指して、モーレツサラリーマンとして社業に打ち込んでいるかも知れません。

ここで問われることになるのは、そういう(仮の)未来って、今の状況を経験した後に改めて考えて、それでも本当に手に入れたいものでしょうか? ということかと。

これは見解が分かれるところだと思います。少なくとも自分は、そういうものはかなり色褪せて見えてしまいます。

私たちは、障害のある子を抱えた中で、どのようにすれば家族が幸せに生きられるだろうか、について深く真剣に考えたことがあるはずです。その後で、これらの夢を改めて考えてみると、自分の場合、元々欲が無い方であるという性質も相まって、こういう生き方は決して悪くはないけれど、唯一無二のものではないな、と強く感じるようになっているのです。

幸せのレベルが下がっているだけなのかも知れませんが、会社で偉くなっても永続するわけではなく、退職後は会社関係での付き合いで残るものはそれほど多くはないなあと実感していますし、育児についても、勉強やスポーツという特定分野に限ることなく子供の幸せの手助けをすることが親の努めだと考えれば、それは今でもできるしやっていることとなります。このようなことを考えると、自分が上述のように感じるのもそれほど奇異ではないと思うのですが、いかがでしょうか。

これは突き詰めると、人は何のために生まれてきたのか? という古くからある問いに繋がるものかも知れません。この問いに対し、自分は「ただ今の環境で最善を尽くして生きるためである」と考えており、そうであるならば見果てぬ夢に心を奪われ執着する必要もないだろう、と思っています。

…たまに、執着が出ることはありますがw。

2013年9月19日 (木)

(421) そもそも育児に葛藤はつきもの

今回は、前回のお話の続きになります。

障害児親の心の片隅には、障害の告知をされた時の衝撃の重みに耐え、それを何とか納得しようとする心理が働いています。

いわゆる障害の受容と言われるものですが、これは元々エリザベス・キューブラー=ロスが『死ぬ瞬間』の中で発表した「死の受容」を援用しているようです。その内容は以下の通り。

think否認
自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑う段階である。


angry怒り
なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階である。

smile取引
なんとか死なずにすむように取引をしようと試みる段階である。何かにすがろうという心理状態である。

gawk抑うつ
なにもできなくなる段階である。

confident受容
最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階である

この「死ぬ」を「障害者になる」に置き換えると障害の受容のプロセスとなります。ただ、親の場合は「障害児の親になる」と置き換えることになりますが。

ここで「子に障害があって良かった」という心理を考えてみます。私の受け止めでは、最終の受容の段階まで至っているものの、一部不完全な印象を受けます。納得するための方便として「障害があることに何らかの深い意味があった」と信じることをエネルギーとして、怒りや取引の段階を通過している、といった感じでしょうか。

正直なところ、これはこれで当面の心の折り合いの付け方としてはアリだと思うのです。

但し、一歩間違えると新興宗教に取り込まれてしまうような危うさも感じます。なぜならば、彼らのよく使う勧誘文句は「あなたが今の境遇にいるのには(神様の深い計らいという)理由がある」「あなたは選ばれた特別な存在」ですから。ゆえに、そこにいつまでも止まっているのも良くない、という思いも持ってはいます。

確かに、何らかの深い特別な理由があるとでも思わないと耐えられない時期がある、というのは自分も実感として理解できます。逆に、たまたまの順列・組み合わせであなたの子が障害を持って生まれただけで、それ以上には何の意味もないと言い切られるのも、極めて客観的・科学的ではあるものの、簡単に納得できることではないだろう、とも思います。

とはいえ、ここで少し引いて考える必要があるだろうと思っています。即ち、そもそも育児において、子は親の思い通りにならないことが多く、かつそれでもその思い通りにならない子を愛し育てなければならないという不合理が内在している、という事実に向き合うことが不可避だと思うのです。この事実に向き合う中で、言うまでもなく障害児育児の場合は、思い通りにならないレベルが健常児育児よりも高くなりがちではあります。でも、健常児の育児でも、100%親の思い通りになることはまずありません。「障害が無ければ、子は自分がかつて語った夢の通りに育っただろうに」というのは親の側の幻想(もっと言えば「見果てぬ夢」)であって、健常児であっても、育っていく過程では、必ずや別なレベルでの葛藤が生じることとなります。そして、それが必ずしも障害児育児よりも楽である、という保証はありません。

このようなことに思い至るようになった時に、初めて肩の力を抜いて子を素直にあるがままを見ることができ、かつ子の良いところも悪いところも含めて受け止められるようになるのではないか、と考えています。

2013年9月14日 (土)

(420) 障害があって良かった?

障害のある子を授かり、大きなショックを受け、さてどうしたものかと途方に暮れかかった時に励ましになったのは、療育道coldsweats01の先を行く先輩達のブログやHPでした。育てていく上での参考情報を得たり、障害の受容をしていく中で気持ちの折り合いをどのようにつけるかという点で、その存在はとてもありがたいものでした。

今でも定期的に閲覧しているところもありますし、またtwitterで紹介されたり拙ブログを読んで頂いた方のところにお伺いすることもありますが、それらのいくつかの中で、「障害のある子を授かって良かったと思う」というような表現を見かけることがあります。

最初はあまり気にならなかったのですが、「…どうだろう?」と思うようになってきたので、このことについて考えてみたいと思います。

子が障害を持って生まれたことで、「自分の常識や世界観がいかに狭いものであったかがわかった」「当たり前だと思っていたことが当たり前ではないことを知った」。大体このような感じのことを書かれていることが多いのですが、だから「自分の子に障害があって良かった」と考えるのは、どうしても違和感があります。少なくとも私はそう感じます。例えば、次に生まれてくる子にも、障害を持って生まれてきて欲しいと思うでしょうか。

一昔前は、生まれてくる子について親や祖父母があれこれ夢(妄想)を膨らませながらひとしきり語り合った後、締めの言葉のように「ま、とにかく、五体満足な子でありさえすれば良いよね」という表現がされることが多くありました。乙武さんの「五体不満足」という著書が世にインパクトを与えたのは、このような風潮に対する強烈なアンチテーゼであったからだと思っています。

今は、人権意識も高まっており、このようなことを軽々に言う人はいなくなっていると感じていますが、心の奥ではどうでしょうか。やはり、障害が無い方が良いとの思いはあるのではないかと思うのです。

自分は、障害とは端的に生きにくさを感じることだと考えています。障害を持った子に対して、親として子が生きやすくなるために手助けをすることとなりますが、この手助けをするにあたって困難を感じているならば、普通は敢えて困難を経験したいと考えることはないだろう、と考える方が素直だと思います。

それでも、苦労する方を敢えて選ぶ人が世の中に一定の割合でいることは認識していますし、それも個人の価値観ですから、これ以上踏み込むことはできません。ただ、苦労すること自体が自己目的化していないことを願うばかりです。

これとは別の切り口でもう1点。むしろこちらの方がより本質的だと考えますが、私は、障害も子の個性の発露である以上、障害の当事者である子供の思いをきちんと忖度する必要があると思います。そして、親といえども子の個性については、まずは子の思いを優先して、親がその前に立って口を差し挟むべきではないと思うのです。言い換えると、子供自身が「障害があって良かった」と思っているのであればともかく、そうでないならば親が「子に障害があって良かった」と言うべきではないだろうと考えるのです。

テンプル=グランディンさんのように、自閉症による特質を生かして成功し、自身が自閉症であることに誇りを感じている方もおられます。逆に、周囲に理解されずに自己肯定感が低くなってしまい、二次障害を起こして引きこもる方も残念ながらいます。前者はともかく、後者について本人が悩み苦しんでいるのに、親が「障害があって良かった」等とは間違っても言ってはいけないと思うのです。

障害を持って生まれてきた子は、親の視野を広げるためや、親の価値観のパラダイムシフトを起こさせるために生まれてきたわけではありません。子は、子の人生を生きるために生まれてきたのです。従って、その子の持って生まれたものに従って、より人生を充実する方向にエネルギーを注ぐのは親の役割である一方、そのことの評価は、格好をつけるわけではありませんが「天に任せる」あるいは「後世に委ねる」べきだろうと考えています。

子は子であるがゆえに愛おしい。障害の有無を云々するのではなく、これだけで良いと思うのですが、いかがでしょうか。

2013年9月 4日 (水)

(419) 個性を伸ばす

SMAPの「世界に一つだけの花」という歌の歌詞にある「オンリーワン」という言葉、これが個性を端的に表した言葉だと感じています。

本来、人間は全く同じ個性を持つことなど有り得ない存在です。これは当たり前のことです。でも、この歌がヒットした陰には、上を目指すことに疲れた人の鬱屈した思いや、個人として尊重されない人のやるせなさといった、言葉に表せない思いに寄り添い解きほぐす力の存在があった、と思うのです。

高機能の発達障害の子は、何もしなくても存在自体が「そんじょそこらにない」「極めてキャラの立った」「個性的な」子であることが多いです。でも、彼らの個性に対する評価というのは、残念ながらネガティブなものが多いように感じます。

従って、彼らの個性が尊重されているのかと問われたらそうではありません。むしろ、その個性をすりつぶして普通の人になることを強いられることが多いと思っています。

ただ、そのようなアプローチをしてくる人を、単純に悪いと言うことにはためらいがあります。実際にそのようなことを強いてくる人は、本人に良かれという思いを持っていることが多いからです。少なくとも、悪意を持ち嫌がらせでやっているわけではありません。

むしろ、普通の人になる方が生きやすい、というイメージ、それもこれまでの経験から導かれているだけに妙に説得力を持ってしまっていて、それゆえにこのようなアプローチにつながりやすくなってしまっているのです。

冷静に考えれば、生きやすさのために個性をすりつぶすということは、即ち生きやすさと個性がトレードオフの関係になるということで、それってどうなのよ? という疑問はあります。本当は、人があるがままに受け入れられ、その個性を存分に発揮できることが理想なわけですから。

だからこそ、そのままでは生きにくいという状況があるのであれば、周囲の環境や人々の対応を変えるというアプローチがあっても良いと考えるのは自然の流れであって、TEACCHプログラムは、まさに環境の側の調整により障害者に合わせるという思想から生まれています。

最近の療育関係の本を見ると、このように取り組みの方向性や視点を逆にしたものが出てきており、変化の兆しは感じられるようになってはきています。ただ、一方で現実的にはまだまだだなあとも感じています。

少なくとも、自分の子どもが大人になるまでの限られた時間では、残念ながら環境の側の調整がメジャーになるようなことは無いだろうと思っており、だからこそ親として子供の持って生まれた個性をどのように伸ばしていくかについて考え続けることになっています。

ただ、自分の子供の代では無理であっても、この流れを次代につなぐことは必要だと認識していますし、できることはやっていきたいと思います。

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