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2013年7月

2013年7月25日 (木)

(413) 「人の気持ちが分からない」とは

「…あの人、人の気持ちがわからないんだよねぇ」
「ホントホント! アスペなんだよアスペ」


昼休み、とあるお店の入り口近くの席でラーメンnoodleをすすっていた時に、行列のほぼ先頭で同じく入り口付近に到達していたOL2人組の会話が耳に飛び込んできました。
…極めて複雑な心境になりましたthink

発達障害の子を抱えている立場上、どうしても擁護する側に回りがちになるという点はご容赦願いつつ、できるだけニュートラルな立場を心がけて、思ったことを整理しながら書いてみます。

最初に、「アスペ」すなわちアスペルガーだと「人の気持ちがわからない」人の割合が多い、というのは、発達障害の解説書にまず間違いなく書かれていることから考えて否めないことなのだろうと思いますが、それでもなお「人の気持ちがわからない」と「アスペルガー」とは1対1で対応するものではありません。

言い換えると、「人の気持ちがわからない」人が皆「アスペルガー」ではないし、「アスペルガー」の人が皆「人の気持ちがわからない」わけでもないのです。

また、「人の気持ちがわかる」人が、必ず「人の気持ち」に沿うような対応をしてくれるのか? と問われたら、これも恐らくそうではないでしょう。わかっていてなおそれを踏みにじるかのような対応をしてくる人も、残念ながら世の中には少なくありませんし。人の気持ちが「わからない」のではなく「わかっていても、それを汲もうとしない」だけの人もいるのです。

…というようなことをつらつら考えた時に、「アスペルガー=人の気持ちがわからない」ではなく、人の気持ちがわからないかのように振る舞う人(わかっているのに汲まない人も含まれる)にはいろいろな系統の人がいて、ただアスペルガーに人の気持ちがわからない人が多くの割合でいるだけでありながら、まるでその代表選手のように「人の気持ちが分からない=アスペルガー」というレッテルを貼って、それで事足れりとしてしまうような彼女達の認識は、やはり明らかに間違いなのではないか? と思うのです。

更に、この間違いだけでなく、よくよく考えれば、気持ちがわからない人をアスペルガーと言い換えているだけの同語反復である点もおかしさが漂います。

次に、人の気持ちという表現も、よくよく考えるとちょっと曖昧だと思うのです。ここで言う「人の気持ち」とは何を指しているのでしょうか?

例えば、SST(=Social Skill Training)等の教室でよく行われていることですが、いろいろな表情の顔が書かれたイラストを見せられて「この人が怒っているか(或いは喜んでいるか、悲しんでいるか)」を答える、というものがあります。その場面を何回か見ている印象では、このような形で聞かれれば、答えられる子も結構多いと感じています。そういう点では、人の気持ちは「わかる」のです。

でも、この点はもう少し掘り下げが必要です。それでは、なぜ「人の気持ちがわからない」と言われてしまうのだろう? と考えているうちに気付いたことですが、世の中では結果として表出される気持ちがわかる・わからないだけが問題とされているのではなくて、むしろ、「こんなことを言ったら(あるいはやったら)この人は怒るだろう(或いは喜ぶだろう、悲しむだろう)」というような、自分の言動と相手の反応に関係性を見つけ、予測を立てることは当然できるものだと思われている一方で、アスペルガーの子はそれが下手だ、ということです。

何を言っているのか、と思われるかも知れません。例えば、ある行動をした結果としてAさんが泣き出したとしたら、Aさんが悲しい気持ちになったということはアスペルガーであってもわかる子が多いのです。でも、それがわかる子であっても、ある行動をすることでAさんが悲しむという予測ができない、あるいはそもそも何も考えずにAさんが悲しむような行動をしてしまう。このことを、一般的に「人の気持ちがわからない」と表現しているのではなかろうか、と考えると、両者の間に横たわるギャップを理解しやすくなることに思い至りました。

一言で言えば、結果として表出した気持ちではなく、その手前の段階で起こっている人の気持ちの動きを予測できないということです。その原因を考えると、泣いている状況は、表に出て見えるものだからわかる一方で、心の中は表に出ていなくて見えないからわからない、という理解の仕方をするのが一番手っ取り早いかなあと思います。

発達障害の子は、ミラーニューロンの働きが弱く、他者の行動の真似が苦手であることはよく知られています。見えている部分ですらそうなのに、見えない部分を相手の立場に立って想像することなど増して不得手でわかりにくいだろう、と考えると、極めて納得しやすくなると思うのですが、いかがでしょうか?

とはいえ、こういうことは経験である程度カバーできる部分があるのも事実です。実際に、そうやってしのいでいるという当事者の方の記述を目にすることもあります。一方で、それでも補いきれない部分というのはあって、これが何かの拍子に表に出て(冒頭のOLさん達の会話のように)問題視されることになってしまうようです。

この点、他の代替手段やアスペルガーの子でも分かる考え方を探すことは、結局のところ生きやすさに直結することでもありますし、障害特性だからしょうがない、と簡単に諦めてはならないことだと思います。更なる研究の進展が望まれるところだと強く感じています。

2013年7月20日 (土)

(412) 一学期終了

息子・娘は昨日が終業式で、一学期が終了しました。

この一学期を俯瞰して見ると、良くも悪くも息子が成長していました。

言葉も前より流暢に話せるようになってきましたし、初めてのことに意欲的に取り組もうとする場面も増えてきた一方で、学校への登校しぶりは相変わらず(でも、本当に休んだのは風邪をひいた1日だけで、頑張りましたupwardright)ですし、娘とのいさかい(要するに兄妹ゲンカ)も多く激しくなってきました。

また、クラスの子は基本優しい(わざわざ、いわゆるお世話係を買って出てくれる子までいるそうです)のですが、彼らも成長するに従って息子を見る目も厳しくなってきており(特に女子)、以前だったら流されていたようなこともチェックされたり、時に非難されたりといったことも出てきたりしているようです。

こんな中で、通知表の評価は3年生の時より下落しており、多くの課題があることが浮き彫りになってきています。bearing

担任の先生やたまに補助について下さる先生、それから私的に通わせている療育先の先生の意見を総合すると、決してできない子ではないのだそうですが、気分の上がり下がりがかなりあって、気分的に乗らないとやろうとしない、嫌な課題はそもそも最初から忌避する、といった面があり、それがテストの点数にも露骨に現れています。半分以下しか取れない時があるwobbly一方で、満点の時もあったりしますhappy01し。結局、これも総合的に(平均的に)見れば、「よくできました」になりにくくなってしまうのはしょうがないですね。

ただ、先生の期待する通りの回答の仕方でなかったことから点にならなかったものもあり(割り算の筆算で、彼の頭の中ではパッと答えが出てしまっている、かつ手が不器用でできるだけ書く量を減らしたい、ゆえに上の桁から順番に引き算しながらその経過を記載するのではなく、最後の答えだけ書いてしまう)、特性への配慮といっても、恐らく学習指導要領を外れてまではできないでしょうから、うーん困ったなと思っています。算数が数学になった時に、証明過程を示すことは大学入試でも普通に求められますから。

あと、書字についてももう少し何とかしないとなあと思います。悪筆の人は会社でもいて、その人の書いた文章をワープロで打たされる経験をしたことから、私もかなり鍛えられているつもりですが、それでも解読できないものがありますし…coldsweats01。時に「ひ」なのか「~」なのか不明なことがありますorz

本人は、夏休みに入って極めて快活になっています。嫌な学校に行かなくて済むようになりましたから。とはいえ、普通学級に在籍する限り学習がメインとなって、これができないと困る以前に「わからない・できない⇒つまらない⇒行きたくない」につながりやすいことから、キチンと復習をして、追いつける部分を増やしたいと思います。

2013年7月14日 (日)

(411) 社会の進歩と発達障害

発達障害と認識される子どもの数が増加傾向にある、とよく言われます。
単に言われているだけではなく、リアルで特別支援学校や学級への入学者数は増加しています。

この要因は、one発達障害と認識される子の割合が本当に増えているのかという側面と、two発達障害の割合は変わっていないのに認識する側のレベルが上がって「発見」される数が増えているのかという側面に、分けて考えられます。

まず、one発達障害と認識される子の割合が増えている、というのはどうでしょう。

こちらは、正直よくわかりません。その原因として、胎内にいた時の栄養状態や出産時のトラブル、あるいは乳児期の生育環境や環境ホルモン等、さまざまなものが取り沙汰されてはいますが、まだ仮説の域を出ていません。

素人の私がざっくり考えただけでも、さまざまな要因を比較するためには何かをピン留めして変数を減らして単純化することが必要となりますが、これを実際に行うのにはかなりの困難が伴うことから、少なくとも近々に完全な解明がなされることはまず無いだろう、と考えています。

ただ、一つ言えることとしては、自由恋愛の風潮って影響していないのかな、という疑問はあります。

昔は、親が決めた相手と結婚するということは、決して珍しいことではありませんでした。当事者の好き嫌いとは無関係であり、これが自由意思の尊重とは程遠いことは論を待ちません。

しかしながら、トレンディドラマ以降の自由恋愛至上主義の影響もあって、今では好きな人と結婚するのが当たり前であって、望めば自分に合う人との結婚を選択できるようになってきています。コミュニケーションが全く取れないレベルの人はともかく、ちょっと苦手な程度の発達障害者が結婚相手を選ぼうとした場合、似た傾向の人と結婚する確率はどうなのか、その場合に生まれる子どもはどうなのか、という疑問を持ってしまいます。

次に、two「発見」される数が増えている、というのはどうでしょう。

発達障害という概念は、昨今社会的に広く認知されるようになってきました。従って、社会が子どもを見る目も変わったことで、周囲から発達障害だと受け止められ、親が診断を求めるようになったり、保育園・幼稚園や学校の先生等が気づいて親に受診を勧めるといった例が増えた、というのは事実としてあると思います。確かに、今までは単に「変わった子」だったのが、発達障害であると認識されるようになれば、当然発達障害の子どもの数は増えることになります。

なお、この認知の側の側面では、発達障害の基準が時代とともに変遷していることや、このことも一因となって周囲の判断レベルが一様ではないこと、さらにそもそも診断を受けない限りハッキリしないものであって、例えば親が診断を拒否していたらその子は数に含まれなくなること、を付記しておきます。

これに関連して言えば、子供時代を無難に(あるいは、たまたま発見されずに)過ごせた人が、いざ社会に出てみたらさまざまな生きづらさを感じたことから受診して発達障害であると診断された、というケースも増えてきています。

こちらについても、社会的な増嵩要因として、こんなことは考えられないか、と思うことはあります。

まず、異年齢交流機会の減少はどうでしょう。

昔は、異年齢で構成された遊び集団というのがあって、その中では発達が遅い子も、年少者との交流をする過程でリカバーできていた部分があったと思うのです。それが、今では学年主体の輪切り集団の中で生活するし、下校後も基本的に同級生と遊ぶことになったことから、そういう周回遅れの(と言ったら失礼かも知れませんが)低いレベルでの交流による成長機会がなくなってしまっている、ゆっくり発達の子が、ソーシャルスキルを遅ればせながらでも獲得するチャンスが失われてしまっていると考えるのは、成り立たないでしょうか。

次に、社会の狭量化はどうでしょう。

昔は、人に何かを要求するレベルも決して高くなかったと思います。それが、今の社会では一つのことでも高レベルを求め、かつ一つではなく複数の内容を求めるようになってきています。こうなると、誰もが自分のスキル習得に手一杯となってしまい、我が身大事で人のことは二の次になりますし、他者の足りない部分へのフォローも少なくなってしまいます。このことによって、これまでなら発達障害者も何とかやってくることができたところ、うまくいかずにあぶり出されて悩み苦しみ、時には心を病んで受診する、ということも珍しく無くなってしまったのではないか、と考えるのですが、これは荒唐無稽でしょうか。

発達障害について考える時、社会の進歩が本当に個々人の幸福につながっているのかについても、問い直されているような印象を持ちます。少なくとも、幸福につながらない進歩というものもあり得て、その回避もセットで考えることが大切なのだろうと思います。

2013年7月 9日 (火)

(410) 高機能であること(4)

今回は、ちょっと補足的な内容です。

そもそも、高機能の前提となる知的能力は、自閉系の子の場合、療育によってある程度は伸ばせる場合があると認識しています。

元々、健常児とは認知の仕方が異なっており、自分の持って生まれた能力のみでは、どのように考え行動したら良いかがわからず、そのために課題もできない状況にいる子というのはいて、この場合、介入して教えればできるようになるというのは、それほど荒唐無稽なことではないと思います。

私の経験ですが、ABAによる介入を行って課題のやり方を教えることは、効果があったと思っています。ただ、もちろん知的能力を伸ばしただけで良いのか? という新たな問題は生じてきます。同じく私の経験で、介入によって知的能力ほど社会性は伸びない、言い換えると社会性を伸ばすのは知的能力を伸ばすことよりも難しい、とも思っています。そして、この知的能力と社会性の差が、社会からの受け入れに影響することは既に述べました。

次に、高機能児のプライドはなぜ高いのでしょうか? 私は「何を根拠にそんなに高く持てるのか?」と思うような経験を結構してきています。このことについて、自分がいろいろと本を読んだり、あるいは専門家や当事者のお話を聞いたりした中で、納得できるような合理的な説明を受けたことは残念ながらありません。でも、彼らのプライドの高さについて、実際に育てている皆様には多分同意を頂けるだろうと考えています。

私なりに仮説を考えると、彼らの他者との比較の視点が弱いことにより、自分の相対的な評価が上手にできない、という説明はできるかなあと思います。元々、人間は高い自尊感情を持っていて、成長するのに従って自分を相対的に見ることができるようになる一方、高機能児はそれができず、高い自尊感情を保持したまま自己評価もガラパゴス化する…と言ったら言い過ぎでしょうか?

少なくとも、健常児が成長に従い社会性が発達し、それに伴って自己認識が深まることで自己評価も相対化していく、ということと比較すると、高機能児はそれとは全く異なる成長過程をたどり、独自の基準に基づいて自己評価を行うようになっていく。このことでプライドの高さを保持し続けてしまう、という説明は成り立ちうるのではないかと考えています。

一方で(だからこそ、とも言えるかも知れません)、彼らは他者が自分より劣るという発想もあまり持たないという側面があります。意地悪く人を見下さないというある種の美点は、相対評価が上手にできないことの裏側から来る特質と言えるのではないでしょうか。

高機能児の発達凸凹の凸の部分は個体によって異なりますが、このプライドの高さは共通すると思っています。では、この共通点についてどう対処するかについてですが、これを単に欠点だと捉えて片付けてしまうのはもったいないと思います。むしろ、このプライドを傷つけずに利用して本人の意欲をかきたてて能力伸長に活かしていく、という視点は、これから益々重要になっていくと考えています。と言うか、そうする以外の方策はないと思いますし。

ただ、今の社会情勢では人員削減が進んだ結果、一人の人間にたくさんの役割をあてがう方向に進んできています。ゆえに、得意な分野だけを頑張るという生き方は、許されにくくなってきています。その善し悪しの判断はあるとは思う一方で、社会情勢が社会性を求めるようになってきた以上、高機能という強みを生かすためにも、社会性の伸長は避けては通れない課題と言えます。

このことについて、何か良い方策を提示できれば良いのですが、申し訳ありませんが私もそれはできない状態です。元々、持って生まれた特質であって、努力で何とかできる類のものではありませんし、この行き詰まりを打開するためには、やはり障害特性について社会の理解を得ていくしかない、という結論に達してしまいます。

なお、ここで社会の理解を得るために高機能児の特殊な能力を誇張することは、高機能の全体像を歪めることにつながってしまいます。地道に理解を得るべく語り続けるしかないのかなあ、と覚悟を決めつつあります。

2013年7月 3日 (水)

(409) 高機能であること(3)

高機能児の発達凸凹による能力ギャップは、小学校中学年頃から周囲との軋轢として顕在化してきます。そのため、学校で安定した生活を送るために親や学校の先生があれこれと手を尽くし、問題の更なる深刻化・複雑化を防ぐように対応していくことになります。

これらに加えて、本人の状況把握や自覚、更に能力の伸長度合い等の要素が加わり、その組み合わせにより問題がどのように変化していくかも千差万別となります。簡単に割り切れるものではありません。もちろん、結局問題を解決できずに軋轢がバーストしてしまうという最悪のケースもあり得ますし、だましだましではあるものの、それ以上軋轢が大きくなることもなく、何とか学校生活を送れるようになることもあります。

以前、学校で息子を指導して頂いている先生とお話した際に、先生から言われたことで印象に残った発言に「こういうタイプのお子さんに適した学級というのは無いんですよね」というものがあります。

この先生には普段から良くして頂いており、この発言は決して突き放して言っているわけではないことを申し添えておきます。そして、確かに私もそう思います。高機能の子は、普通学級で何も支援が無ければまずやっていけない一方、担任の先生も無限の能力を持っているわけではありませんから、できる支援に限界があります。では特別支援学級か? と考えると、そちらは知的障害がある子の支援が中心となっているという状況であって、高機能の子が必要とする支援とは異なってしまうことになり、やはり「適した学級」とはなり得ません。これはやむなしだと思うのです(なお、通級指導教室は支援のための手段ではあるものの、そもそも在籍するところではありませんし)。

このような状況の中で、まだマシな環境を築いていく不断の努力が求められてしまう、というのが今の高機能児の置かれた現状だ、ということです。情緒特別支援学級が設置されている地域もあるようですが、昔ほど評価できないと感じています。確かに、今そこで普通学級よりも安らかな学校生活を送ることができるであろうことは評価できるのですが、将来になって健常児の「荒波」を経験しないことによる不都合が生じないかという心配もあると思っているからです。もちろん、これについても恐らく正解はなく、二次障害を起こしてまで普通学級で頑張る必要もない一方、全く経験無しなのもどうか、という二つの問題提起の間で個別にどう折り合いをつけるのか、という程度問題になってしまうのだろうと考えています。

ただ、このような微妙なさじ加減を考え、親の側が何とか対処できるのも、やはり社会人になるまでの間だろうと考えています。最終的に社会に足を踏み出すタイミングで、これまでの人生を総括し、これからの将来をどのようにしていくかについて、親子で真剣に考えなければならない時が必ずやってきます(と、まだ小学生の息子を育てている立場で言うのも何ですがhappy02)。

まず、健常者として生きるのか、障害者として生きるのかの大選択をしなければなりません。これは、後で全く修正できないというわけではないものの、まずは一つ一つ要件をピンどめしていかないと他の検討がやりにくくなります。この大選択の方向性が定まらないと、次に進めません。

健常者として生きることを選ぶのであれば、自分の苦手な項目を洗い出して、それをカバーするために必要なものや対処方法を用意するといった対応をしていくこととなります。現在のところ(今後は変わるかも知れませんが)、高機能児に対して支援の手はそれほど多くありませんから、まずは自分でできることを用意しなければなりません。
なお、健常者として生きることを選んだ場合、将来の選択肢はかなり多くなります。普通、将来の選択肢が多様であることは望ましいことなのですが、高機能児の場合、どうしてもついて回る苦手への対処が無いと、どれを選んでもいずれ行き詰まることになってしまいます。

また、障害者として生きるのであれば、まずそのような自覚を本人がキチンとした上で精神障害者保健福祉手帳を取得し、次に福祉関係者と相談しつつ住む場所や就労をどうするのか、親の死後に必要な支援をどのようにするのか等について、決めていかなければなりません。

簡単に書けばこのような感じになるのですが、実際はどちらを選ぶにしてもそれぞれ多大な決断が必要になります。しかも、どちらを選んだとしても、かなりの確率で本人に不満が残る(or 満足できない)ことが予想されるのです。

健常者として生きる際には、健常者が大したことではないと感じているようなことでも、周到な準備が必要になることが多い分疲労は多くなりますし、(2)で書いたような社会の側からの認識とのギャップに苦しむことが多くなります。

また、障害者として生きるのであれば、本人自身の中で自己認識とのギャップに対する折り合いの付け方に苦しむことが多くなります。ここで自己認識というのは、有り体に言えば高いプライドによる自己評価の高さのことです。高機能の子の特性として存在するプライドの高さは、なぜ自分が障害者として生きなければならないのかという自問自答を招くこととなります。ここをおろそかにせずにクリアすることは、後でより大きな問題(例えば鬱になる、等)を回避するために不可避だと思っています。

まあ、今の世の中、健常者も含めて生きること自体シンドイことになってきているのだと達観し、肩の力を抜くことができれば良いのかも知れませんけどね。

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