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2013年6月

2013年6月27日 (木)

(408) 高機能であること(2)

高機能が(単に)知的障害がないことを意味していることは、前述しました。

私が療育施設で出会う、知的障害を伴う自閉症のお子さんを育てている方からは「知的障害がないだけでも良いじゃないですか」と言われたことがあります。そのことだけを取り上げれば「まあ、そう言われればねえ…」と一瞬は思いますが、次の瞬間にはリアルの生活の中での周囲の人たちとのさまざまな交流場面を思い出して、ことはそう単純ではないと思い直すことになります。

まず、自分の考えのベースとして、自閉症・発達障害が文字通り障害たるゆえんは、社会の中で周囲から期待される振る舞いをできないことにあるとの思いがあります。

三つ組と呼ばれる障害特性の中で、興味が限定されていることや言葉の使い方が上手じゃなく独特の言い回しになってしまうことももちろん生きづらさにつながりますし、それが障害ではないと言うつもりもありません。

ですが、人と共感できず、人の思いを読み取ることが苦手な特性があって、その特性ゆえに人の思いに添った(適切な)行動を取れないという「コミュニケーションにおける質的な障害」と言われる側面こそが、社会で生きていくうえで大きな壁となっていくだろうと感じているのです。

実際、息子を見ていて、療育と加齢によって自閉症児に多いとされる特徴的な行動は少なくなってきています。それに従って、相対的に最後に残ってきているのは、人とのコミュニケーションに関わる困難さであることは、やはり認めざるを得ません。そして、それは知的能力の伸長とはあまり相関していないように感じます。まさに発達に凸凹がある状態となっています。

ところが、社会の側は一般に発達に凸凹が無い人が大多数を占めていて、そういう人たちが標準となってしまう結果、あることができれば、その他のことも「当然」できるだろうと推定されてしまうのです。ゆえに「何で勉強ができるのに挨拶もできないの?」「何で電車の話だといくらでも話せるのに、他の話題だと露骨につまらなそうな態度を取るの?」といった非難を受けやすくなってしまいます。これらの社会的には許容されにくい行動も、実はその障害特性からくるものではあるのですが、その特性の存在も含め、そのような行動は中々理解されることはありません。

この点、知的障害を伴う自閉症の子の方が、社会の認識からのズレが少なくて、受け入れてもらいやすい、ということが現実に起こります。

このようなことが起こってしまう原因は、親と社会でその子に対する見方が全く異なるからではないか? と推測しています。簡単に言えば、親は子どもの知的発達や社会性の発達をそれぞれ別個に「絶対値」で捉えているのに対して、社会は知的発達と社会性の発達の差を「引き算」で見て評価してしまう、ということです。つまり、親はその子の成長をトータルで見ているのに対して、社会の側は「○○ができれば△△もできるはずだ」という思い込みを持っていて、その思い込み通りに振舞わないと、また思い込みとの落差が大きいとその子の全人格までネガティブに捉えてしまうのです。

実は、社会の側も「△△ができないのに、○○ができるなんて!」と肯定的に捉えることも、理屈の上では可能なはずなのです。ただ「できない△△」は、かなりの人が軽くできてしまうことであったりするために、できることが当然視されてしまってこういう優しい見方をしてもらえないことになってしまうのですね。

このようなことから、高機能の子は常に自分にとっては結構高いハードルを超えることを要求されるようになり、かなりしんどい思いをして生きていかざるを得なくなってしまいます。

2013年6月22日 (土)

(407) 高機能であること(1)

「自閉症の子どもの7~8割は知的障害を伴う」と言われています。でも、実際はどうなのでしょう?

これは、「自閉症と診断された子どもの7~8割は…」が正しい表現なのではないかと考えています。

そもそも、親は子どもの様子を見て「うちの子、何かが違う」と気付くことで「どうしよう?」と頭を悩ませ始めます。しかも、単に「何かが違う」と思うだけではなく、生活をする上で困難(それもかなりの)を感じるような状況になって、初めて小児科医のところへ行くことを真剣に検討するようになります。

この生活をする上での困難が知的障害に由来するものであったり、自閉症に由来するものであったり、ということを知るのは、医師に相談をして説明をされてから、ということが多くなると思います。

視点を変えると、生活をする上での困難をそれほど強く感じていない場合、医者に行くという行動までとる親は少なくなります。自閉度が高く知的障害が重ければ、生活をする上での困難を感じやすくなりますし、どちらか一方だったりあるいはそれぞれの障害度合いがそれほど高くなかったりすると、生活をする上での困難を感じにくくなりますから、「自閉症の子どもの7~8割は知的障害を伴う」という指摘は、社会で認知されている割合としては正しくても、実数として真実なのかはわからない、と考える方が素直だと思います。

とはいえ、この社会認知数の割合として、自閉症は知的障害を伴うことが多いことから、自閉症という言葉の中に既に知的障害があることまで含められていることも多くなっています。それと区別するために、知的障害がない自閉症を指すものとして高機能自閉症という言葉が作られていますが、私はこの高機能という言葉が、新たな誤解を生んでいると思います。

カレンダーを見なくても何年も前のある日が何曜日なのかを即答できたり、たくさんの数字をちょっと見ただけで暗記して言えたりという特異な能力を持っている、あるいは学習能力がずば抜けていると思われてしまうことがあるのですが、これはご存知のように明確に間違いです。実際に自閉症者でそのような能力がある人はいるものの、高機能という言葉がそのような能力を指しているわけではなく、単に「知的障害が無い」以上の意味はないのです。ネーミングセンスって大事だなあと改めて思います。

なお、昨今では大人の発達障害というフレーズもよく聞くようになりました。テレビでも時折取り上げられるのですが、親が診断を受けさせるほどではないと思い、未診断のまま成長していった結果、大学生や社会人になって周囲とうまくいかないことが多くなって、自ら原因を探し求めてさまよった挙句、精神科医を受診して初めて知る、という例も多くなってきているようです。このような方は、知的障害が無い、またはあっても軽い場合が多くなります。

以上を俯瞰して考えると、高機能というものの存在の認識や理解はまだ進んでいないと感じますし、それも含めてスペクトラムという表現の絶妙さが改めて浮かび上がることとなります。

2013年6月15日 (土)

(406) 将来の自立

息子も4年生ということもあり、私はたまに息子に対し「将来、何か成りたいものはないの?」と聞くことがあります。

この問いに対して息子は、残念ながら明確な答えを返してくれることはありません。しばらく、考えるのですが「…わからない!」とそこで思考が停止してしまうようです。

まあしょうがないことだよな、と今はあまり深追いしないようにしています。健常児であっても、まだ働くことのイメージがイマイチつかめていないでしょうし、せいぜい何となく「警察官」「サッカー選手」「ケーキ屋さん」とちょっと良いかと思える職業を言うようなレベルだろうと思われます。そういう彼らも、大多数はその職に就くためには○○の資格を持っていなければならなくて、その取得のために今から計画的に勉強をしている、ということはまずないでしょうし。

ただ、何かになりたいという目標があると、本人はその達成に向けて努力するポイントがより明確になりますし、こちらが課題の実施を促す際にもそれが一つの強化子になってやりやすくなる、というメリットはあります。とは言え、まだその時期ではないということなのでしょう。

親としては、息子に何になってもらいたい、という願望はありません。世間様から指弾されないような仕事であれば何でも良いと思っています。むしろ、何を職業に選ぶにしても、自立した生活が送れるようになるかの方が、より大きな関心事となっています。

将来の自立を考える際に、レベル感をどのように考えるかは人により差が出てくるであろうところです。基本的には、私は以下の4つくらいに分けて考えるのがわかりやすいかな、と考えています。

A…家族と共同生活を営むとともに、いざと言うときに親のサポートができるレベル。

B…家族だけならなんとか生活できるレベル。

C…家族を持つには至らないが、自分一人なら何とか生活できるレベル。

D…自分一人でもやっていけないレベル。

私としては、Aレベルまではとても期待できず、Bレベルもチャレンジ目標ということで、基本的にはCレベルまで行けば御の字だと考えています。また、もしDレベルになるとすると、親はいつまでも生きていられない以上、福祉の仕組み・制度を学びその後の生活を託せる施設を探さなければなりません。これからの10年でほぼ方向性が固まって見えてくるでしょうし、少しずつ準備はしておかないとなあ、と考えています。

もっとも、健常児であってもDレベルになることが決して珍しくない世の中です。そんな世の中であっても、子供たちは生きていかなければなりません。我よしではなく、普通の努力で皆が普通の幸せをつかめるような世の中になるよう、親世代としてももう少し真剣に考え、できることはやっていかないといけないな、と思います。

2013年6月 8日 (土)

(405) 余計なお世話

光とともに…-自閉症児を抱えて-』というドラマが日本テレビ系列で放映されたのは、2004年度の第一四半期のことでした。

妻と一緒にこのドラマを観ていた頃、息子は既に妻の胎内に宿っておりました。ただし、今から思うと忸怩たる思いを禁じえないのですが、当時は自閉症はテレビ画面の向こう側のできごとだとしか受け止めておりませんでした。言い換えると、自分がいずれ当事者(の親)になるとは、予想もしておりませんでしたし。

とはいえ、息子が生まれ、段々成長して大きくなるにつれて何かがちょっと違うんじゃないか? と感じるようになった時に、このドラマを観ていたことは、「もしかして・・・?」という「気付き」の力を強めてくれたことは間違いありません。知識があるということは、そういうことなのだと思います。

実は、私の知り合いの方に、見ていて「あれ?」と思うお子さんがおられます。でも、その知り合いの方は、自分の子どもは普通だと思っておられるようです。ただ、事例性として「かなりコダワリが強い」という認識はあるそうですが…。

当方が、「あれ?」と思う理由は他にもあって、「感情表現に乏しい」「人の話を聞いていない」「状況に応じた振舞いができない」「周囲の子との関わりが下手」「独特の目線の動き」という点があり、この他「子供らしいはつらつさが無く、身体の動きがぎこちない」点は療育先で出会う他のお子さんにも共通してよく見られることもあって、やはり気になっています。

もちろん私は医師では無いので、私が軽々に診断(めいたこと)をするわけにもいかないという認識はあり、それとなく児童精神科での受診をお勧めできないだろうか、と考えていたりしています。

こういう状況であることを話せる自分の友人に、「どうしたものだろうか?」と対応を相談したことがあります。その彼曰く「やはり、親が気付くまでは、お前が言うべきではないのではないか。それは余計なお世話だと思う」と言われました。

確かに、その通りなのだろうとは思います。親の側も本当に気になりだしたら自分でいろいろ調べるだろうと思いますし、その過程で自分の不安な気持ちや疑問点が浮き彫りになっていくこととなります。それに対して、所詮は赤の他人である私が、何の心の準備もできていない状態の時にお知らせしたところで受け入れられる余地は少ないと考えるのが普通で、まさに「余計なお世話」に終わる可能性が高いと思います。加えて、受け入れる心の熟度が足りていない状態でお話すると、頑なに拒否するなど逆効果になる可能性も予想されます。

ただ、自分としては今になってみればより早く知って対応しておきたかった、それができなかったという気持ちがどうしてもわだかまっており、結果として黙っていることに何とも言えない後ろめたさのようなものを感じていたりもします。

ちょっと方向が違うかも知れませんが、業務が変わる時に引き継ぎ資料をもらっても、そこに書いてあることの深い意味を理解できるのは、一通り業務をマスターした後ということが往々にあります。今、自分はもっと早く知っておけば…と思っていますが、当時早くから言われていた場合に受け入れることができただろうか、と言われると何とも言えません。そもそも人間が何かを納得できるようになるためには、一定の時間が必要になるということなのでしょう。まして、自分の子どものことで、かつそうあって欲しくないと願っていることであるなら、尚更そうなのだろうと思います。

早期療育の必要性は、かなり普通に理解されるようになってきているものの、親の側の気持ちの問題で「早期」にならない部分があって、それはどうにもならないことだと割り切るしかないのでしょうね。

もちろん、何かがあれば手を差し伸べる気持ちに変わりはありませんけど。

2013年6月 1日 (土)

(404) 楽しいと感じるポイント

運動会も終わって、日常の生活になっています。息子も、落ち着いて過ごしています。

それにしても、まだ日々プラレールで遊んでいて、よく飽きないなあと感心します。

彼の遊び方は、電池で線路を走らせるのは半分程度、後はジオラマを作るのが4分の1、残りの4分の1は、「腹ばいになり、手で電車を持って直線の線路の上を走らせながら、車輪と線路の当たり具合を眺める」ということになっています。

鉄道模型を本格的にやられる方は、本格的なジオラマ作りに精を出すことが多いことは当方も承知しており、普通だなと思います。でも、最後の「車輪と線路の当たり具合を眺める」というのは、少なくとも私には「全く」楽しいことではありません。

人が好きでやっていることなのだから、と言われればそれまでですが、こういう遊び方はやはり息子が普通の人と異なる感覚を持っていて、そういう視点からの情報が楽しいと感じることを示しているわけですね。少なくとも私とは、「楽しいと感じるポイント」が違うんだな、と思います。

はるか昔、まだやっと立って歩けるようになったくらいの頃のお話ですが、夜に窓から見える遠くのパチンコ屋のネオンのまたたきを飽きることなく見続けていたことを思い出します。息子にとって、視覚からの刺激は私よりも強く感じられ、かつ楽しいことなのでしょう。

親の側は、子どもがこのような特性を持っていることを、ともすれば忘れがちになります。そのことを自戒しつつ、それをマイナスに捉えるのではなく、伸ばすことで何かできないかと考えるようにしていくと、意外な強みにつなげられるかも知れないと淡い期待を抱いており、関心を強く持って見守ろうと思っています。

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    こちらの派生ブログです。 こちらが息子を中心に息子の成長の様子や成長に関わり教育や社会について考えたことを書いているのに対し、同じ発達障害絡みではあるものの、広く社会一般を理解する一方法を軽く書いています。 せっかく学んだ発達障害の知識を生かすとすれば、という視点で書いています。
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