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2013年3月

2013年3月30日 (土)

(392)子どもの将来

最初に、アメブロってトラバが廃止されているそうで、このような紹介になってしまっていることをお詫びします。

私が常々参考にさせて頂いているNKのつぶやきさんのブログ「育児パパのあったか・やさしい発達障害談義」で、以下のエントリを読んだ時に「まさにまさに」と強く共感しました。http://ameblo.jp/kanrinin-hp/entry-11485488801.html

私は、日本が今みたいにアメリカ流の経営分析に基づく徹底した合理化を始めたのって、バブルが弾けた以降のことだと認識しています。つまり、平成もしばらく経ってからのことで、その歴史はせいぜい20年程度ということになりますね。でも、その20年の間に社会環境はすっかり変わっています。

その合理化の成果なのは間違いないと思うのですが、私が入社した頃にはいた「どう見てもこの人ヒマやろ?」というポジションの人は、確かにいなくなっています。また、私ももう良い歳なのに、全然楽になっておりません(と、ブログ更新頻度が下がり気味の言い訳をしたりしてbearing)。

…話の主題はそんなことではなくてcoldsweats01、じゃあアメリカでも日本と同様にいるであろう障害者達がどうやって生活しているんだろうと疑問を持ちますが、1990年に制定された「障害をもつアメリカ人法(Americans with Disabilities Act=ADA)」により、障害を持つ市民の権利保障が着実に推進されてきているようです。もちろん、万能な法律というモノはこの世に存在せず、この法律の制定の前後で、障害者雇用率が飛躍的に向上したということは残念ながら無いようですが、既に雇用されている障害者の職場環境改善にはそれなりに効果が上がってきているという話を聞いたことがあります。

日本にも、例えば障害者雇用促進法というものが存在しており、ある程度の規模以上の民間企業に対して雇用する労働者の1.8%に相当する障害者を雇用することを義務付けています。この数値はこの4月1日から2.0%に引き上げられます。今までの低い率でも、その率を満たさない企業というのは存在し、そこからは納付金(5万円/人・月)を徴収することとなってきていましたが、企業の発想としては、その金を払って終わりにした方がコスト的に見合うような状況であれば、そちらの選択をしてしまうことも事実上起こってしまうようです(「企業の社会的責任」という観点からは、もちろん問題ですけど)。

日本の労働関係について、例えばサービス残業とか36協定違反等もあまり重要視されない傾向が見られます。本来、逮捕権を持つ労基署がもっとビシバシ取り締まれば、そんなことはなくなるはずなのですけどねえ。同じ厚生労働省が所管する障害者雇用についても、これと同様に企業の経営に「配慮」する結果、このような本気さを疑いたくなるような逃げ道が用意されていて、厚生労働省の存在意義を自ら低めてしまっているのではないかと残念でなりません。こういう規制面から見て、同じ目的の法律があっても権利意識のしっかりしているアメリカとは効果に差が出るのだろうと思っています。

…というようなことを、評論家のように述べていてもよろしくないのは自覚していて、何かしなければと思うのですが、一サラリーマンの自分がこうすれば良いという解が見つからず忸怩たる思いを抱いています。

ただ、「障害者でもできることがある」「健常者とは違うアプローチであればできるようになる」というようなことを、見つけていく努力は続けたいと思っています。

我が家ではまだ先の話ではあるものの、社会に出るであろう子どもの将来がかかっているわけですから…

2013年3月24日 (日)

(391) 理解を求めるレベル

今回は、少しネガティブな内容であることを、最初に申し上げておきます。

発達障害児の親として、いろいろな情報を得ようとする過程で、「障害に対する理解を求める(ことが重要or大切)」という表現を見かけることになります。これってどういうことを指しているのでしょうか。

発達障害というものがあることを知って欲しいということでしょうか。発達障害児(者)という(風変わりな)存在を認めて欲しいということでしょうか。あるいは、発達障害児(者)を社会の一員として受け入れて欲しいということでしょうか。

このように区分しようとすること自体が、あまり意味がないことなのかも知れません。恐らく理解を求める側の人は、この3つとも願っているだろうと思われるからです。そして、ここまでは妥当なところだろうと考えています。

でも、もしかしたらもっと多くを望んでいる人もいるかも知れません。ただ、それってどうでしょうか。

私は、息子が発達障害なので、否応なく発達障害児(者)と過ごす時間を持っています。それも、多分普通の人よりもかなり多くhappy01

療育先で出会うお子さんも当然発達障害児ですし、たまたま療育の前後で重なったその子のご両親と会話していると、「あれ、この人ひょっとして…?」と思うような経験もあり、ひとりひとり違うなあと思いつつもやはり同系統のニオイを感じることがあります。

私は、そもそも立場上そういう人達とのお付き合いは不可避ですし、お付き合いする中で新たな発見をすることもありますし、息子の理解にもつながるし、という複合的な要因から、それほどお付き合いに負担感を感じることはありません。むしろ、自分の固定観念の殻が取れて楽しいと思うことが増えてきたりもしています。

しかしながら、一般の人がみんなそう思っているかは謎です。

今、控えめに「謎」と言いましたが、恐らくかなりの方は、「無理に関わらなくてもいい」とか「敢えて関わりを深めたいとは思わない」とお考えなのではないか、と憶測してしまうのです。

発達障害というレッテルを根拠にするから話がややこしくなるのですけど、障害の有無がどうこうではなく、人間誰でも気の合う人と一緒に過したい・仲良くしたい・時間を共有したいという欲求を持っているわけですよね? 風変わりな子でも一緒にいたいと思えば一緒にいればいいし、一緒にいたくなければ距離を置いても良い。ただ、排除をするようなことはしてはならない。これが基本だと思うのです。

もちろん社会の全員と仲良くなれればそれに越したことはないのですが、なかなか「みんな仲間だ、友達なんだ」という状態になるのも現実的ではありません。

発達障害児(者)もそれぞれ個性を持った存在です。私もその全ての人と親しくなりたいという気持ちを常に持てるか? と問われると、敢えて敵対したいとは思わないものの、実際個体との相性もあるわけで、絶対に親しくなれる確証もない、というのが正直なところです。

まして、私のようなニーズがそもそも無い一般の人が関わりを多く持ちたいという欲求を持つかを考えると、残念ながらあまり多くを期待できないなあと考える方が素直だと思うのです。

「社会に理解を求める」という表現は、社会の一員として受け入れてもらうという社会生活のスタートラインに立つことまでを求めているのであって、これは当然の権利である一方、それ以上ではないことを明確に意識する必要があるのではないかと思います。

「それ以上」を求めることは、確実に求められた側の負担感を醸成します。それがかえって水面下でネガティブな思いが沈潜するという良くない結果につながるようにも感じています。

例えば、常に遊びの輪に入れるという行為も、もしもその遊びのルールを大きく逸脱するような行動を頻繁にするようであって他の子どもが楽しめない状況に陥るならば、それは無理強いすべきことではないでしょう。言い換えると「理解を求める」レベルを超えているだろうと思います。

もしかしたら、その特性により親友だとか生涯の伴侶を得られないことになるかも知れません。でも、それは障害が無い人でも決して珍しくないことであり、そのことを殊更重大視するのもどうかと思います。

むしろ、例えば「友達がいない=人間として劣後する」という妙な固定観念の呪縛から逃れることも時に大切なのではないかと思います。

今の社会常識を認識しつつもそれに囚われ過ぎない、というスタンスも大事なのではないでしょうか。

2013年3月18日 (月)

(390) クローズアップ現代“大人の発達障害” を観て

2013年3月13日(水)に放送されたNHKの「クローズアップ現代-“大人の発達障害” 個性を生かせる職場とは? http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3324.html」の録画を、昨日やっと観終わりましたhappy02

この番組では、大人の発達障害者が職場で直面する困った状況、なぜその困った状況に陥るような行動をしてしまうのかについての医学的な解説、弱みを補う強み探し、発達障害へ前向きに取り組むことで業務効率向上につなげることに成功している企業の例等が紹介されており、内容としてはコンパクトによくまとめていると思う一方で、この「先進的」な企業のレベルまで社会全体の意識が変わるのに、後どれくらいかかるかな? と先の長さを感じたりもしました。

なお、NHKの番組HPにも記載がありますが、「国の研究機関は、日本人のおよそ1割に発達障害のなんらかの特性があり、うつなどになる可能性がある」との指摘は、思ったよりも数が多くて驚きましたし、この1割という数は当然無視できないレベルであって、やはり何らかの対応が必要だろうとの思いを強く抱きました。

企業の取り組み例として、「空気が読めない」障害特性を「いつでも確認する」強みとして活用するべく、エンジニアのスケジュール管理業務を担当させて効率向上につなげている事例が紹介されていました。

会社にお勤めの方はお分かりだと思うのですが、一般的な企業活動をする上では、かつての勘と経験ではなくPDCA(Plan⇒Do⇒Check⇒Action 計画を立てて実行し、それをチェックして次の計画策定に活かす)サイクルを回すMS(Management System マネジメントシステム)が極めて一般的になってきています。この中で「Check」の部分は、むしろ空気を読まずに原理原則でモノを言う姿勢が求められるのではないか、その昔、総務業務だけを行う独立会社を作った例がありましたが、会計士等による監査とは別に日常的な業務についての監査を専門に行う会社というのもあって良いのではないか、そこは発達障害の人の活躍の場と成りうるのではないか、等と考えたりしました。

実際、MSの監査者は、部門内部の出身者だと(事情に通じているだけに)甘くなりがちなことから、わざわざよその部門にお願いして監査者を選任するくらいですし、企業秘密の件さえクリアできれば、これはアリだと思います。

もちろん、原理原則だけではうまくものごとが運ばないという批判はあると思います。でも、監査の指摘を受けて現実的な対応計画案(要するに落としどころ)を考えるのは、もちろん監査者ではなく経営側の仕事だと思います。更に、企業は社会的な責任に応える責務があると考えられる時代となってきたわけですから、会社事情を斟酌しない人を活用してその意見を取り入れることは、むしろ不可避になっていくのではないかと考えられます。

昨今では、ちょっと上の先輩社員によって新入社員に対して指導を行い、円滑な社会人移行を図るメンター制度が広がってきました。これと同様に、番組内でも紹介がありましたが、発達障害者にもその特性を理解する世話役を配置してケアしていくというのも、とても良い取り組みだと思います。

長い不景気で、即戦力を求める傾向、人を育てる費用をコストとして見る風潮が蔓延しています。でも、このような会社側の都合による人材の植民地的収奪利用の時代は終わりを迎えるべき時が来ていると思います。細くとも長く事業を継続できて、たくさんのステークホルダー(利害関係人)との関わりに対応できる強靭な会社に変えていこうとする時に、発達障害者の活用も一つのポイントになるのではないかと感じました。

なお、発達障害者が会社できちんと働けるよう支援する企業も番組内で紹介されていましたが、これは見方を変えれば就職予備校としての役割も担っていることになります。支援機関が幼少期に偏りがちなことを考えると、こちらは更に需要の高まりが予想される成長分野になりそうだな、と思います。

2013年3月16日 (土)

(389)成長したと思われるようになること

今日は、娘の卒園式でした。

娘は、ベースは明るく元気で天真爛漫なのですが、さすがに今日が特別な日であることはわかるようで、いざ式が始まると入場の時の歩きもどことなくぎこちなく、卒園児の名前を呼ばれた時の返事の声も普段の3分の1程度の音量しかなく、ビデオカメラのレンズを通して見ると、顔がこわばり肩で息をしているのがわかるなど、かなり緊張していたようです。

この状況を把握して緊張できる、という能力を獲得した娘の成長を寿ぐとともに、そのような見方をしている親はあんまりいないよなあと苦笑しつつ、来し方の3年間を思い出して目頭が熱くなりました。

園長先生の挨拶や卒園児親代表のお礼の辞などでは、「運動会でのお遊戯もみんなでがんばりました」「組体操もできるようになりました」「工作や絵も上手になりました」「入園当初は園庭で泣いて入れない子もいたのが、今ではみんなこんなに静かに落ち着いて座っていられるようになりました」といったフレーズがたくさん散りばめられており、娘については全く問題ないものの、その一つ一つに若干古傷を触られるような苦い思いを感じてもいましたcoldsweats01

子どもが成長したな、と思われるようになるには、結局能力を獲得してそれを表現できる場を与えられることがまず必要なんだなと再認識するとともに、その獲得した能力が大人の側(もっと言えば社会の側)から見て好ましいものであることが望まれることも改めて感じました。

息子は、そういう視点から見ると、健常の子と比べて成長を感じられることが少なかったことは否めません。でも、スモールステップを踏むという新たな、そしてよりミクロな視点を取り入れられるようになった結果、やはりできるようになったことを実感できましたし、相応の喜びも感じられるようになりました。

そんなことを思い浮かべながら、式の終わりに近づいたこともあって若干緊張も取れた穏やかな表情を見せつつ卒園の歌を元気よく歌う娘の姿が眩しく感じられた卒園式でした。

2013年3月 9日 (土)

(388) 障害児親もさまざま

障害のある子を育てていると、世間からは「障害児の親」とひとくくりに見られがちですが、実際のところは、それぞれの立場や境遇が違うのはもちろん、考え方にもかなり違いがあります。

この違いがどこから生まれるのかについて考えてみると、そもそも、自分の子どもが障害を持つという事実を受け止めきれているかどうかで大きく分かれると思います。この受け止めがきちんとできている人は、子どもの抱えている障害特性をよく知ろうと思い、対処法についてもきちんと学んでいきやすくなります。

逆に、これができていないと、当然障害に向き合うこともできません。従って何の根拠もなく障害を否定にかかったり、「ちょっと変なところがあるけどいずれ良くなる」とか「成長が遅れているだけでそのうち追いつく」等と思い込んだりすることとなります。ひどい場合には、折檻を加える等不適切な対処に走ることにもなりかねません。

ここで、子どもの側から見てみましょう。どちらの親と暮らす方が、日々のストレスが少なくなるでしょうか? 自明ですよね。

ちょっと極端な比較をしていますが、よく療育の本に書いてある「環境を整えることが大切だ」とされる「環境」の中に、親の姿勢も含まれることは見落とされがちです。放置や配慮のない叱責といった、本人の特性に合わない「環境」に小さい頃から置かれ続けた場合、そうでない場合と比較すると、その成長の仕方にも雲泥の差が出てきます。朝顔も、きちんと支柱で支えてもらわなければ地を這うだけになってしまいます。他の植物の日陰に入ってしまってうまく成長できません。

親が子の障害をしっかりと認識することは、やはり大切です。

なお、親が社会の成り立ちをキチンとわかっているかによって、「環境」の質も変わってきます。有り体に言えば、親自身が社会とうまくやっていけているかによって、子の生きやすさが変わってくることとなります。

もちろん、親だけが環境だというわけではないのでしょうけど、子は(特に小さければ小さいほど)親の影響を強く受けますし、親が社会とうまくやっていけていない場合に、それを上回る社会的能力を発揮できるようになる、とは普通考えにくいと思います。低い発射台からは弾も低く飛ばざるを得ません。

こういう点で、親の社会性も問われることとなりますし、親自身が改めて社会とはなんぞや? と向き合うきっかけになることもあるようです。

その次に、親が子のために社会という「環境」にどのように働きかけるか、についても考え方に差が出てくるところだと思います。

実は、障害受容ができている場合はもちろん、障害を受け止めきれずに「いずれ良くなる」「そのうち追いつく」と考えている場合であっても、ただ今・眼前の状況は子の成長が他の子と違う・うまくできていないという認識はあるようですし、それはやはり何とかしたいと感じるのは親心ですよね。

この時、社会に大満足しているってことはあまりないと思います。多数の人が満足しているならば、そもそも障害児の親が将来を悲観し、子とともに鉄路にしゃがみこむような悲劇は起こりえないからです。「先が見えない」「どうしよう」「どうなるんだろう」と考えながら日々を過ごすことも多くなります。

そうなると福祉や教育、医療に対し、改善や変革を望むようになりますし、社会の意識を変えたいという思いを持つようにもなります。積極的に親の会を結成して意見集約を行い、地域行政等に要望を出していく、という取り組みを行う方もおられます。一方で、中々そこまで踏み込むことにためらいを感じる方もおられますね。

ことほど左様に、障害児の親もさまざまな考え方を持っているわけです。それなのに、そういう見られ方をすることがあまりないのは、社会の側が「障害児の親」というレッテルを貼ってしまった時点で、それ以上の興味関心を持とうとしない、何となくよくわからないものを避けてしまうからなのではないかと思います。

レッテル貼りって、楽なんですよね。それ以上考えなくてもよくなりますし。人間の身過ぎ世過ぎのテクニックなんだろうなあと思います。私も、他の分野ではよくやってしまうのであまり強くは言えないなあと反省しています。

物事を虚心坦懐に見ることを意識したいと思います。

2013年3月 2日 (土)

(387) 広汎性発達障害のカミングアウト(5)

実は、カミングアウトをする中身って「診断名」に過ぎないんですよね。

親は、子どもがより良い環境を得られる(少なくとも今よりは悪くならない)ことを期待してカミングアウトすることとなりますが、よくよく考えてみると、なぜ診断名を世間の皆様に公表しなければならないのか? 子どもがより良い環境を得られるためのトレードオフとして診断名の公表が必要となるのか? を考えると、それはちょっと違うのではないかと感じます。

私は中災防の心理相談員という(よくわからないcoldsweats01)認定資格を持っています。この資格維持のために定期的な研修の受講が必要となるのですが、その中で、疾病性ではなく事例性で判断することが大切なことを教えられます。要するに、医者でもないのに勝手に病名をつけて判断するのではなく、具体的に困っているできごとを把握し、その対処について医師に相談することが大切だ、ということなのですが、これを敷衍すると、より良い環境を得るためには診断名は必ずしも必要ではなく、困っていることを伝え、そのことへの対処をお願いするだけでも済むはずです。

もちろん、診断名も伝えた方が、相手にお願いを聞いてもらいやすいという現実はあると思うのです。でも、ここは親の踏ん張りどころではないでしょうか。

人に話を聞いてもらい、お願いをして納得あるいは協力してもらうことは、かなりの労力がかかります。でも、この過程を丁寧に実施し、愚直にお願いし続けることは、後々のことも考えるとbestではなくてもbetterではあるな、と考えています。

そうは言ってもやっぱり疲れますよね。でも、結局のところ、最後は障害のある子を授かったことで、この手の世間との落としどころの探り合いは避けきれない部分はある、と感じています。

障害児の親は、健常児を育てる大多数の人が恐らくは突きつけられない類の問い、それもとても重くシンドい問いへの答えを、たまたま障害児を育てることになったがゆえに考え、何らかの立場を表明しなければならないという、ものすごく理不尽な状況、ひとことで運命と片付けられたくない立場に立たされている、ということなんですよね。だから、あれこれ迷い逡巡したとしても、むしろそれは当たり前だ、くらいに良い意味で開き直ることも必要だと思います。罪悪感を感じる必要は全くありません。

ぶっちゃけ、カミングアウトでどの道を選んでも、100%満足する結果を得られることはまずありません。それでも、それぞれの置かれた環境の中で、小さな幸せの目標を掲げ、達成を積み上げることで、そこそこの幸せを感じることはできます。親の言動で変な批判が子どもに向かないように人への気配りを忘れず、愚直に生きていく道も、楽ではありませんがそう悪いものでもないと感じられるようになります。

しなやかに、子どもとの生活を楽しみましょう。

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