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2013年1月

2013年1月26日 (土)

(379) 軽度とは

よく「重度」の自閉症とか「軽度」発達障害という表現がなされることがありますが、この言葉は誤解を生んでいるように思います。

この軽度・重度という言葉は、本来は知的障害部分にかかっているものです。例えば「重度の自閉症」は、正確には「重度知的障害を伴う自閉症」と表現するのが正しいことになります。「知的障害を伴う重度自閉症」ではありません。軽度・重度という言葉は、自閉症そのものの軽さ・重さについて表現しているものではないのです。

言い換えると、知的障害が無くて自閉症そのものが重い人も、知的障害が重くて自閉症そのものは軽い(あるいは無い)人も存在しうるということです。実際には、それほど多くはないのでしょうけど。

一方で、(私もつい使ってしまうのですが)軽度発達障害と表現されている場合、本当に軽度の知的障害があるかについては、曖昧なことが多いです。知的障害については、知能指数70以上が正常域とされることが多いので、60程度なら当然あてはまるものの、70を超えている(時に100を超えている)子でも軽度発達障害と言い表されてしまうことは、決して珍しいことではありません。

この場合は、日常生活の様子を見ながら、自閉症的な性質により「若干の困難」を抱えていると思われているようなケースにおいて「軽度」と表現されることが多いようです。つまり、知的障害の面のみを切り取った表現ではない、もっと言えば本来の使い方から見ると正しくない、ということになります。

およそ、生活の困り感は自閉症の度合いと知的障害の度合いの2つの変数によって決まり、それに対する環境面での配慮で緩和されると考えています。私も行きがかり上いろいろな場面で発達障害の子を見てきましたが、困り感と知的障害とは必ずしも比例しないような印象を持っています。言われたことを言われたようにまじめに取り組んでモノにするスキルは、余計なことを考えない方が熱心で早かったりするようなことも少なくありません。実際、知的障害が無い子よりも知的障害がある子の方が早く上手にできるようになる例も見てきています。

このようなこともあり、親として「軽度だからラクか?」と問われると「一概に言えない」という結論になってしまいますし、だからこそ支援はやはり必要だ、と考えています。このあたりは理解されづらいところかも知れませんが。

2013年1月19日 (土)

(378) 彗星のごとく

発達障害の子は、彗星のような存在なのだろうか? とふと思いました。

惑星が、太陽を中心に秩序正しく並んでいるとしたら、彗星はその秩序とは無関係の独特の周期で太陽に接近します(みんながみんな楕円軌道で太陽を周回するものばかりではなく、通りすがりのように一度だけ現れて二度と帰ってこないものもあったりするようですが…)。

また、よく「彗星のごとく現れ…」という表現を見かけます。それまではあまり知られていなかったのに、あるきっかけがあってすごい才能なり能力なりを持つ人が何の前触れもなく世に出た時に、ややセンセーショナルに取り上げる表現として使われますよね。

ただ、天文学で彗星に分類されるものというのはかなりたくさんあって、そのうち毎年数百個の小彗星が太陽系の内側を通過していくものの、そのうち世間一般の話題となるような彗星は極めて少数という事実がありますけれど…。

こういう秩序とは無関係の存在であるところ、そしてたまに世間の耳目を集める存在も出てくるが大部分は注目されないところを含めて、彗星のようだなと思ったわけです。

ただ、リアルの彗星も宇宙を構成する存在であって、人々はその存在を受け入れています。少なくとも、惑星が上で彗星が下だ、あるいはその逆だというような捉えられ方はされていないと思います。

これと同様に人間の社会において、健常者も発達障害者もそれぞれがそれぞれのあるがままでいられたらそれが一番良いし、逆に、変わった存在であることを殊更に取り上げられたり、妙に評価される必要もないのかなあ、と。自然体で受け止められるようになるにつれて、個々人がもっと住みよく生きがいを感じられる社会になっていくのだろうと思います。

冬は空気が澄んで、星もよく見える季節です。疲れた時に、天空を眺めながら一息つくのも良い気分転換になるのではないでしょうか。

2013年1月12日 (土)

(377) 親学と我慢

「親が伝統的な育児をしっかりすれば、子どもは発達障害にならない」等の根拠レスな主張をしている親学。何でこのようなものが、それなりに高等教育を受けていらっしゃるはずの国会議員さん達にまで受け入れられるのかを考えてみました。

全部親の責任とすれば、国は免責となって費用も手間も軽減できるというのも理由の一つとして挙げられていますが、およそ国の金のことなどそれほど本気で心配などしていないであろう方々(失礼)の心を捉えるには、ちょっと力不足かなあと思ったりします。

完全に私見であることをお断りしますが、長い不景気により社会的に不安・不満・不公平感が蔓延し、常に我慢を強いられる状況が長期化してきている、という状況がまずあって、これが長く続く過程で他者に対する寛容の心、謙譲の美徳が失われてきているように感じます。このことにより、ちょっとしたことで沸点に到達してしまう、簡単に言えばすぐに我慢できなくなってしまう状況になってしまっています。

そもそも子育ては「親の思い通りに子は育たない」ものであって、すごくストレスフルな営みです。ところが、この余裕のない状況下では、親も社会も育児に対するストレス耐性がかなり失われてきています。実際、「子供の声がうるさい」「運動会なんてやめろ」と抗議の電話が学校にかかってくるご時世になっていますし。

でも、少子高齢化が進む中で子育ては大事だというのも確かであり、宇宙戦艦ヤマトの歌詞にもあるように「♪誰かがこれをやらねばならぬ」のです。では、誰がやるの?となるのですが、主な担い手である親と社会を比較した時に、どのような育児形態を取るとしても、それが常識的なものである限り、親が全く関与しないことは有り得ません。

次に、社会はどうするのか? が更に問われることとなりますが、そもそも社会のせいだということを掘り下げようとすると、具体的に誰が何をどうするべきなのかについての議論が十分になされていないという現実があります。このことも含めて社会と親の共同責任とすると、責任の所在がはっきりしないことにつながり、現在の責任箇所をきっちり明らかにしようとする風潮に応えきれないことに加えて、「余裕のない中では人のことまで構っていられない。責任の一端でも負わされるのはイヤだし、取り敢えずやるヤツ(親)がいるならそいつに任せておけ」とばかりに、強い立場の社会が弱い立場の個々の家庭の親に育児を強いる雰囲気が広がってしまっていて、親に責任を負わせる主張の方が耳障りが良くかつウケるようになってしまっている。このことが、多くの批判がありながらも親学が広がる要因になっているのではないか、と感じています。

ここで、発達障害を親の育児が原因だとしてしまった点で、親学推進派の非科学性が明示されてはいるのですが、この明確に誤りの部分を切り離してしまえば、子供に遠慮して言うべきことをやらない親、民主主義を履き違えてするべき指導をしない親がいるのも事実で、この点に対する反発・憂慮の念を感じている人には浸透しやすい「思想」であったと考えます。

自分は、ちょっと引いた見方をしていて、親学は、社会が望む像に当てはまる子を親が責任を持って育て上げる、言い換えると親の責任の下で子を型にはめようとする思想だと理解しています。誰がやるかの問題ももちろんですが、社会が「こうあるべきだ」と思っている人間を作ろうとする視点が、既に創造と革新を必要とする今の時代に合わないだろうと考えています。社会の行き詰まりを皆が強く感じていながら、なお型にはまった人間を作ろうというのは、方向性として大いに疑問ですし、何よりも縮小均衡ではないでしょうか?

また、今の常に我慢を強いられる状況において、更に親や社会が我慢できないのだろうか? もう我慢の限界なのだろうか? と思うのです。そういう我慢をできない人間とその集合体である社会ができあがったのは、親がしっかりしていないからなのか? を考えると恐らくそれはNo!だと考えます。親学の言う伝統的な育児というのはいつ頃のことを言うのかがハッキリしませんが、戦前も相当の教育を受けたものの我慢ができない人間が戦争を始めました。そして、負けたのです。

結局、いずれの時代であっても親も社会も我慢が大切で、子どもを型にはめようとするのではなく、異なるものを排除しない姿勢が求められていると思います。もちろん、これは子どもに好き勝手をさせろという意味ではありません。また、ただでさえしんどいのに更に我慢しろと言われても困るという意見が出るとは思います。

もっと昔、幕末・明治維新の頃に日本を訪れた外国人(イザベラ・バードやオールコック)が、日本人の子どもを大切にする姿に驚きと感銘を感じていました。読んでみる限り親は滅多に子供に怒ることはなく、社会も子供に寛容で、それほど強い指導をしていなかったようです。それでも子どもたちが礼儀正しく育っていたようであり、親や社会が我慢をした先にもっと素晴らしいものがあるように感じています。

そういう事実を踏まえた目標とそこに至る道筋を示すのが、本来の指導者の役割ではないでしょうか。

(追記:H25年1月13日に若干修正しました)

2013年1月 6日 (日)

(376) 「正しい理解」を求め過ぎない

ここ数年、発達障害についての社会の認知度は、確実に上がってきていると感じています。テレビ番組で取り上げられることも増えましたし、発達障害関連の本もたくさん出版されるようになってきました。「ブームになっている」というコメントをされる方もいるくらいです。

でも、これとセットでよく言われるのが「でも、誤解や偏見もまだまだ残っているし、正しい理解がされているわけではない」ということです。でも、「正しい理解」ってどういうことを言うのでしょうか?

実は、この「正しい理解」ってかなり曖昧ではないかと思うのです。仮にDSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders:精神障害の診断と統計の手引き。精神疾患に関するガイドライン。精神科医が患者の精神医学的問題を診断する際の指針を示すためにアメリカ精神医学会が定めたもの)に該当する人が発達障害者であると定義したとしても、今年予定されているDSMの改訂によって対象となる人の範囲が変わるのではないかと指摘されていたり、そもそもスペクトラムとして連続している人を明確に線引きできるのかという疑問があったります。発達障害そのものがスパッと奇麗に認知できる状況ではないのに、「正しい理解」ってできるのでしょうか?

私見ですが、発達障害の特徴だけではなく、今述べたような事実(明確に線引きできず、対象となる人の範囲も変わり得る)も含めて、それでもそういう障害を持つ人がいると知ることが「正しい理解」である、と何となく認識されているのではなかろうか? と思います。但し、ここにもレトリックがあるように感じています。

すなわち「正しい理解をする人は、発達障害の人を受け入れるべきであり受容するはずである」「発達障害を正しく理解しない人は、人に対する偏見を持っている」という言外の主張です。もっとイヤラシイ言い方をすれば「世の中には、正しい理解をできる意識の高い柔軟な対応力を持つ人と、それができない意識の低い狭量な人がいて、あなたはもちろん前者ですよね?」という意図を(無意識のうちにでも)込めて発言しているのではないでしょうか? 

改めて述べるまでもありませんが、私も発達障害の子を抱える親です。でも、こういう発達障害への「正しい理解」を求める主張に対しては、いかがなものかと思うのです。正しさと受容は本来別個独立のものだと思いますし、反対・反論しにくいレトリックを無意識にでも使って発言すれば、言われた側は沈黙せざるを得ません。確かに発達障害というものが存在することは認知するでしょう。でも、受容までしてくれるのかについて考えると、かなりの確率でNo!だと思うのです。むしろ、根深いところでの反感を相手の心の中に惹起させる可能性が高くなって、そのことによる弊害を危惧します。

大体、発達障害について説明をするような状況って、何か問題行動を起こした時が多いでしょうし、問題行動は世間一般の基準から見ての「問題」行動なのでしょうから、そこは世間一般の基準に従って対応し、謝るべきは謝るべきです。ところが、残念ながら「障害なんだから…」と理由を説明することに終始してしまい、真摯に謝るという姿勢に欠ける親御さんを複数見聞きしてきました。発達障害は、水戸黄門の印籠ではありません。それで相手の方の感情が静まったり納得したりということは無いと思います。

一方で、「社会のルールに従えない障害なら、外に出すな」という主張をする方もおられますが、これはやはり極論であり不適切だと思います。人は、多くの失敗を繰り返して大人になるという事実を無視しています。ゆえに他者に失敗を禁じることはできませんし、そもそもそのような権利はありません。

もし、私がそのようなことを言われたら、例えば「ご迷惑をおかけして大変申し訳ありません。でも、この子にも社会を学ぶ機会を与えて頂けないでしょうか? 一度や二度では身につかないかも知れませんが、できるだけご迷惑をかけないようにしますので、社会で学ぶ可能性を試させて下さい」とお話させて頂くことになろうかと思います。

もちろん、それでもみんながみんな納得してくれるとは思いません。ただ、全員が納得してくれるなんてことはむしろ世の中ではマレで、そこは腹を据えて同じ主張を繰り返すしかないだろうなあと思います。歯切れが悪い言い方だとは認識していますが、譲れるところと踏み止まるところは意識して対応すべきだと考えます。

そういう妥協点を探っていく姿勢で臨むことは、正しい理解を得られるかはともかく、発達障害の子ども達の生きやすさに繋がるだろうと思います。実は、正しい理解を得ることも手段であって、目的は発達障害の子ども達が社会でうまく生きていくことなのだと割り切れば、この方が合理的ではないでしょうか。

「正しい理解」を求めることに固執するよりも、健常者も含めて生きやすくなる方策を考えることの実利を取りたいと思います。

2013年1月 2日 (水)

(375) スキーに取り組む

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。
こちらにお越し頂いている皆様のご多幸と益々のご発展をお祈り申し上げます。

…思いっきり年賀状みたいですけどcoldsweats01、私の勝手な憶測ですが、こちらに来られる方というのは障害のあるお子さんを持っておられるか、そういう子を何らかの立場で指導されている方だと思っており、それぞれに困難を抱えておられることが多かったり、努力をされていることが多いと思っていることから、本心からそのように思っております。

さて、冬休みに入って、家族でスキーskiに行ってきました。スキーは一昨年から始めたのですが、そもそもスキーを選んだのは、息子に何か一つは趣味になるような運動を身につけさせたいという思いからです。一応全身運動ですし、できることが一つでもあれば、それはそれで自信になるだろうと考えています。

今回は、息子は多少値が張るものの、障害者指導も行っている団体のスクールに、娘は一般の幼児向けスクールに入れるという対応をしました。娘は運動が元々得意なこともあり、同じスクールの中でも上手な部類であったのではないかと思っています(親バカですが)。一方で、運動不得意な息子ですが、こちらも今回はかなりの成長を見せてくれました。

今は、スキー板の先を固定できるボーゲンヘルパーという便利な器具があり、これを使うことで簡単にボーゲンを習得できます。これでかなり滑る快感を覚えたようで、途中で雪が降ってきてもやめようとしません。楽しいと思うことが大事なので、これは良かったです。コーチとリフトに乗って降りて来られるようになりました、それも何回もhappy01

一方で課題も当然あります。いつまでもボーゲンヘルパーを使い続けるわけにもいかないので、緩斜面でヘルパーを外して自力で「ハ」の字を作って停まる練習もしましたが、これにはかなり苦戦しております。最後には50m程度滑ってから停まるということもできるようになりましたが、相対的に左足の筋肉の力の方が強いため、、真っ直ぐではなく右に曲がって停まるという傾向が見られます。停まれないわけではないものの、停まれればいい、というものでもなく、そちらに木があったり崖があったりしたら命に関わることになります。

まあ、これはこれで気長にやっていくしかありませんね。以前から家でも片足立ち(閉眼ではありません)の練習をやっていて、左足の方が長くできることは知っていたのですが、そのアンバランスがこういうところに表れるんだなあと驚いています。

とはいえ、転んでも自分で立ち上がれるようになりましたし、独り言で「『こういう辛いことが将来自分に役立つんだ』と言っていましたよ」とコーチが後で教えてくれたのは、おかしくもありますが内面の成長が感じられて嬉しいできごとでした。

こんな感じで越年して、冬休みも後半戦に突入し、さて今後はどうして過ごそう? と頭を抱えています。

今年もいろいろあろうかと思いますが、皆様と共に頑張りたいと思います。

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    こちらの派生ブログです。 こちらが息子を中心に息子の成長の様子や成長に関わり教育や社会について考えたことを書いているのに対し、同じ発達障害絡みではあるものの、広く社会一般を理解する一方法を軽く書いています。 せっかく学んだ発達障害の知識を生かすとすれば、という視点で書いています。
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