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2013年1月12日 (土)

(377) 親学と我慢

「親が伝統的な育児をしっかりすれば、子どもは発達障害にならない」等の根拠レスな主張をしている親学。何でこのようなものが、それなりに高等教育を受けていらっしゃるはずの国会議員さん達にまで受け入れられるのかを考えてみました。

全部親の責任とすれば、国は免責となって費用も手間も軽減できるというのも理由の一つとして挙げられていますが、およそ国の金のことなどそれほど本気で心配などしていないであろう方々(失礼)の心を捉えるには、ちょっと力不足かなあと思ったりします。

完全に私見であることをお断りしますが、長い不景気により社会的に不安・不満・不公平感が蔓延し、常に我慢を強いられる状況が長期化してきている、という状況がまずあって、これが長く続く過程で他者に対する寛容の心、謙譲の美徳が失われてきているように感じます。このことにより、ちょっとしたことで沸点に到達してしまう、簡単に言えばすぐに我慢できなくなってしまう状況になってしまっています。

そもそも子育ては「親の思い通りに子は育たない」ものであって、すごくストレスフルな営みです。ところが、この余裕のない状況下では、親も社会も育児に対するストレス耐性がかなり失われてきています。実際、「子供の声がうるさい」「運動会なんてやめろ」と抗議の電話が学校にかかってくるご時世になっていますし。

でも、少子高齢化が進む中で子育ては大事だというのも確かであり、宇宙戦艦ヤマトの歌詞にもあるように「♪誰かがこれをやらねばならぬ」のです。では、誰がやるの?となるのですが、主な担い手である親と社会を比較した時に、どのような育児形態を取るとしても、それが常識的なものである限り、親が全く関与しないことは有り得ません。

次に、社会はどうするのか? が更に問われることとなりますが、そもそも社会のせいだということを掘り下げようとすると、具体的に誰が何をどうするべきなのかについての議論が十分になされていないという現実があります。このことも含めて社会と親の共同責任とすると、責任の所在がはっきりしないことにつながり、現在の責任箇所をきっちり明らかにしようとする風潮に応えきれないことに加えて、「余裕のない中では人のことまで構っていられない。責任の一端でも負わされるのはイヤだし、取り敢えずやるヤツ(親)がいるならそいつに任せておけ」とばかりに、強い立場の社会が弱い立場の個々の家庭の親に育児を強いる雰囲気が広がってしまっていて、親に責任を負わせる主張の方が耳障りが良くかつウケるようになってしまっている。このことが、多くの批判がありながらも親学が広がる要因になっているのではないか、と感じています。

ここで、発達障害を親の育児が原因だとしてしまった点で、親学推進派の非科学性が明示されてはいるのですが、この明確に誤りの部分を切り離してしまえば、子供に遠慮して言うべきことをやらない親、民主主義を履き違えてするべき指導をしない親がいるのも事実で、この点に対する反発・憂慮の念を感じている人には浸透しやすい「思想」であったと考えます。

自分は、ちょっと引いた見方をしていて、親学は、社会が望む像に当てはまる子を親が責任を持って育て上げる、言い換えると親の責任の下で子を型にはめようとする思想だと理解しています。誰がやるかの問題ももちろんですが、社会が「こうあるべきだ」と思っている人間を作ろうとする視点が、既に創造と革新を必要とする今の時代に合わないだろうと考えています。社会の行き詰まりを皆が強く感じていながら、なお型にはまった人間を作ろうというのは、方向性として大いに疑問ですし、何よりも縮小均衡ではないでしょうか?

また、今の常に我慢を強いられる状況において、更に親や社会が我慢できないのだろうか? もう我慢の限界なのだろうか? と思うのです。そういう我慢をできない人間とその集合体である社会ができあがったのは、親がしっかりしていないからなのか? を考えると恐らくそれはNo!だと考えます。親学の言う伝統的な育児というのはいつ頃のことを言うのかがハッキリしませんが、戦前も相当の教育を受けたものの我慢ができない人間が戦争を始めました。そして、負けたのです。

結局、いずれの時代であっても親も社会も我慢が大切で、子どもを型にはめようとするのではなく、異なるものを排除しない姿勢が求められていると思います。もちろん、これは子どもに好き勝手をさせろという意味ではありません。また、ただでさえしんどいのに更に我慢しろと言われても困るという意見が出るとは思います。

もっと昔、幕末・明治維新の頃に日本を訪れた外国人(イザベラ・バードやオールコック)が、日本人の子どもを大切にする姿に驚きと感銘を感じていました。読んでみる限り親は滅多に子供に怒ることはなく、社会も子供に寛容で、それほど強い指導をしていなかったようです。それでも子どもたちが礼儀正しく育っていたようであり、親や社会が我慢をした先にもっと素晴らしいものがあるように感じています。

そういう事実を踏まえた目標とそこに至る道筋を示すのが、本来の指導者の役割ではないでしょうか。

(追記:H25年1月13日に若干修正しました)

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