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2012年10月

2012年10月31日 (水)

(362) デザート

今回は、かなり軽い内容です。

息子は、夕飯の後に何かデザートを食べなければならないというこだわりがあります。

私などは、無しでもいいじゃん! と思うのですが、何もないとかなり不機嫌になります。それ以上にガッカリした様子を見せるので、ちょっとしたものを用意するのですが、さすがにバナナ1本だと「他には?」と納得しなかったりします。

何を贅沢な! と思われるかも知れません。でも、基本的に食後にちょっとした甘いものを食べることはよく行われることで、かつそれ自体は全く恥ずかしい行動でもないわけです。そう思いつつも、逆にそれが当たり前だと思われるとちょっとどうかな? と思ってしまう部分があって葛藤してしまったりもしますdespair 

もちろん、実際に出すデザートは、そんな大層なものを出しているわけではありません。せいぜい、4つ繋がったプリンだったり、カキ氷だったり季節の果物だったりという程度ですwink

バナナではさすがに不満である一方で、この程度で満足してくれるので他愛もないと言えばそれまでですが、親として考えた時に、もっと切実だなと思うのは、何より彼が大人になって、自分でデザートを口にできるだけの稼ぎを得られるか、という問題ですね。飴一つくらいなら何とかするでしょうけど…

憲法第25条で「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」とは、ちょっとしたデザートを食べる程度かなと勝手に思っています。単に三度の食事をするだけなら、文化的でもないような感じがしますし…そういうちょっとしたゆとりが文化的と言える根源だと思うのですが、いかがでしょうか?

今は、コンビニでもいろいろなスイーツを売り出しています。せいぜい数百円で買えるものではありますが、将来それを楽しみに一生懸命働こうと思えるとしたら、たかがデザートと言っても侮れない力があると思います。

2012年10月27日 (土)

(361) 克服する・ありのままを受け入れる

NHKのEテレ「Our Voices 第4回 「発達障害 苦手なことを克服すべき?vs.ありのまま受け入れる?」」の録画を昨夜見終わりました(今頃? という突っ込みはご容赦下さいcoldsweats01)。

この番組の中で、大人の発達障害者達がどのように社会に向き合い、対応しているのかが紹介されていて、大変興味深く見ました。

息子が成長したら、やはりこういう課題にぶつかるんだろうなあと思っています。片付けができない、一方的なコミュニケーションという課題に対して、片付ける範囲と時間を限定しかつbefore・afterで写真を撮って達成感を高める、自分の話すことを15秒にまとめることで興味のあることを1から10まで話したい気持ちを抑制し、相手の反応を見てそこでやめるといった対応策は、なるほど! と膝を打ちました。

一方で、克服するにしてもありのままを受け入れるにしても、対象となる課題を認識できるという能力がないと、どちらもできずにただそのままで居続けるということになるなあとも思いました。この「ただそのままで居続ける」と「ありのままを受け入れる」は違うんですよね。

例えとして適切かはわかりませんが、買おうとした服のサイズがちょっと細めにできていたとした時、「克服する」はダイエットを頑張って着られるようになる、「ありのままを受け入れる」は同じデザインでもう1サイズ大きいのを探すか満足できるほかの服を探して買う、なのに対して、「ただそのままで居続ける」は我慢してその服を買って着る、になると考えています。実際着る時には体と合っていないので、極めて着心地が悪くなります。結果ストレスが溜まることにもなります。

番組に出演されていた方々は、少なくともこの課題認識ができている点で、一歩先に行っているなあと思います。特に、知的障害を併発している場合、課題認識自体に困難を抱えてしまう場合が往々にしてあって、対応は親や周囲が考えてあげる必要が出てきます。

また、全てを克服するのも、ありのままを受け入れるのも実際にはありえなくて、両方を事象ごとに使い分けることになるんだろうなあと思います。それは、健常者でも同じことですよね。むしろ、この使い分けができるということでだいぶ生きやすさが変わってくるのではないでしょうか?

最後になりますが、「克服するために一生懸命努力したけど、やっぱりできるようにはなれないと悟った時、ありのままでもいいじゃないかと思うようになった」という心の成長(と言ったら失礼ですが)の過程は、最初から何もしないのとは明らかに一線を画すと思いますし、それで良いのではないかと感じましたし、印象に残っています。何でも克服できたら、それは障害ではないってことでもありますし…

2012年10月20日 (土)

(360) 「分かっている」と分からせること

自分の息子だけかも知れませんが、彼と話をしていて完全な問い形式の質問(と言うのも変ですが)に対する答えはまあまあできるものの、こちらの提案や助言に対しては無反応になる傾向が多いと感じています。

こうなると、私も「聞いていますか?」と問い直すこととなり、それについては「聞いてるよ!」とやや不快そうに応えるので、どうやら聞いてはいるようなんですけど、無反応だとこちらも何だかな? と思ってしまいます。

アメリカ人のように「フフン」「オウ、リアリィ?」「クール!」「ザッツグレイト!」等とワンセンテンスごとに反応して欲しいというわけではないんです。むしろ本当にそんなリアクションをされたらそれはうっとうしいhappy01と思います。

なぜ、息子がそうなっちゃうのかなあということを考えると、結局「聞いています」「わかっています」ということを相手(この場合は話かけている私)に伝えることの必要性を認識できていないがゆえに、そうしようという意欲が乏しいからだろうと思います。言い換えると、相手の心の中に自分のリアクションへの期待があって、何らかのリアクションをした方が得だという推測が下手なのだろうということです。

これも、一般に心の理論と呼ばれる相手の心を推し量る能力が低いことによるものだとは理解しているものの、それは社会生活を営む上では障害になりやすい部分であり、まさにハンディを抱えているなあと感じます。

逆に、大した仕事をしているわけでもなくても、相手の気持ちを読めてうまく対処することができるだけで、余裕で食っていけている人がいるわけですから、この能力は前回書いた「腕一つ」に相当するくらいの価値を持っているという見方もできるわけですね。

ここは、本人の自覚なしにはどうにもならない部分だと思います。いつか自覚できるその時がいつか来るのか、あるいは来ないのかもわかりませんが、こればかりはその時が来るまで忍ぶほかないですねえ。

2012年10月17日 (水)

(359) 自分の腕一つで世を渡ることの難しさ

よく、「職人は自分の腕一つで世を渡っていける」というコメントを見聞きします。確かにそれはその通り「だった」と思います。

「だった」と過去形で書いたのは、今の世の中でそのような職人さんがどれくらいいるだろうか? と考えた時に、「世を渡っていける」レベルは昔よりもはるかに高く狭くなっていると感じるからです。

論より証拠、あなたの家の中で職人が作ったものって何がありますか? 家の中を探しても、大抵は機械生産のもので、たまにおじいちゃんの形見の筆だとか箪笥だとかがある程度ではないでしょうか? 

本物じゃないと…と言われることは確かに多いです。でも、実際にそれを真に受けて(と言ったら失礼ですけど)職人さんの手作りによるものばかりで揃えている、なんてことはまずないでしょう。多くは機械や外国で生産されたものばかりであり、結局、ものすごくハイレベルの技量がないと、これらのものに取って替わられてしまっている、ということです。

昔は良かった…その通りだと思います。でも、過去に生きることはもうできません。発達障害児にはものすごい特技があって、それでやっていけるという神話に近い誤解がありますが、大抵は世を渡れるレベルまで至らない、との現実認識が必要でしょう。そうなると、やはり苦手なことであっても、人との関わりをある程度はできるようになる必要があります。

もちろん、健常児と同等なレベル等はまず期待できないので、人との関わりという行為の中でも必要最低限に絞り込むこととなります。挨拶ができて、イライラを人にぶつけない(そもそも自分がイライラする状況を作らない、もしイライラし始めたら気分転換をする方法を見つけ実践する)だけでも、だいぶ生きやすさが違ってきます。

後は、「自分はこんな特性を持つ(変わった)ヤツなんです」ということを何らかの形で示し、納得あるいは諦めてもらえれば良いのですが、これは本人だけでは厳しくて、ジョブコーチや親が出ざるを得ないところかな、と思います。

「自分の腕一つで世を渡るんだ」と悲壮な覚悟を持って修練に励み、あるいは本当にすごい能力を身につけられるようになることもあろうかとは思います。でも、その能力が社会に出ようとした時に、まさにその時代のニーズと合っているかはわかりません。頑張って余人を以って換えがたい能力を身につけたとしても、ニーズがなければ、どんなにすごくても売れない、という悲しい現実に直面することとなります。

やはり、世の中が「社会」と言われるように、人間が社会的な生き物である以上、最低限の人との関わりを身につけておくべきですし、少なくともそうやって損はないと思います。

2012年10月10日 (水)

(358) 急な変化への対応

テレビ番組の中で、お笑い系の芸人が「それ、聞いてないよ~crying」と絶叫するシーンは、割とよく見ます。

実際は、台本通りにそう言っているんだろうなあと思うのですが、こういう突然のできごとに対して、自閉系の子は極めて弱いです。どうしてなんだろうということを考えてみました(私は医者でも何でもないので、話半分に聞いてくださいね)。

自閉系の子は、元々、複数の視点から多面的に見るという能力が人一倍低いです。このことに対しては、ミラーニューロンの働きが弱いから、というような説明を聞いたことがありますが、これをひと言で言えば共感する能力が低いということです。

即ち、自分と異なる他者の存在を認めることと、その他者には自分と異なる感情が存在していることを認識しづらいという性質からくる特性であって、自分の見方や考え方が全てであり、その裏返しとして、(自分の)1つの見方、1つの考え方に固執する傾向があります。

異なる見方、考え方が気にならないことから、その分自分の見方、考え方に没頭することになり、一度始まるとその思考が止まりにくい性質を持っています。従って、このような状況の中で急に想定外のできことが起こると、止まりにくい思考を止め、急に起こった事象の分析を一からはじめ、その上で対応案を考え始めなければならないという状況に陥ります。この方向転換をするのには、異なる見方、考え方が頭の片隅にある健常者と比較して、莫大な負荷がかかることとなります。

彼らが、世の中が秩序正しく動き、変わらないことを良しとする傾向があるのは、この莫大な負荷を避けたいという願望と、実際自分の処理容量を超えて対処できなくなることへの恐れからくる極めて自然な感情だと思います。

こういう特性に対して矯正を目的として訓練を行い、できれば克服、そうでなくても最低限まだマシな状態にすることは、もしかしたらできるのかも知れません。でも、どの程度マシになるのかが分からない一方で、その訓練にかける時間と労力、不得手なことに取り組む本人の疲労感と不出来さを認識することによる自己肯定感の減退、訓練によって取られる時間の他の得意分野への転用機会の喪失等を総合的に考えると、この矯正訓練に賭ける価値は、私には見出せません。

日本の教育は富国強兵政策の遺物だと何回か指摘していますが、戦地で立派に働けるよう全てを平均的にソツ無くこなすオールラウンドプレーヤーを究極の目標として実施されているように感じています。

でも、実際は、多くの人はどこか能力に欠けがあります。これは健常者でもそうです。もしかしたら、皆学校で授業を受ける過程で、不得意科目に悩みちょっとずつ自信を失って「分を知って」しまい、謙虚な振りを身に付けてしまうようになっているのかも知れません。かなり飛躍しているのは重々承知しているのですが、もしそうだとしたら、とても哀しいことだと思うのです。日本人でアメリカ人のように自信満々な人が少ないのは、案外こういうことが原因なのではないかと憶測しています。

突然のできごとは、確かに起こることではありますが、そうそう起こることでもありません。そういうことを考えると、自閉系の子に急な変化への対応もソツなくこなせるオールラウンドプレーヤーを期待し、そのために労力を割かせるよりは、得意な方面の能力を伸ばす方向で教育していった方が本人にも社会にもより良い結果をもたらすと確信しています。

みんな一緒の教育を受けても、社会人になれば皆働く場所が変わってきます。そう考えれば、私は突飛なことを言っているわけではないと考えています。

2012年10月 5日 (金)

(357) 特別支援の形

現在の特別支援教育制度は、特別支援学校はもちろん、特別支援学級でも通級指導教室でも普通学級と二者択一を迫られることとなっています。

ひとことで言えば、そちらを選んだら普通学級で学習する機会は失われる、ということです。一番普通学級に近い通級指導教室でも、通級指導教室に行っている時間はそのまま普通学級での授業の減となります。そういう点では二者択一となるのです。

私の勝手な思い込みかも知れませんが、特別支援教育は普通学級と相対立するものであるべきだとは思いません。あくまでも主体は個々の生徒であって、その生徒が普通学級の授業内容を個々の特性によって理解しきれない場合に、特性に沿った指導を付加して補うという形の方が望ましいと考えています。その点において、どちらが優位であるというものではなく、どちらがその子の成長に適しているのか? という親和性に関わるものだと考えています。

もちろん、明らかに本人が普通学級に適応しきれない場合は、特別支援教育側だけで対応せざるを得ないでしょう。でも、それも教育者側の「指導仕切れない」という思い・判断からなされるべきものではないと思います。あくまでも本人の「普通学級にいることが辛く、授業内容も全く分からず、できないことから自身の名誉感情を損なう恐れがある」というような場合に限っていく必要があると思いますし、その場合は逆に本人の自主選択として積極的に特別支援学校・学級を選ぶというのも「有り」だと思います。

学校の究極の目的は、個々の生徒の能力を伸ばし、日々の生活をしやすくすることであって、授業はその目的達成のための手段であるという原則に立ち返るならば、ただ普通学級に入れさえすれば何とかなるというのも、特別支援学校・学級では教科学習はしなくても良いというのも、両方ともあるべき姿ではない、端的には間違いであるということが自ずから明らかになってくると思っています。

時代の進展は目まぐるしく、ただ旧態依然として「よその子と同じにしていれば良い」という時代ではなくなりました。PTAのP(=Parents)もT(=Teacher)も積極的に目の前にいる子どもを見据え、真剣にその未来を慮り、個々の子どもに合った学習環境を取捨選択し創造していく時代だと思います。

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    こちらの派生ブログです。 こちらが息子を中心に息子の成長の様子や成長に関わり教育や社会について考えたことを書いているのに対し、同じ発達障害絡みではあるものの、広く社会一般を理解する一方法を軽く書いています。 せっかく学んだ発達障害の知識を生かすとすれば、という視点で書いています。
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