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2012年9月

2012年9月29日 (土)

(356) 自罰・他罰

我が家では、兄妹ゲンカが毎日起こっていますbearing

その仲裁もなかなか面倒なのですがcoldsweats01、双方とも相手が悪いと言い張ります。人間、基本的に小さい時は他罰型なんだな、ということがわかります。

それが段々と成長するにつれて、内省して自分の悪いところにも目が行くようになるのであって、最初から自罰という子はいないんだと達観するようにしています(努力しているということであって、できているということではありませんhappy02)。

もちろん、それは放置しているというのとは異なり、ケンカの現場を見ていて良くないことは良くないと教え、双方にケンカにならないような方策(「そういうことを言ってはいけない」「さっさと側を離れる」「腹が立っても相手にしない」等々)を提案してはいるんですけど、なかなか実行してくれません。

正確に言うと、 実は、そうした方が得だとか、或いはそういうことをやるのは良くないということ自体は、息子も娘も頭では分かっています。個別にお話するとちゃんとそのように言います。だけど、行動が伴ってきていないというわけですね。

大人風に言うと、総論賛成、(自分にかかわる)各論反対という感じです。感情が理屈に勝ってしまっている、理屈で感情を抑えられない段階なのでしょう。

ただ、そういう過程は兄妹の双方ともに通過していくポイントであり、発達障害のある息子が、遅ればせながらもそういう成長過程の達してきていることは、喜ぶべきことだと思っています。また、兄弟がいることによる不断の社会的な関わりは、無いよりはあった方が良いのだろうと思ったりもします。

強引にそう思い込んでいますけど、日々ケンカしているのはもうちょっと穏やかにならないかと思いますねえthink

2012年9月22日 (土)

(355) 技術・美術・音楽・体育

先日、twitterにおいて @nekojitatarouさん(今、見たらもうページが無くなってしまっておられるようですが…)の「数学のテストで、ひとりずつ答案をプロジェクターか何かでクラス全員に見せながら採点したら大問題になるはず。ですが、体育ではそれが普通に行われている。算数の答案をみんなの前で採点したりしないし、そんなことをすれば問題とされるだろうに、体育ではそれに近いことが行われている」とのコメントに、ハタと膝を打ちました。

算数では、こういうふうに解くんだよ、と先生がやり方を教えてくれますし、国語では、みんなであれこれ考えて意見を述べ、そこに先生が指導をして考え方の手ほどきをしてくれるのに対して、体育の授業ではあまりそういうことってないように思います。前の子の後をただ追って順番に跳び箱を飛んだりすることはあっても、スモールステップで踏み切り・手をつく位置・飛ぶ・目線をマットの先くらいに・腰を前に・着地というような指導を受けた記憶がありません。結局、できる子はできるし、できない子は(指導もないんだから当たり前ですが)、できないってことになりますね。

今も同じ教科名なのかはわかりませんが、タイトルに書いた4つの教科においては、いわゆるコツが必要になるように感じていて、職人のようにコツは自分で見て盗めと言わんばかりのおざなりな指導が今でも横行しているように感じます。そしてできないのは個人の反復継続の努力不足のように言われてしまうのは、いかがなものかと思うのです。

きちんと指導するノウハウを確立することが大切だと思いますし、そういうノウハウが無い、或いはあっても共有できないようなものであれば、学校で教えことに慎重になるべきではないでしょうか。こういうところに、「兵隊さんに成れる人間だけを選抜し育てられれば良い」という富国強兵政策の遺物的な思想が残っていると感じてしまいますし、極論を言えば、「ただヤレ、そして不出来さを思い知れ、笑いものになれ」と言っているのとどう違うのか、もわかりません。

先日、ネットニュースで体育の家庭教師の人気が高まっているという記事を見ました。http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/590642/

子どもの自尊感情を考えれば、こういうニーズが出てくるのも当然だと思いますし、指導できる人が現実にいるのであれば、ノウハウはあるということになります。

「できた!」の喜びをより多くの子どもが経験できるよう、学校での指導のあり方について真剣に検討を行うべき時期に来ていると思います。

2012年9月15日 (土)

(354) 周囲の理解を求めるにあたって

「息子さんは、自閉症の疑いがあります」と児童相談所の臨床心理士さんから告げられてから、もうすぐ5年になろうとしています。

当時、薄々「この子は普通の子とはちょっと違う」と感じていましたが、そのようにハッキリ告げられた時のショックは図り知れないものがありました。

そもそも「自閉症って何?」という状態でした。篠原涼子さんが好演したドラマ『光とともに』はたまたま見ていたのですが、「光君とは全然様子も違うし、どこが自閉症?」等と思ったりもしていました。

もちろん、今ならば自閉症と言っても千差万別であり、人によって特徴が異なることもわかりますし、一方で一般に三つ組と言われる自閉症の根源的な特徴が(大小はあるにせよ)やはり息子にもあるな、という視点で見られるようになっています。とはいえ、それはそう簡単に身についたことではありません。たくさんの本を読み、療育機関に通い、同じ境遇の親と語り合い、療育機関に通ってくる少なからぬ子どもの様子を見続けた中で、多くの葛藤にさいなまれながら会得したものだと認識しています。

自分で言うのも何ですが、この過程はかなりしんどいもので、それを曲がりなりにも乗り越えてきたことは、評価に値するだろうと思っています。一方で、この経験から見れば、正しい「障害への理解」というのは、はるか遠い道であって、その全てを周囲の人に求めるのは見果てぬ夢なのではないか、と感じるのです。

自分だって必要に迫られて、多大な労力と少なからぬお金をかけてやっと少しずつ身についてきたことを考えると、それをそのまま周囲に求めることはできないというのも自明ではないでしょうか。

このあたりのサジ加減を誤っては、結局本来の目的である子どもの利益につながらないことになってしまいます。私は、完全な理解を求めるよりも、最低限抑えて欲しいポイントと、親の側がやっていることが正しい接し方である(=甘い、何もやっていないと感じられるのは誤解である)ことを、わかってもらうようにした方が、双方のストレスが減ると思いますし、そうなれば万々歳だと思っています。

そのストレスの低減こそが、心の余裕を生み出すことにつながります。当方の志が低いという非難は甘んじて受けます。でも、純粋な子どものように、障害を理解すべきだという思いは決して間違ってはいないとは認識しつつも、そこで疲れてしまったり、より強い軋轢を生じさせるよりは、多少のモヤモヤした気持ちは抑えて大人の付き合いを目指す方が、より良い結果を生むだろう、と経験的に感じています。

社会で生きるということは、主義主張を振りかざすことで達成できるものではありません。譲れない一線と損得を天秤にかけながら、幸せをより多く掴むことを目指す柔軟さが肝要ではないでしょうか。

2012年9月 8日 (土)

(353) 英語教育について

今は、小学校でも英語の時間があります。

ただ、かつて私たちが中学校から始めたような本格的なものではなく、まずは英語に慣れさせることを目的とした、軽いお遊びのような感じなのだそうですが…

このやり方が、息子にとってはよろしくないようですweep

「英語でみんなでゲームをしよう!」となった時、息子は「みんなで」の部分に反応して拒絶反応を露骨に示してしまうのです。

言い換えると、日本語であったとしても、みんなでゲームをするということが苦手で、自分が苦手なことは最初から拒否してしまうということです。

英語そのものは特段好き嫌いは無いようなのですが、こういうことが積み重なっていくと、英語と聞いただけで拒否するようになってしまわないか、とても心配です。

これからの時代、英語なしで生きてゆけるとは到底思えません。また異民族・異文化と日常的に接することへの慣れもあってでしょうけど、外国の方が日本よりも発達障害に対する理解があり、暮らしやすいというお話を聞いたことがあります。

戸部 けいこさんの漫画『光とともに』でも、スペシャルニーズに対する日本とアメリカの受け入れ方の違いを取り上げた部分があったりします。発達障害関係の本を読むと、実際に外国の方が暮らしやすいからという理由で海外に行って活躍する発達障害の方が複数登場されていたりして、今後の生き方を考える際の参考にさせて頂いています。

このようなことからも、英語についてはしっかり学んでもらいたいと思うのですが、いかんせんゲームで英語への拒否感を和らげようという学校側の配慮が、息子にとっては仇となってしまうのが何とも残念で忸怩たる思いです。

『ぼくには数字が風景に見える』で有名なダニエル・タメットさんは、発達障害者でありながら、さまざまな言語の取得能力がずば抜けています。幼少の頃の息子は、日本語ですらなかなか話せなかったことを思うと、どうしてそういう人がいるんだろうと疑問を感じてしまいますが、言語の表出までは時間がかかっても、それ以降は人並み以上に能力が発揮されるようになることもあるのかも知れません。もちろん個体の差はあって、発達障害者は皆そうだ、ということはないのでしょうけど。

息子については、まずは英語は英語として純粋に勉強してもらうしかないだろうな、と思います。英語教育も、言語とゲームという二つの要素を混ぜ込むのは混乱の元となってしまうので、「構造化」を図ることが必要だと感じています。

こんなところにも、健常児との差異が垣間見られるんですねぇ…

2012年9月 2日 (日)

(352) 狭量

狭量という言葉を辞書(ネット 三省堂 大辞林)で調べてみると

狭量:一つの考えにとらわれ、異なる考えを受け入れられない・こと(さま)。度量の小さいさま。心のせまいさま。

と書かれています。

この言葉の意味をそのまま受け止めると、発達障害の子はかなりの確率で狭量であることになります。

正直なところ、実際にあるできごとが起こった時の対応は「型にはまったもの」が多く、それで処理できないとなると、場に相応しくない言動やふるまいをすることが多くなります。
例えば鬼ごっこで鬼に捕まった時に、鬼(だった子)に「何で捕まえたんだ?」と言い続ける、というような例が挙げられます。

こういうことを言い出した時に、その場で問い詰めても要領を得ないことが多く、ちょっとクールダウンして落ち着いたところで「鬼が捕まえるのは悪いことではないでしょ?」と聞くと意外に「はい」と答えたりします。ルールはきちんと理解できている場合も少なくないのです。

ただ、自分が捕まるという「不快な思い」に捉われてしまうと、その気持ちを自分の中で消化しきれなくなってしまう、自分ではなく相手に帰責性を求めてしまう、という傾向が健常の子よりもかなり強く出てしまうということです。

もちろん、このようなレベルでの感情コントロールのスキルは幼稚園程度でも身につけている子が大部分であり、たまに小学校で同じようなふるまいをする子がいると、「あの子はワガママ!」と非難をされる対象になってしまいます。

ただ、そうなってしまう当人に悪気は全く無い、少なくともワザとやっているわけではないところに、問題解決の難しさがあります。少なくとも、強い叱責では本人の気持ちが置き去りになってしまいますし、かといって周りの子に「あの子は特別」という扱いを求めると、それはそれでストレスを生みますし…。

結局、すぐには難しくても自分で自分の気持ちの動きを見つめるスキル、その気持ちの動きでマズいことになりそうだなと予想ができ、かつ予想したらその前に対処するスキル(その場を離れる、深呼吸をする、別のことを考える、等)を身に付けていかないと、段々と周囲との軋轢が大きくなっていくことになります。

「障害者は何をするかわからないから関わりたくない」と「障害があるんだからしょうがない」の双方の両極端の意見の間で、落としどころを探っていく必要はもちろんあるのですが、少なくとも障害のある側からもできることを身に付けていく姿勢を示すことが大切なのではないでしょうか?

ちなみに、狭量を字義通りに体現してしまう発達障害の子を見ると、その昔はマイコンを自作してカセットテープでデータを保存していたような時代があった(データ保存はハードディスクが当たり前の今のPCからは想像できないと思うのですが)ことを思い出してしまいます。本当に記録できるデータ量が少なかったですし。

なお、発達障害の子でも相手の言い分を素直に聞き入れている場合ももちろんあります。但し、親や先生の言うことは聞くもんだという「コダワリ」に由来している場合、内容の是非については考えていないこともあり、この点の見極めは必要となります。

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    こちらの派生ブログです。 こちらが息子を中心に息子の成長の様子や成長に関わり教育や社会について考えたことを書いているのに対し、同じ発達障害絡みではあるものの、広く社会一般を理解する一方法を軽く書いています。 せっかく学んだ発達障害の知識を生かすとすれば、という視点で書いています。
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