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2012年7月

2012年7月28日 (土)

(345) 発達は無限?

努力に比例して結果が出る━━というのが確実ならば、とにかく努力しましょうと言えます。でも、それは、世の中で普通のことでしょうか?

残念ながら世の中には、努力してもダメだったということも少なからずありますよね。

療育のことばかり考えていると、ついつい視野が狭くなります。健常児だったらどうだろう? と引いて考えることも大切で、健常児がみんな勉強すれば東大に入れるか? 一生懸命に練習すれば甲子園に出られるか? をちょっとでも考えれば、そんなことはないということも分かると思います。

元々、障害児は持って生まれたハンディからくる苦手なことがあるから障害児なのであって、努力で100%克服できるならそもそも障害児ではないのです。そういう中で、最低限のところまではできるように持っていこう、できたらもうちょっと上積みを図ろうというのが療育に向けた基本姿勢だと思っており、これはもちろん、諦めて最初から全くやらせないというのとは異なるものです。

健常児であっても、途中で燃え尽きてやる気を失ってしまう例は、決して珍しいことではありません。この点で困難への耐性が低いことが多い障害児に対しては、更に慎重な対応が必要なのは言わずもがなだと思います。このあたりのサジ加減に悩み迷う親御さんも多いと思いますし、それは決しておかしなことではありません。増して自分を責めるのも間違いです。

「やればできる、努力だ」と、勇ましいことを言う人も世の中にはいて、ついその勢いに釣られて子どもへの負荷を上げてしまいたくなる衝動に駆られることもあるかと思いますが、その結果を背負うのは、ひとえに子どもであることを再認識する必要があります。勇ましいことを言ったり、検証もされていない療法を薦めた人は、決して責任を取ってはくれません。

健常児でも発達は無限ではありません。自ずから個体で伸びシロは定まってしまう部分があります。大きな目標を立てること自体は悪くはないのですが、性急にそこまでいくことを狙っては躓きの元です。まずはベンチウオーマーでも良いから試合に参加できるように、次に四球でも良いから塁に出られるように、とコツコツやっていきましょう。ホームランを狙って大振り練習をするよりも、基本に忠実に取り組むことで、きっと着実な発達が見られることと思います。

「苦戦に砕けて死を急ぐな」は、硫黄島で米軍を苦しめた栗林将軍が兵に対し示した戦闘心得の中の一つです。療育は篭城戦のように、勝つことが難しい苦しい戦いです。でも、これを勝てない戦いだと捉えるのではなく、負けない戦いだと割り切ることで、継続自体に意味があることを再認識できると考えます。焦らず倦まずやるべきことを淡々とやる、これに優るものはありません。

2012年7月21日 (土)

(344) 夏休みの初日

今日から夏休みです…と息子に言ったら「夏休みは23日からで、今日は土曜日」と、よくわからないというかどうでもいいというか、いかにも自閉系の子どもの言いそうなこだわり発言を頂いてしまいました。

いずれにせよ、学校に行かなくても良いという開放感は感じているようで、昨夜早速夜更かししようとするなど不埒な行動をし始めたので、それは止めました。

とりあえず、出された宿題の量を把握し、次に他にやらなければならないこととして療育教室・体操教室に行く日を確認し、さらに弱点として見えている課題(九九がちょっとあやふやである、等)を補強すること等を念頭に置いて、長い休み期間の過ごし方を「本人と」相談しつつ決めています。

この「本人と」というところは、大事です。どうしても、親主導になりがちなのですが、そうなってしまうと自分でやることを自分決めるということができなくなってしまいます。自立を意識して、自分で決めるというクセをつけていく必要があると認識していますし。

ちなみに、九九については、単なるおさらいというわけでもありません。3年生の現在、「余りのある割り算(例:.28÷9)」を習っているのですが、これをやるには「九九でおおよそのアタリ(近似値)を素早く想定する」という作業がどうしても必要になることから、この精度を高めていく必要があると判断したことによります。

学校の課題の中で、習字だとかそろばんだとかはどうでも良いと思っていますが、こういう割り算は大事だと思っていますので(会社の飲み会ですら使いますしw)、ここは着実にマスターさせたいと考えています。

「子どもの頃は、遊んでばかりだった」という方も多いと思います。私自身そうでしたし、宿題は7月中にほとんど終わらせていた記憶がありますが、今はそうでもないようです。健常のお子さんを育てている方に聞いても、やはり手助けをしながら親子二人三脚で取り組んでいる方が多いようで、言い換えるとそうしないと健常の子でもつまづくところである、ということになります。

結局、学校が嫌いになるというのは、学校で習うkとがワケがわからない状態になって、それにつき合わされることが発端だと思いますので、まずはできるだけそうならないようにサポートしていきたいと思います。

発達障害の子は、わからなくて自分の興味を持てない内容には、ますます見向きもしなくなる傾向がありますから、ここは大事に行こうと思います。

もちろん、勉強以外にも妻の祖父母の家に遊びに行ったり、キャンプに行ったりといろいろな経験をさせてあげたいとも思っていて、楽しい夏休みになるよう努力していくつもりです。

2012年7月15日 (日)

(343) 名誉健常者を考える

SILVER船長さんの名誉健常者に関する記事を読んで、思ったことを書いてみます。

この件については、「名誉健常者」という名前を付けると、それが名付けた方の当初の思いとは無関係に、一人歩きを始めてしまう、ということを感じています。

健常者が大多数を占めていて、健常者がルールを決めているのが今の社会であって、既存の社会の中では健常者の意向のみが斟酌される傾向にあります。

これに対して、障害者側は健常者に「お世話になる」立場であって、自分達の意思・意見を表明しにくい関係・構図ができあがっていました。

…ここまでは多分そう大きな認識の差は無いと思うのですけど…

ここで、何が原因でズレが生じちゃっているのかな? と考えると、健常者(SILVER船長さんの記事で言う赤色人種 A)、同青色人種(障害者 B)、努力・「修行w」して赤色人種社会への同化を図る青色人種(C)の3者が存在し、その3者の関係のどこを見て言っているのかを明確にせずに語っているところだと認識しています。

Bは、AのBに対する優越感を前時代的でありおかしいと考えていて、障害者も(憲法13条でいう)個人として尊重されるべきだと主張するようになっている一方で、Aは今の社会の枠組みの中でBを選別し、Aのルールに適合しAの社会でやっていける人間だけを仲間として認めようとしている。このAから選ばれるBを「名誉健常者」と名付け、Aの選別する姿勢を皮肉をこめて批判したもの、というのが名誉健常者という言葉の始まりのはずなんです。

ところが、一方でAの社会の一員として認められれば、生きやすいのも事実。そうであるがゆえにCのような努力をする人も出てきます。そしてBは、Cの努力に対しては何ら非難するつもりはないんですよね。

それなのに、Bが(優秀な)Cに嫉妬して名誉健常者と名付けて貶めている、と言い出した半可通の人がいて、それを真に受けた人が少なくないことから、ややこしくなってしまったのだろうと思います。

実際、Cには能力の高い人が多く、それゆえにプライドも高く、それを傷つけられたという思いも強くあるのでしょうし。

これは、そもそもこれから先の社会をどう作っていくか、という大きな課題についての話し合いが先に来るのかな、と思います。人を排除する発想は、余裕が無くなっていくに従って、ますます先鋭化をすることになるでしょう。障害者の次に排除されるのは、病人かも知れませんし、知能が100以下の者や太り過ぎの者、はたまた喫煙者になるかも知れません。自分はどうなっても排除される立場にいない、と言い切れる人は、そうそういないと思うんです。中国では「唇滅ぶれば歯は寒し」と言います。ある者が無くなれば、そうでないもう一方も害を受けるのです。

健常者のルールもそれなりに経験に基づいた合理的なものだとは思います。ただ、こうすれば譲れる、というポイントも探せば出てくるはずであり、そこを話し合って妥協点を探ることによって、健常者と障害者の共存の垣根を低くしていくことが大切だと思っています。

そしてこれは、Cの人にとっても不利益になることではなく、むしろAの社会に入りやすくなる点でメリットがあることだと思います。

言葉の理解の仕方でいたずらに対立するよりも、実利を追求していく方が合理的ではないでしょうか。

2012年7月14日 (土)

(342) よく頑張りました

もうすぐ夏休み! ということで、息子が通う通級指導教室も、1学期は今週が最後となりました。

最後ということで、各児童が発表を行う時間が設けられたのですが、今回はその準備も含めて、かなり意欲的に参加することができたそうです。

ただ、他の子の発表の時は、最後の方になると飽きてきちゃって集中力が途切れてほかごとを始めてしまう…という点もあり、まだまだ改善が必要な部分もあるようですが、これまでに比べると確実に成長を遂げてきています。

通級指導教室には、さまざまな特性を持ったお子さんが来ます。

たまたま自分が送って行く時に、信号のところで半分パニックなっているクラスメートの子に会ったりすると、普段はすごく優秀だと聞いていたのでちょっと驚いたりします。

そんな中でも、皆少しずつ成長しており、似たような傾向を持つ仲間との交流を楽しんでいるように感じます。

幸い、息子のクラスを担当してくれている先生方は、通級指導教室での仕事を自分から希望して赴任された方ばかりのようで、柔軟に継続的に、かつ意欲的に息子に関わってくれており、本当にありがたいと思っています。

在籍校の方も、段々疲れてきているな、と感じる一方で、それでも登校しぶりを示すこともなくちゃんと通えていて偉かったと思います。

夏休みで十分に息抜きをして、また頑張ってもらいたいと思います。

2012年7月 7日 (土)

(341) まだ教えていたんだ!?

前回、習熟度別に分ける教育についてお話しました。でも、その前に教える内容のたな卸しが必要だと思います。息子が学校で今習っていることを見ると、本当にいるのか? と思うものが紛れ込んでいると感じるからです。

一例ですが、自分が小学生の時の学習課程にあって、もう無くなっているだろうと思っていた習字やソロバンが未だに残っていることを知って驚いています。小学校の新学習指導要領に実施するようしっかり書いてあるんですね⇒そろばん 習字(書写が正しい表現のようです)

ゆとり教育でなくなって、結構な宿題を持ち帰ってくるようになっているのに、一方でこういうものがまだ残っている。私は少なくともこの二つについて極めて不得意でありましたけど、それで人生困ったことは全くありません。公共事業じゃないですが、これも一度始めたら中々やめられないものの例に該当するんじゃなかろうかと思っています。教育についてはまだまだいろいろとやるべきことがあると思います。

例えば、事業仕分けならず教育内容仕分けをやってみるというのはいかがでしょう? 学校で何をなぜ学ぶのか、を一から考え直すべきではないでしょうか?

もしかしたら、一例に上げたものでも、それぞれの利害を持つ団体とのしがらみでやめられないのかも知れません。でも、それは確実に子ども達の貴重な時間を占有していて、生み出された効果から考えると、それだけの価値があるのだろうか? と疑問を感じてしまうのです。

さらに、仮にまだ続けるとの結論になったとしても、それを全員が学ぶ必要があるのか、という視点も必要だと思います。「義務」教育課程において、選択制が馴染むのか? という議論もあるかと思いますが、図工や音楽等は選択制にして、好きな方を一生懸命にやる方が本人の達成度・満足度も高いと思います。

このようにして創出した時間を、うちの息子の場合はSST等にあてることができるようにしたり、勉強ができる子は更に発展的な内容に取り組んだり、運動ができる子はスポーツ活動をしたり、というような、凸凹の凸を伸ばす取り組みってできないものだろうかと思うのです。

みんなが一緒に優秀な兵隊になることを目指す前時代の教育制度は、そろそろおしまいにするべきだと強く感じています。

2012年7月 1日 (日)

(340)子どもに取って良い教育とは

教育基本法の第二条は「教育の目標」について規定しています。

第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一  幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二  個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三  正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四  生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五  伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

この中で、私は2号に着目します。「個人の価値を尊重して、その能力を伸ば」す時に、今の学級制度、特に普通学級というくくりで対応できるのか、と疑っているのです。

これについては、科目ごとに習熟度によって生徒を分けてきめ細かく対応するのか、インクルージョン教育を行うのかが両極にあると思っています。現在の教育は、障害によって一緒に学ぶことが難しい子に対応した学校や学級は設置していて、そういう子はそこで学べるようにしつつ、それ以外の子はみな普通学級で学ぶという対応を採用しているように理解しています。基本は、インクルージョン教育にあってそれが難しい子を例外的に普通学級以外のところで対応するようにしているのだろう、と思っています。

両者には一長一短があります。習熟度によって分かれることは、一緒に過ごす時間が短くなるということにつながり、結果として仲間意識が減っていくというデメリットが生じる一方で、能力に応じた学習課題を与えられることによって、達成感や自己肯定感が増し学校での居心地が良くなるというメリットがあります。

逆に、インクルージョン教育だと、長く一緒に過ごす中で仲間意識は強くなることが期待できるというメリットがある一方で、教室で出される課題がどうしても標準的なものとなり、できる子もできない子もフラストレーションが溜まるというデメリットが生じるだろうと思われます。

これらのメリット・デメリットをどのように考えるか? 人によってさまざまだと思いますが、私はこれを考えるに当たり、じゃあその仲間意識って大人になっても持ち続けられるものなんだろうか? と考えてしまうのです。

自分は普通学級で過ごしてきていて、中学を卒業して高校・大学と進む中で、進路が分かれた子は少なくありません(というより、分かれた子ばかりです)し、自分が郷里を離れたこともあって、彼らと会う機会は現状ありません。もっと年を取ってリタイアして郷里に戻った時には、もしかしたらまた付き合いが復活するのかも知れませんが、現状は今の会社や地域の中での付き合いだけとなっています。

一応、普通学級の中で一緒に過ごした子であってもそうなってしまうわけで、インクルージョンによって障害のある子を含めた学級の中で育ったとしても、これは同じことになるのではないかと思います。もちろん、一緒に過ごす中で障害者に対する理解は進むというメリットは、なお残ることにはなりますが・・・。

ただ、このメリットが、習熟度別で能力を伸ばすことよりもなお価値があるかについては、やっぱり懐疑的です。

科目ごとに習熟度に分けると劣等感を植えつけることになるというご意見もあると思いますが、私は逆だと思っています。一緒のクラスにいる方が、まざまざと自分の不出来を見せ付けられることになりますし、実際できない経験が多くなるほど劣等感にさいなまれることになるのではないかと考えてしまうのですが、これは間違っているでしょうか?

特に、インクルージョン教育の中では、できる子もできない子も一緒になります。できない子は達成感も持てませんし、できる子は優越感を持ちます。達成感と優越感のどちらが人間としての成長により効果的かと考えると、私は達成感をより重視すべきと考える立場に立ちます。

さらに、学業の面だけでなく障害者への態度を学ぶということについてもこんな話を聞いたことがあります。実際に障害児を受け入れる学校に通っている父兄の方から話を伺ったのですが、障害児に対する健常児の「お世話してあげる」という上から目線意識を感じることは、残念ながら少なくないのだそうです。障害のある子にもプライドはあります。上から目線にいつまでも気付かないことはなく、段々それが苦痛になってくるようです。

こういう話を聞くにつけ、親の思惑通りには行かないものだなあと思いますし、理想はなかなか実現しにくいと感じています。

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