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2011年12月

2011年12月23日 (金)

(302) きょうだい

「きょうだい」とひらがなで書く時、単なる兄弟とは異なる意味を含ませられていることがあります。具体的には、障害児の兄弟ということです。

最近は、この存在も少しずつ社会に認知されるようになり、NHKのEテレ『ハートをつなごう きょうだい~障害のある人の兄弟姉妹』 でも今度再放送が行われるようです。

このテーマについて語られる時、一般に「きょうだい」から見た親あるいは「きょうだい」から見た障害のある兄弟に対する思いがメインとして取り上げられることが多く、親からみた「きょうだい」達への思いについて語られることってあまり無いように思います。増して、障害のある本人から「きょうだい」に対する思いは、元々本人の表現力の問題もあってほとんど詳らかになっていないように受け止めています。

これまでいろいろなサイトを見させてもらいましたが、「きょうだい」達が極めて複雑な思いを背負って生きていかざるをえない現実がある一方、それに対して親側が申し訳なさを感じていることをハッキリ表明しているような例って見た記憶がありません。

これは、いろいろな要因があると思います。

まず、上が障害児であることを認識したうえで下に健常の兄弟が生まれることを期待して出産する、というある種の故意の場合はそもそもそのような感情を持ち得ないでしょう。

それ以外の場合に、例えば上が健常児で下が障害児として生まれた時に、親自身も受け止めきれないくらい重い事態の発生に対して親だけではなく家族全体の問題として捉えてしまい、その事態への対応も親と「きょうだい」が分かち合うものだという意識を持ってしまう、言い換えると親が「きょうだい」達を戦友だと思ってしまうからだろうと考えています。

確かに、親も「きょうだい」も期せずしてそのような事態に遭遇することとなったわけではありますが、やはり親は保護者であって障害のある子だけでなく「きょうだい」に対しても「保護」者としてその人生をできるだけ謳歌できるように配慮する義務があると考えます。

このあたりのギャップが、「きょうだい」児問題を深く沈潜化させる元凶ではないでしょうか。

当家の場合、上の子の障害がわかる前に下の子を授かっており、ある種の故意を持って下の子を出産したわけではありません。そして、上の子の障害がわかった時にやはり「下の子が上の子の障害のことで不利益を被らないようにしなければ」と覚悟をして育ててきています。

とはいえ、皆無にはできない点で忸怩たる思いもありますが、そういう姿勢を示していくことで「きょうだい」もある程度理解してくれるようになるのではないか、と考えています。

その答えは、まだ先にならないとわかりませんが・・・

2011年12月18日 (日)

(301) 小心者になる

自閉症児育児に関する本を読んでいると、

自閉症の人は、その立ち居振る舞いが社会に受け入れられないことが多い
           ↓
     自己肯定感が下がりやすい
           ↓
鬱、引きこもり等の二次障害を引き起こしやすい

という趣旨の記述をよく見ます。

これはこれで否定するつもりはなく「あっそうだな」と思うのですが、

自閉症の人は、その立ち居振る舞いが社会に受け入れられないことが多い
           ↓
下手に動くと損をすることを学ぶ
           ↓
行動・言動に慎重になる(小心者になる)

ということもあるのではないか、と考えています(特に高機能の場合)。

ABA(応用行動分析)では、心という外から見えないものを憶測せず、外に現れている行動・言動で判断して問題行動を減らしていくことを目指すアプローチをしていきます(端的にはイルカに曲芸を教える時に、心を想定しませんよね?)が、自閉症児にも心はあって、周囲の直接的な注意・制止はもちろん冷たい視線や批判的な態度を幾たびも経験するうちに小心者にならざるを得ないのではないか、と考えてしまうのです。ABAの「働きかける」というアプローチでは、心というあいまいなものは対象としないだけであって、無いわけではありませんから。

ただ、小心者になっても(特にADHD傾向を合併していると)自分の行動を全部制御できるようになるわけではなく、衝動的に余計なことをしてしまうことが無くなるわけではないということも付け加えておきますが。

小心者になると、今動いた方が良いのかやめた方が良いのかを考えているうちにタイミングを逃すことも少なくなく、それで周囲を怒らせたり呆れさせたりすることが生じてきて、考えて悩んでいるだけ損なことが起こってしまいます。

ただ、そうやって最初に考えられる土台ができることはすごく大切で、そこから少しずつ社会の中での振る舞いを身につけていけるようになります。満点には程遠いとしても、まだマシにはなっていきます。

その日が来るのを信じて気長に待つしかないのでしょうけど。

なぜ、こんなことを考えるのかと言うと、私自身にも多少自閉のケがあることを自覚しているからです。

少なくとも会社に入ったばかりの頃は、気が利かないヤツと言われたことが複数回ありました。それでも、今は庶務の仕事を任されてそれなりのポストについています。今でも読み間違いをすることはありますが、だいぶ少なくなっています。

もちろん、そのケがあってもスペクトラムの中では健常とされる範囲に属しているからなんだろうと言われればそれまでですけど。

とはいえ、スペクトラムという連続体を意識しながら、できる・できないの二分法で考えるのもどうかと考えており、程度に応じて成長できる部分はあると考えることが大事ではないか、と考えています。

2011年12月15日 (木)

(300) 成長はゆっくりと

ここのところの息子の問題行動を解析すると、こんな感じになります。

  • 我が強くなってきた。やらなければならないことを自分の意思に反してやらされそうになると、かなり強く拒絶することが多くなった。
  • その時の理屈は、一言で言えば屁理屈。
  • 一方で、その行動が良くないということはわかっている。
  • でも、非難されることは嫌だと思っている。

この点について、主治医や療育の先生とお話した中では、本当にやらなければならないことと、やらないならそれはそれでしょうがないものを区別して、本当にやらなければならないことは気分を盛り上げたり量を工夫する等してやらせていく、というようにしてきています。

また、やらないでも良いとしたことについても、人の邪魔をしてはいけないことを教え、黙って見ているという選択肢を与えるようにしています。これってある意味では面従腹背を教えていることになりますけど。

面従腹背ってすごく悪いイメージがありますが、実はそんなに珍しいことではありません。

健常の子でも、授業中に先生に指示を出されても事実上やらずに、ボーっと校庭を眺めていたり、国語の教科書に載っている井伏鱒二の顔に鉛筆で落書きをしていたり、ということはあるわけで、そういうことをやっても良い(推奨しているわけではありませんので、念のため)と教えていることになります。

思い起こせば、集団に対する指示(一斉指示)が自分への指示も含んでいることがわからない、という状態だったこともありました。その段階だと、その指示に従うことは無かったわけです。

今はその段階を過ぎて集団に対する指示が自分への指示も含むとわかっていることとなります。そうなると、今度は指示は絶対で他の選択肢が無いと受け止めてしまい、それが自分の意思と反したら抵抗するしかない、と思い込んでしまっているようなので「それ以外の選択肢もあるんだよ」、ということを教えていこうということです。

通級指導教室に通っていることは何回か書いてきましたが、これに関連して先日こんなお話を伺いました。

「やりたくない時に、『嫌だ!』と気持ちが高ぶることがあると、最近は『隣の(空き)部屋に行ってきても良いですか?』と自分で言うようになりました。自分でクールダウンできるし、その時間も昔に比べて短くなってきました」ということだそうです。

成長はゆっくりと、確実にしてきているようです。

2011年12月10日 (土)

(299) 「『悪い』って言わないで!」

お仕事がベタに忙しくてなかなか更新できません。

書く時間が取れない、ということもありますが、仕事が忙しい⇒息子が起きている時間に自分が家にいる時間も少なくなる⇒結果として書くネタも乏しくなる、という状況になっていることも一因となっております。

ご寛恕賜りますようお願いします。

さて、最近、よろしくない行動を注意すると「『悪い』って言わないで!」とプチ逆切れされるようになりました。

それならば「悪い」とされる行動をせず、許容される代替行動を取るようにすれば良いのです(できるだけそのように指導しています)が、少なくとも言われた時点ではそれも拒否してくるので、結局懇々と説教されることとなってしまいます。あれこれ言い返してはくるのですが、最期はボキャ貧(死語coldsweats01)の息子が負けて泣き出したりしてしまいます。

ただ、黙って放置しているわけにもいかないし、その時はそんな状態であってもしばらく経つと多少改善していたりするので、やむを得ないかな、と思っています。

あと、(292) あいさつ運動で書いた校門での「待ち伏せ」も無くなったのですが、それがトラウマになっているのか「一番最後に(学校に)行く」と登校時間のギリギリまで家を出ようとしなくなっています。これもまあ、登校拒否にはなっていないからヨシとするか、と割り切っています。

いずれも、人との関わりに目が向いてきて、人からの評価を気にするようになってきたんだな、あるいはうまくできない自分を認めたくないという思いが出てきたんだな、と受け止めています。これも成長の証なのでしょう。

2011年12月 3日 (土)

(298) 娘の演劇発表会

今日は、年中の娘の演劇発表会でした。

息子は、「お留守番する~!」ということでしたので、家に残して妻と見に行きました。

正直、息子の時と比べると緊張感と不安感が格段に低いですhappy01 息子の場合はちゃんとできるのだろうか? できなくても最後までみんなと一緒にいられるだろうか? とあれこれ考えてしまうのですが、そういうことがないので気楽に見に行けます。元々幼稚園の先生からは「妹ちゃんは、よくできて手がかからない。それで他の子の方の指導が多くなってしまって申し訳ない」と言われているので。

実際、歌も劇もよくできていました。

今回、このような環境で見ていて気付いたのは、周囲の親御さんの「無邪気さ」でした。純粋に子供たちの成長を楽しみ、多少トチっても「可愛いねheart」と微笑ましく受け流せる姿勢を持っておられて、自分がいかにわが子にだけ注意が向かっていて、周囲の親御さんの目線を理解していなかったかを痛感することとなりました。

ただ、やはりこういう園の行事って親に対するアリバイ作りなんじゃないかな、との思いは消えませんでした。ちゃんと教育していますよ、だからこんな劇までできちゃうんですよ、という幼稚園側のアリバイ作りと、子供の成長度合いを目で確かめたいという親の欲求の相乗でこの行事が成り立っている、というのは悪意的に捉え過ぎでしょうか。

ある程度大きくなってからならともかく、幼稚園段階ですでに協同での作業ができないと後々良くない、ということは自分の経験からは想像しにくいですね。

なお、私は娘の出番が終わったところで妻を残して先に帰り、妻は近所の年長のお母さんとの付き合いもあってその子の劇を見てから娘と一緒に帰ってきたのですが、昼時になってその年長の仲良しの子と一緒に帰りたいという娘の要求を聞かずに帰ることにしたのに娘は不満だったようで、せっかく私が「上手だったねえ」と褒めたのに不機嫌さんでしたdespair

何はともあれお疲れ様でした。

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