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2011年9月15日 (木)

(276) インクルーシブについてもう少し考えてみました

教育におけるインクルーシブ(以下、「インクルージョン教育」とします)という概念について、もう少し考えてみました。正直なところ、やはりそのままでは受け入れられないという印象を持っています。

障害者権利条約第24条が根拠となっているようで、この条文においては「教育を受ける権利として『インクルージョン教育体制』の実施を初等、中等教育のみならず成人教育、生涯学習の段階においても締結国に求めている」(出典:Wikipedia「インクルージョン教育」)そうですが、自分としては、その権利は何のためにあるの? 権利の前に幸福追求に資するものかの判断が先ではないの? 権利は幸福追求の手段として行使するものであって、権利があってもそれが幸福追求に役立たないなら(仮にあっても)使う必要もないのでは? また、それが健常者側の幸福とも両立しうるの? 等々の疑問を持ちます。

特に最後の問いは重要で、道徳的な縛りをかける(=実質的な強制)と、後々「自分はお世話係をやらされた!」という被害者意識と、それに基づく新たな偏見を生み出すこととなります。これまでの先生は、面倒見の良さそうな子に無償で無限のお世話を平気で要求する傾向があり、上手な係わり方を教えられる人がいないなかでこの対応は極めて不適切であり、改める必要があることを強く感じています。

そもそも、健常児といえどもまだ子どもであって「小さい時から一緒にいる」というだけで自分の社会的な役割を意識し、率先して面倒をみようと思うようになる、というのは幻想だと思います。「きょうだい児」問題を見れば明らかで、きょうだい達は就学以前から障害のある兄弟と日常的に接している子も少なくないわけですが、では彼らがみんな兄弟の障害を受容できているかというと、残念ながらそうではありません。

何よりこのインクルージョン教育の出発点として根本的に納得できないところがあって、それは健常児側にも多様なニーズがあるであろうことを全く考えていないところです(少なくとも、私はそう受け取っています)。あたり前ですが、健常児にもものごとに対する得意不得意・好き嫌いはあって、その対応を行っていくことが望ましいのは明らかだと思いますが、インクルージョン教育では、普通学級にいる健常児はそういう個別のニーズが無い、ひとかたまりの集団として捉えられていて、障害児側にはニーズにより取り出しで対応することはあると考えているものの、健常児側についての対応についてあまり考えていないように受け取れてしまうのです。

私見ですが、そもそも障害児・健常児に限らず全ての児童がその個人としての尊厳を守りつつ、各人で異なる興味関心に従って持てる力を存分に伸ばし自己実現を図りやすくし、以って社会に貢献できる人間たらしめていく、というのが教育の目的だと思います。

この観点からすれば、ある部分では全員が揃って授業を行うにしても、全体の中に占める「ある部分」の時間の割合はかなり少ないものとなり、大部分の時間は個々の子どもの個性に合わせて取り出し等で出入りを行いながらも、総体としてはお互いの存在を尊重しあえる関係を築くことを目指すことになるだろうと思います。

とはいえ、これを実現するとなると個別ニーズの把握とその対応(特に、ニーズを細かく把握するほど対応するマンパワーも多大になる)、更に個々の子どものニーズに即した内容でアプローチできるという教育者の卓越した指導能力が必要となり、リアルにその達成ができるかというと私は懐疑的にならざるを得ません。

ただ、障害児サイドにいる立場として、子どもに配慮された環境が必要だという点は全く同意します。とはいえ、それは障害児だけではなく健常児であってもそうだという意味でですが。

よくよく考えると、うちの息子はかなりインクルージョン教育に近い環境にいる、と言えるかも知れません。障害がありながら普通学級で健常児と席を並べていますし、必要な指導は別途取り出しで受ける、即ち通級指導教室に通っているという状況からそう思います。言い換えると、通級指導教室という制度は、現在行われているさまざまな教育形態の中で、一番インクルージョン教育に近いものではないでしょうか(近さは今回問題としません)。

但し、この環境はそう簡単に得られるものではないのが現状です。少なくとも私の住んでいる地域では、知的障害が無いことが前提とされており、かつ人数も限られていて順番待ちになっています。通いたいというニーズがあるのに、それができないというのは望ましくなく、改善すべき点の一つだと思います。

そういう選抜をたまたま通った(特段、教育委員会にコネがあるわけでもありませんし、委員会の審査に向けた特訓をしたわけでもありません)息子の様子を見ると、学籍のある普通学級よりも週1回の閉ざされた通級指導教室の方に喜んで通っていて、この点は素直にありがたかったと思う一方で、インクルージョン教育とは本人の意向とは異なっていたとしても、普通学級にある程度は居させるようにする制度である、とも言えることに気付かされます。この点をどのように理解すべきか、インクルージョン教育に肯定的な方の受け止めをお伺いしたいところです。

なお、誤解の無いように申し上げますが、息子の在籍する普通学級においても、別に息子専用というわけではなく、かつ全時間ではないものの全体の補助として担任とは別に1人クラスについて頂いています。私が就学していた頃に比べれば元々のクラスの人数も少なくなっていることもあって、指導する側の厚みが増していると思うのですが、この程度では通級指導教室の方が居心地において圧勝しているようです。恐らく息子からみると、周りの健常の子の会話はネイティブの英語並みに聞き取れない内容が多くて、ついていけないしついていこうとしても疲れちゃうんだろうなあと思っています。そういう状況の下では、在籍級での仲間意識、即ち一緒にいたいという気持ちの育ちはまだまだだと思いますし、私が普通学級に在籍させる意義をあまり強く感じない理由となっています。

「いずれ社会に出ることになって、社会では個別の配慮なんて期待できない、インクルージョン教育をやっていれば障害児への社会の理解が進む」という考え方については、既に否定的であることを述べました。では、「いずれ社会に出ることになって、社会では個別の配慮なんて期待できない、だから今子どもに頑張らせなければダメだ」という主張はどうでしょうか。

ごもっともだとは思うのですが、一方でクラスのメンバーの一員としての自覚を持つ、という課題が息子にとってかなりハードルの高いものであることを目の当たりしている立場からすると、どんなに仕事スキル・生活スキルを向上させても最後はナチュラルな人との関わりができるかで引っかかるという現実があり、しかも仕事スキル・生活スキルの向上でも、個々人の能力を正確に把握した上で頑張らせることがポイントであるのに、その見極めで失敗している例を複数見てしまった経験があることから、こういう出たとこ勝負にはリスクがあることも頭に入れる必要があると強く感じています。端的には、やらせ過ぎてその子が燃え尽きた時のことを考える、ということです。

ウダウダと書きましたけど、インクルージョン教育は、マンパワーと経費の問題に加え、健常児への取り組みに対する考え方が不明、かつ普通教育側にも改善点があることを軽視している点で、やはり取り得ないと思ってしまいます。これらの諸課題を克服できれば、極めて望ましいものになるとは思っているのですけど、今の日本では難しいでしょう。

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