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2011年9月

2011年9月25日 (日)

(280) 連休での様子

連休ということで、23~24日で1泊2日の家族旅行に行ってきました。家族でお泊りで旅行に行くのは、帰省を除くと3年ぶりのこととなります。

往路、いきなり渋滞に巻き込まれました。そうすると「どうして、追越車線にいるクルマが追越せないの? 前のクルマにどいて欲しい」と言葉の意味を字義通り解釈するという自閉症の特徴そのものの反応をしてくれました(笑)。「前のクルマもその前にクルマがいるから追越せないんだよ」と説明すると、「じゃあ、来年は渋滞に遭わないようにしよう」と今から来年の計画を立てていました(どこに行くつもりだ?)。

渋滞が解消され、何とか午前中に最初の目的地に着きました。実は、遊園地とアスレチック遊具の両方があるところを狙って今回の目的地を設定したのですが、意外と体を動かすアスレチック系も喜んでやろうとするようになっていました。以前は、自分がそういうことを不得手だと自覚していることからかあまり積極的にやろうとしなかったのですが、今回は違いました。体操教室で少しずつでも体を動かすことをやってきたからかな? と憶測しています。実際、かなりやれていました。ただ、高い箱を越えるために、飛んで腹ばいになり足をかけて乗り越えるというような連続的な運動はまだまだ難易度が高いようです。

恐らく、もしかして自閉症かな? と親が不安になる主な要因は、子どもが中々言葉を話そうとしないことじゃないかと思うのですが、その時に体の動きがどうかをみることも大事だと今になって思います。昔通った特別支援学校主催のことばの教室で、なぜか半分の時間は体操だったのですが、それも今は納得しています。

もちろん遊園地でも楽しんでいて、息子は観覧車とゴーカートに乗れてご満悦でした。ゴーカートは健常のお子さんでも普通に好きだと思うのですが、観覧車は、残念ながら放送終了した「空から日本を見てみよう 」の大ファンである息子からすると、高いところから地上を見るというくもじぃの近似体験ができるところが良いのかと思われます。

かなり不安に思っていた宿泊ですが、食事が極めて実質的で息子が食べられるものが結構あったこと(これ、重要です。一般に宿泊施設だと、どうしても見てくれ重視や妙に凝ったおかずが多くなることがあって、そういうのは息子には合いません)、家族みんなでお風呂に入れたこと等からストレスを感じずに済んでいたようです。もちろん、退屈しないように学校の宿題(笑)や息子が好きなおもちゃも持っていったりするなどのことはしています。

なお、宿で「ここ、高級ホテル?」と聞かれた時はギクっとしました。高級ではないので(笑)。正直に言うだけではなく、ここはSSTの場面だと思い「そういうことは、ホテルの人に言ってはいけないよ」と釘をさしておきました。目の届かない場所ではどうだったか不明ですが、恐らくそういう危険な発言はしなかったと思います。

翌日は、多くの花が植えられている公園で午前中を過ごし、4人乗りの自転車を私と一緒に漕いだり、水で遊べるコーナーで遊んだりした後、そのまま帰ってきましたが、帰りは渋滞もなくご機嫌に帰ってくることができました。

そう言えば、公園の売店前での息子のアピールの仕方はかなり婉曲的で「ソフトクリームが食べたい」ではなく、「あのお店、ソフトクリームを売ってるよ」という言い方をしていました。それで当方が「それで? ソフトクリーム食べたいの?」と訊くと「食べたい!」と答えます。このあたりは逆に「素直に「食べたい」と言った方が良いよ」と伝えています。「言わないと分からない」ことについては、かなり前から息子に言い続けています。

結構楽しい思い出となったと思うのですが、家に帰ると、早速おもちゃ箱からプラレールを取り出して並べ始め、あっという間にいつもの日常に戻ってしまいました。今回の連休での経験が、息子の成長につながると良いなと思っています。

閉口したのは、妹としょっちゅうケンカをしていたこと。双方譲らずかなりうるさくて困ることも多かったのですが、これも小さな社会勉強だと割り切って両方ともに味方をすることなく、都度都度に何が原因か、どうすれば良かったかをお話ししました。理解しているかは不明ですけどconfident

2011年9月20日 (火)

(279) 障害者支援の行く末を案じる

高名なブロガーであるちきりんさんの日記(Chikirinの日記)の中で、「どっちの破綻が早い? 生活保護と年金」(http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20110821)というエントリがあり、興味深く読ませて頂きました。

読み終わってふっと思い至ったのは、それでは息子達障害者への支援はどうなるだろうか、ということです。もっと言うと、今後段々財政が厳しくなっていくに従い、確実に切り詰められていく方向にしか進まないだろう、でも一方で障害者が消えて無くなるわけではないし、世界の流れから見て何もしないということも許されないだろう、ではどうなっていくんだろうか、と。

ちきりんさんのエントリで「ああなるほど」と感心したのは、年金は国家公務員も加入している、ゆえにそう簡単にはつぶされない、一方で生活保護はどうか? という切り口です。年金制度維持について、最後は支給開始年齢を上げ続けるという強引な手段があることは自分でも思いついたのですが、年金制度維持には官僚の利益もあるからそう簡単にはつぶされない、という視点は無かったです。

この伝でいくと、官僚の子弟に障害者がたくさんいれば、その支援の削減も行われにくく、必要な予算金額の削減圧力も緩やかになると思われますが、それは現実ではないであろうこと、しかも、障害者はマイノリティで選挙の票数も期待できない声の小さな存在であり、政治家を動かすことも難しいことから、障害者への支援は減る方向にしか動かない、とかなりの確度を以て推測されます。

こうなると、生活保護についてちきりんさんが書いていたのと似たような感じで、障害者収容施設というものができるのかも知れません。現金ではなく、最低限の衣食住だけ提供します、嫌なら外に出て頂いても結構ですが、その際は自助努力でお願いします、というような感じになってしまうのではないかな、と。

山本譲司さんの「獄窓記」や「累犯障害者」で問題点を指摘されていますが、刑務所が障害者の事実上の収容施設になってしまっている実態があり、娑婆に出ても仕事も何の援助も無く、軽微な犯罪を繰り返して警察のご厄介になり刑務所で人生の大半を過ごすという哀しい生きる術に頼らざるをえない人の存在が確実にあって、これを何とかしなければいけない、という気にはなります。ある意味、犯罪を犯さなくても堂々と入れる施設ができるのだから良いじゃないか、という意見もあると思うのです。

自分としては「何かが違う」という思いと、「現実を見ろ」という思いが交錯して結論が出ませんが、健常者でも生きることが大変になってきた時代の中で、どのような方策があるのか、もっと社会と障害者がWin-Winの関係を築ける仕組みはないのか、について考えるとともに声をあげていかないと、という思いがあります。

2011年9月19日 (月)

(278) もし海洋天堂に続編ができるなら

先日、妻も渋谷で公開されている海洋天堂を観に行きました。やはり感動したと申しております。

この映画を見た私の感想は(255)(256)(257)(258)に書いた通りですが、今回妻が観るまでの間には1ヶ月半くらいの時が経過しております。この間に自分の中でこの映画のどこに「アッサリ感と裏腹のちょっと物足りない感」を感じたのかがわかるようになってきましたので、今回はそれを書いてみたいと思います。

当然のことながら、以下の文章は映画を見てその内容を一通り知っていることを前提に書いておりネタバレ満載なので、この先を読まれる方はこの点ご留意下さい。

この映画において、ジェット・リー演じる父親の大福が心配で心配で仕方がないという気持ちは極めて明快に伝わってくるのですが、では父親は「心配」だけだったのだろうか? という疑問があります。

僭越ですが、長く一緒に生活してきた中で感じてきた「家族としてのありふれた愛情」というものがあったはずで、彼が映画の中でそれをもっと率直に表現できるようなシチュエーションがあっても良かったのではないか、という思いがあります。

具体的には、彼に雑貨屋のオバちゃんに対して「自分は父親だから責任がある」という台詞を言わせるのなら、他の人に対しては「責任だけじゃない、心配だけじゃない、ずっと可愛く愛おしく思っていた」と言うシーンがあっても良かったのではないかな、と。

もしかしたら、死期が近いことを医者から知らされる前には、時にはそういう気持ちを取り戻す余裕もあったのかも知れません。また、この状況に移行した後ではそんな余裕もなくなって、父親の意識の表層まで現れることもなくなってしまったのかも知れません。ただ、障碍児の父親としての人生、その全てが息子への心配だけだったのか、傍から見れば「大変」「気の毒」なだけのものだったのか、を考えると、それだけではなかったはずだと(自らのこれまでの短い障害児父親生活から)確信しています。

特に、泳ぎが得意のはずの母親は水死…要は死に逃避して、大福の養育を男手一人でやらざるを得ないという状況であったのであればこそ、その運命と戦い続けた男のストイックさだけでなく、思いをどこかでしゃべってもらいたかった、その相手としてうってつけのキャラが出演していたのに…という思いがあります。

そのキャラとは、大福が通っていた療育施設の元園長です。この人が大福の終の棲家をお世話するだけでほとんど父親と会話をしていないのは極めてもったいないと思います。雑貨屋のオバチャン、しかも自分に好意を寄せている女性に対しては「責任」という(エーカッコシイな)言葉で答えざるを得ないとしても、おそらく幼少の頃からの父子のすべてを知っている元園長との久々の、そして双方とも命の灯火が消えかけていて恐らくは最後の会話となるであろうことが分かっている状況で、父親のこれまでの人生を総括するような会話をさせてやっても良かったのではないでしょうか。

次いで療育施設の元園長には及ばないものの、水族館の館長というキャラも、やはり大福を幼少期から知っているであろうし、さらに職場でも一目置かれるような立場である大福の父親(だからこそ、プールとして使わせることも許していたと憶測しています)との長い男同士の付き合いがあったであろうことから、この館長と思い出話をするようなシーンがあっても良かったかなあ、と思います。

少なくとも雑貨屋のオバチャンにはどうしても入り込めない、共有した時間の長さに基づく話は絶対にあって、元園長や館長なら分かってもらえることってすごく多いと思うんですよね(特に元園長には)。確かに、それにトロみがつくほど濃厚に語り合わせては映画の雰囲気がガラッと変わってしまって、監督の思いに合わなくなる可能性があったのかも知れませんが、でももうちょっと入っていても良かったんじゃないかなあ、と思うのは私だけでしょうか?

あと、細かいですが、冒頭の入水自殺の直前に、今生の思い出として大福に好きな食べ物(ゆで卵とアイスではちょっと不向きですがw)を心行くまで堪能させてやったり、いざ、という直前に既に亡き母親も含めて3人で写った写真を取り出して見て「今から、そっちに行くぞ」とつぶやくとか、そういう父親の家族への思いを表現するシーンがあっても良かったかなあと。

ブッチャケ、先立った妻に早く会いたいと思っていたのか、それともギリギリで踏みとどまったものの雑貨屋のオバチャンの好意を受け入れそうになるほどに妻が既に過去の人に成り下がっているのか、更には「勝手に自分だけラクになりやがって」と恨みに思っていたのか…それは本題と外れるのかも知れませんが、父子関係にスポットが当たり過ぎで家族全体はどうだったのか、父親がどう思っていたのかが分からないままなのが、どうしても消化不良感を感じさせるように感じます。

よくある、「海洋天堂外伝」とか「それからの大福」と銘打って続編を作るとしたら、このあたりに焦点を当ててもらいたいなあと思います。

2011年9月17日 (土)

(277) 食べ物

重い話の後は、ちょっと軽いお話を・・・というわけではないのですが。

息子が餃子と桃を食べるようになりました。

もともと偏食が多く、ニラ単体はなぜか食べていたものの餃子はダメ、桃も嫌って食べなかったのに、ある時興味を持って「食べてみる」と言い出し、食べたら「おいしい~!」と感想を述べたのでこちらもビックリ。

まあ、こうやって段々食べられるものが多くなっていくのでしょう。食卓が広がっていくことは息子にとっても食事での楽しみが増えるということで素直に喜んでいます。

とはいえ、まだ刺身はダメ、よって寿司もアナゴ・タマゴ・稲荷以外はダメ、という傾向はまだあったりします。幼児期に、イクラは食べていたんですけど、今は全然ダメです。

偏食に悩んでおられる方も多いと思いますが、最後は、「今はまだ機が熟していないだけ。最低限の栄養を摂っていれば、直ちに命に関わることもあるまい」と大らかにみることが大切かな、と申し上げます。食事の時間を嫌いになる方が後々よろしくない、と言われますし。

足りないと思われる栄養素を含む食べ物は他にもありますし、ハンバーグに練りこんじゃう、ジュースに混ぜ込む等で様子を見ても良いかと。

2011年9月15日 (木)

(276) インクルーシブについてもう少し考えてみました

教育におけるインクルーシブ(以下、「インクルージョン教育」とします)という概念について、もう少し考えてみました。正直なところ、やはりそのままでは受け入れられないという印象を持っています。

障害者権利条約第24条が根拠となっているようで、この条文においては「教育を受ける権利として『インクルージョン教育体制』の実施を初等、中等教育のみならず成人教育、生涯学習の段階においても締結国に求めている」(出典:Wikipedia「インクルージョン教育」)そうですが、自分としては、その権利は何のためにあるの? 権利の前に幸福追求に資するものかの判断が先ではないの? 権利は幸福追求の手段として行使するものであって、権利があってもそれが幸福追求に役立たないなら(仮にあっても)使う必要もないのでは? また、それが健常者側の幸福とも両立しうるの? 等々の疑問を持ちます。

特に最後の問いは重要で、道徳的な縛りをかける(=実質的な強制)と、後々「自分はお世話係をやらされた!」という被害者意識と、それに基づく新たな偏見を生み出すこととなります。これまでの先生は、面倒見の良さそうな子に無償で無限のお世話を平気で要求する傾向があり、上手な係わり方を教えられる人がいないなかでこの対応は極めて不適切であり、改める必要があることを強く感じています。

そもそも、健常児といえどもまだ子どもであって「小さい時から一緒にいる」というだけで自分の社会的な役割を意識し、率先して面倒をみようと思うようになる、というのは幻想だと思います。「きょうだい児」問題を見れば明らかで、きょうだい達は就学以前から障害のある兄弟と日常的に接している子も少なくないわけですが、では彼らがみんな兄弟の障害を受容できているかというと、残念ながらそうではありません。

何よりこのインクルージョン教育の出発点として根本的に納得できないところがあって、それは健常児側にも多様なニーズがあるであろうことを全く考えていないところです(少なくとも、私はそう受け取っています)。あたり前ですが、健常児にもものごとに対する得意不得意・好き嫌いはあって、その対応を行っていくことが望ましいのは明らかだと思いますが、インクルージョン教育では、普通学級にいる健常児はそういう個別のニーズが無い、ひとかたまりの集団として捉えられていて、障害児側にはニーズにより取り出しで対応することはあると考えているものの、健常児側についての対応についてあまり考えていないように受け取れてしまうのです。

私見ですが、そもそも障害児・健常児に限らず全ての児童がその個人としての尊厳を守りつつ、各人で異なる興味関心に従って持てる力を存分に伸ばし自己実現を図りやすくし、以って社会に貢献できる人間たらしめていく、というのが教育の目的だと思います。

この観点からすれば、ある部分では全員が揃って授業を行うにしても、全体の中に占める「ある部分」の時間の割合はかなり少ないものとなり、大部分の時間は個々の子どもの個性に合わせて取り出し等で出入りを行いながらも、総体としてはお互いの存在を尊重しあえる関係を築くことを目指すことになるだろうと思います。

とはいえ、これを実現するとなると個別ニーズの把握とその対応(特に、ニーズを細かく把握するほど対応するマンパワーも多大になる)、更に個々の子どものニーズに即した内容でアプローチできるという教育者の卓越した指導能力が必要となり、リアルにその達成ができるかというと私は懐疑的にならざるを得ません。

ただ、障害児サイドにいる立場として、子どもに配慮された環境が必要だという点は全く同意します。とはいえ、それは障害児だけではなく健常児であってもそうだという意味でですが。

よくよく考えると、うちの息子はかなりインクルージョン教育に近い環境にいる、と言えるかも知れません。障害がありながら普通学級で健常児と席を並べていますし、必要な指導は別途取り出しで受ける、即ち通級指導教室に通っているという状況からそう思います。言い換えると、通級指導教室という制度は、現在行われているさまざまな教育形態の中で、一番インクルージョン教育に近いものではないでしょうか(近さは今回問題としません)。

但し、この環境はそう簡単に得られるものではないのが現状です。少なくとも私の住んでいる地域では、知的障害が無いことが前提とされており、かつ人数も限られていて順番待ちになっています。通いたいというニーズがあるのに、それができないというのは望ましくなく、改善すべき点の一つだと思います。

そういう選抜をたまたま通った(特段、教育委員会にコネがあるわけでもありませんし、委員会の審査に向けた特訓をしたわけでもありません)息子の様子を見ると、学籍のある普通学級よりも週1回の閉ざされた通級指導教室の方に喜んで通っていて、この点は素直にありがたかったと思う一方で、インクルージョン教育とは本人の意向とは異なっていたとしても、普通学級にある程度は居させるようにする制度である、とも言えることに気付かされます。この点をどのように理解すべきか、インクルージョン教育に肯定的な方の受け止めをお伺いしたいところです。

なお、誤解の無いように申し上げますが、息子の在籍する普通学級においても、別に息子専用というわけではなく、かつ全時間ではないものの全体の補助として担任とは別に1人クラスについて頂いています。私が就学していた頃に比べれば元々のクラスの人数も少なくなっていることもあって、指導する側の厚みが増していると思うのですが、この程度では通級指導教室の方が居心地において圧勝しているようです。恐らく息子からみると、周りの健常の子の会話はネイティブの英語並みに聞き取れない内容が多くて、ついていけないしついていこうとしても疲れちゃうんだろうなあと思っています。そういう状況の下では、在籍級での仲間意識、即ち一緒にいたいという気持ちの育ちはまだまだだと思いますし、私が普通学級に在籍させる意義をあまり強く感じない理由となっています。

「いずれ社会に出ることになって、社会では個別の配慮なんて期待できない、インクルージョン教育をやっていれば障害児への社会の理解が進む」という考え方については、既に否定的であることを述べました。では、「いずれ社会に出ることになって、社会では個別の配慮なんて期待できない、だから今子どもに頑張らせなければダメだ」という主張はどうでしょうか。

ごもっともだとは思うのですが、一方でクラスのメンバーの一員としての自覚を持つ、という課題が息子にとってかなりハードルの高いものであることを目の当たりしている立場からすると、どんなに仕事スキル・生活スキルを向上させても最後はナチュラルな人との関わりができるかで引っかかるという現実があり、しかも仕事スキル・生活スキルの向上でも、個々人の能力を正確に把握した上で頑張らせることがポイントであるのに、その見極めで失敗している例を複数見てしまった経験があることから、こういう出たとこ勝負にはリスクがあることも頭に入れる必要があると強く感じています。端的には、やらせ過ぎてその子が燃え尽きた時のことを考える、ということです。

ウダウダと書きましたけど、インクルージョン教育は、マンパワーと経費の問題に加え、健常児への取り組みに対する考え方が不明、かつ普通教育側にも改善点があることを軽視している点で、やはり取り得ないと思ってしまいます。これらの諸課題を克服できれば、極めて望ましいものになるとは思っているのですけど、今の日本では難しいでしょう。

2011年9月11日 (日)

(275) 通級指導教室も始まりました

先週から通級指導教室も始まりました。

1学期の通級開始当初はどうしようかと思っていたのですが、結果として妻よりも私が送っていくことが多くなっています。我が家の場合、妹がいることから息子を通級指導教室まで送るか、または妹を幼稚園バスの乗り場まで送るか、のいずれかの作業をどちらかがやらなければなりません。私がどちらを取るかというと、通級指導教室の学校まで送ってそのまま出社する方が(ちょっとですが)効率的なので、そうなることが多いです(とはいえ、勤務先の役員の都合で早出が必要な時もあったりして、その場合は何とかやりくりすることもあります)。

幸いなことに、通級に通うことは本人にとっても楽しいことのようで、結構歩く距離もあるのに全く嫌がらずに通ってくれるので、この点はホッとしていますhappy01

2学期最初の通級指導教室では、教室のメンバーが一人ずつ前に出て夏休みの思い出についてスピーチすることになったようです。息子は、私としたセミ取りのことを発表したそうです(迎えに行った妻が帰りがけに先生から教えてもらったとのこと)。この夏休みでは、妻の里の祖父母のところに妹と帰省して2週間ほど滞在し、海や水族館に行ったりもしていたのですが、それよりもセミ取りの方が楽しかったのか、と意外感を覚えるとともに、まあそんなありふれた係わりでも息子にとっては大事な思い出になったんだなあ、少しは自分も役に立ったんだなあと嬉しく思いました。

なお、(245)で既報の通り、2学期から新しく通級指導教室のメンバーとなった子がいるのですが、彼らとも特段問題なく一緒に過ごすことができたようで、やれやれと思っています。

なお、息子を引き渡した後、夏休み中の行動で気になる点についても報告しています。端的には、受容タイプから積極奇異タイプになりつつあるのではないかと思われる振る舞いが散見されたことをお伝えし、ちょっと心配していることや指導の際にご留意頂きたいと思っていることをお話しました。

なお、登校中には交差点では一旦立ち止まって左右を確認する、道を歩いていて後方からクルマが近寄ってきたら避ける、通りがかりのお年寄りが「おはよう」と声をかけてくれたら「おはよう」とご返事する、等のまさにSSTも実地に教えています。少しずつでも良いから身について欲しいな、と思っています。

2011年9月10日 (土)

(274) 正統派の弱み

自閉症およびそれに関連する障害について「脳の器質的な障害であって治療して治すことはできない。ただ、療育によってより良い(まだマシな)社会適応をすることはできる」というのが通説であり、こちらが正統派とされています。

通説を平たく言えば、「脳の基本構造が違うんだから、それを手術や投薬等によって普通の人と同じような脳に作り変えることはできない。ただ、脳がその基本構造のままであっても、療育で情報の伝え方を調節しつつ本人に学ばせることによって、今よりはマシな対応ができるようにすることはできる」ということになり、これに従って親は早期から療育に勤しむことになるわけです。

これに対して、ある種の化学物質が脳の正常な働きを阻害しているもしくは○○が足りないことが原因なのであって、それを取り除くあるいは摂取することで健常児のような状態を取り戻すことができるんだ。学会で認められてはいないけれど、やってみる価値はありますよ、という主張や、脳は可塑性があるんだから、やり方によっては健常者と同じような脳の構造に変わることもあるんだ。ある人は○○をやったら調子が良くなったと言っていた。それはまだ科学的に検証されていない方法ではあるんだけど、とにかくやってみよう! というような趣旨の主張を見かけることがあります。

もし、通説のやり方でも、地道に努力すれば健常者と同じような脳の構造に変わり、更に訓練すれば全く普通の子のようになる、ということであれば、あえて検証されていないやり方に手を染める人はいないと思います。ところが、通説では、そんな素敵なことは言ってくれません。これが正統派の弱みであり、この弱みこそが通説ではない方法をやってみようという誘惑にかられる根源であると思っています。

もちろん、通説ではないやり方が実はものすごく画期的な方法で、たまたま検証が追いついていないだけで、未来では極めてオーソドックスな方法になっている、という可能性はゼロではありません。でも、やっぱり検証されることはなく、消えていく可能性もゼロではありません。折衷して両方をやる、という選択もあるでしょう。ただしそれは、両立できるのであれば、という条件付ですが。

当家の場合、自閉的な傾向を示すことは結構あるものの、それに絡む他害・自傷・奇声等のいわゆる問題行動があまり無く、かつ知的障害も(今のところ)無さそうという状態であることから、あえて珍奇なものに手を出さずとも、通説のやり方で必要十分だと判断しています。でも、そうでないお子さんをお育てになっている方の中には、一発勝負に出てみたいという方が出てくるのも、心情としては理解できます。

ただ、その一発勝負の結果を受けるのは子どもです。これは動かしがたい事実です。しかも、一発勝負に出ている間、地道なやり方を放棄してしまっていれば、地道にやっていれば進んでいただろう発達に相対的に遅れが出るかも知れません。そういうリスクを負うのは子どもです。

「それが子どものためだ」という考えを、丁寧に問い直すことは大事だと思います。リスクを負うことまでも子どもが本当に望んでいるのか、そこに自分が子育てに辛いからという自分の利益が混ざっていないか、周囲や義両親から白い目で見られたことによるリベンジ心がないか等等、親として胸に手を当てて考える必要があろうかと。

もし、これが生死に関わることならば、それをやることによる苦痛の度合いも勘案しつつ検討することとなり、苦痛が少ないことを前提に「やむなし」でやることを選ぶかも知れないとは思うのですが、発達障害を直接の原因として死んだ、ということは寡聞にして知りません。

最後は個々のご家庭の判断に収斂する問題ではありますが、人体実験とどう異なるのかは親として自問すべきテーマだろうと。少なくとも、通説以外を唱える方は、それを生業としているわけですから。

2011年9月 3日 (土)

(273) 2学期が始まって

2学期が始まりました。

朝は相変わらず起きるのが遅くて、妻とバトルすることとなっています。大体、前の晩にもう少し早く寝れば良いのに(実際、「早く寝なさい」とは言っているのですけど)よく分からない質問をぶつけてきたりして寝ようとせず、力尽きて寝るのは11時近くになってからで、それでは眠いに決まっていますよね。

それでも、2日間普通に通学しています。来週からは通級指導教室も始まる予定です。今学期から入る新しいお友達がいるそうなので、そのクラスの変化についていけるか多少心配ですが、こちらは何とかなるだろうと思っています。

毎日日記を書かせており、その成果か記憶の時間配列がかなり上手になってきました。また、日々のできごとで印象に残ったことを発表形式で教えてくれるようになっています。

普通の学習面では、繰り下がり算数(ex.124-27)も分かっているようで、字が下手なのは相変わらずですが漢字も書けており、当面まだいけそうかな、と感じています。

ゆっくりと着実に進んでいく息子を一歩引いて見守っていきたいと思っています。

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