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2011年7月16日 (土)

(256) 海洋天堂を観て(印象編)

前回はどうでもいいかも知れない外堀部分について書いてみましたが、今回は映画全体を通じた印象を書いてみたいと思います。

この映画は、自閉症に限らず、障害を持つ子の親ならば誰もが頭の片隅に置いているテーマ「自分が死んだ後、この子はどうなる?」を最良のものとするために残り少ない命の灯火をかかげて苦闘する父親を描いています。しかも、その21歳になる息子は、特段の才能も無く身辺自立もできていない、コミュニケーション能力も低い状態です。

こういう状況に対して、私達(とひとくくりにされるのが心外な方もおられるかも知れませんが)障害児の親は「いずれうちもそうなるかも」との思いを持たれると思います。一方で大多数の健常児の親・健常者にとっては、遠い世界のお話だとしか感じられないでしょう。

もちろん、健常児の親・健常者も「今の日本だったら、そういう障害児はどこかの施設に引き取られて生活していくんじゃない?」というくらいの想像はされることと思います。ただ、失礼ながら彼らの言う「障害児」は、概念に近いものになるだろうことは否めません。普段接していない以上「障害児」という抽象的なイメージになってしまうのもやむを得ないことでしょう。一方で私達は障害児を「一人ひとり異なる個性を持った生身の人間」として常に感じており、その一番近いリアルな例として自分達の子供を見ていることに気づきます。

このリアル感の差はかなりあるだろうと思っています。私達の思考は、「今の日本だったら、そういう障害児はどこかの施設に引き取られて生活していくんじゃない?」では止まりません。「「どこかの施設」ってリアルにどこにあるの? 一度は見て確認しておきたいんだけど」と思ってしまうとか、「きっとそういうところも空き待ちの状態だろう」と話を聞きに行く前から取り越し苦労してしまう、ということとなります。

前回、映画館が結構空いていたと書きましたが、身近でない内容について興味を持たない、深く考えないのは人間として自然なことですし、そういうテーマを扱った映画を敢えて時間と金を掛けて観たいかというと、残念ながら大いに疑問です。よって、このままこの映画をゆったり観られる状況が続いてもしょうがないとは理解するものの、忸怩たる思いを抱かざるを得ません。

ここで、興行成績や視聴率を考えれば、かつて同じく自閉症を取り上げた「レインマン」に顕著ですが、特殊能力で一発逆転というショー的な内容に傾くことになります(この映画を批判しているわけではありません。ある意味障害者にも非凡な能力がある人がいることを示した点では評価しています)。これと似たようなお話として、キラキラ差別があります。

キラキラ差別とは、24時間テレビに顕著なのですが、この番組では毎年恒例のように障害者を取り上げています。ただ、非凡な能力を持つか超前向きに頑張っている人だけにスポットがあたっており、それ以外の障害者の存在には注目されないこと、更にはそういうがんばりをしている人だけは名誉健常者(かつて南アフリカのアパルトヘイトで日本人が名誉白人として扱われていたことの類例)として社会に受け入れてやってもよい、という社会の風潮に対する懐疑・批判です(そう言えば、もうすぐ24時間テレビの季節ですね)。今回の震災でもピアノを弾く自閉症の子が取り上げられたことがありましたが、そうでない子はどうなんだ? という書き込みを見たことがあります。この「キラキラ差別」というテーマはtwitterでも話題になりましたが、実際はそうじゃない大多数の障害者がいて皆それなりに生きているという事実は、あたり前であるがゆえに人々の意識の上にのぼりにくいのが実態です。

この大多数に属する障害者の唯一の保護者の余命がそう残っていない、というかなり絶望的な状況を淡々と描いているのが、この作品の新しい切り口だと思います。

内容は本当に淡々としています。劇的なクライマックスシーンはありません。むしろそういう派手な表現を排除し(と言っても、多少の騒動はあるわけですが)、それでいて障害児の親から見れば自然に受け止められるいつもの生活シーンがふんだんに収められています。はしばしにちりばめられた自閉症児の行動の特徴、これも私は慣れっこになっているので(自分の子だけではなく療育先で会うよそのお子さんもそれなりに見ていますし)スッと受け入れて見ていましたが、逆にそういう経験の無い方から見れば気になるところかも知れません。

全体を通じコバルトブルーの映像が観るものの心を沈静化させ、ある種の諦観を感じさせます。父子の日常の生活を描きつつ、残り少ない日々に息子に伝えなければならないことを必死に教えようとする父の姿と、自閉症ゆえにそれに応える術を知らない息子の姿が、せつなさを際立たせています。その時が来るまでのあらん限りの努力と思いが観る者の心を確実に揺さぶり、人に愛とはどのようなものかを温もりとともに伝えてくれる、そういう希少な映画だと思います。

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