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2011年6月

2011年6月29日 (水)

(251) みんな仲良く

障がい児の親ってそもそもマイノリティなのに、マイノリティであれば手を携えて支えあうべきなのに、その少ない中でも主義主張によって相容れない仲になってしまう例って結構あるなあと思っています。

どうしてなんでしょうね。みんな理解者を求めているはずなのに、理解を求めるからには自分も理解する必要も出てくるというあたり前のことがわからないのかなあと暗澹たる気持ちになっています。

特に組織を持ったりすると、いつの間にか組織の維持拡大が主眼となってしまって、気がついたら所属している個々の構成員のことが置き去りになったり、過度の締め付けが行われたりと本末転倒のように受け取られる例も聞きます。

障がい児もいずれ成人する時が来て、療育を卒業する時が来ます。そうなると社会のどこかで生きて行かなければなりません。こう考えると療育も手段であって目的ではなく、療育への考え方の違いで波風が立つのは目的と手段を取り違えているような感覚に囚われます。

これって私だけなんでしょうか・・・

2011年6月27日 (月)

(250) 節電の影響

風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざは、「ある事象の発生により一見すると全く関係の無いような思わぬ所・物事に対して影響が出ることの例え」だとされますが、「地震が起これば発達障がい児の集中力が削がれる」事態は現実としてあります。うちの息子の例ですがcoldsweats01

息子の通う小学校にはエアコンが設置されてはいます。でも、まだビニールカバーが被せられたままです。先週からかなり暑くなる日が出てきているものの、教委から学校に対しては30℃を超えるまではエアコンを使わないよう節電要請の文書が出されているそうで、まだ昼過ぎにならないと30℃を超えないことから、結局あと1時限くらいなら我慢できるという発想からなんだろうと憶測しますが、結局エアコンの恩恵を受けられないままにいます。

元々暑がりで汗かきの息子としてはやはり集中力が途切れてしまうことがあるようで、これは何とかならないかなあと思うものの、エアコンのスイッチを入れるについても学校全体としての判断が求められることから、やむなしなのでしょうねえ。

ただ、これは地震が起こった直後には想定外だったものの、福島第一原発の水素爆発が起こった頃には今年の夏は絶対に電力が厳しくなることが予想でき、この事態もうっすら想像していました。だからといって、どうにかできるものでもなかったのですが。

これから暑さも深刻化していきますし、更に想定外のことが起こらないか心配しています。でも、自分達が子どもの頃はエアコンなんて学校には無かったんだし、という気持ちがちょっとだけあります。

2011年6月26日 (日)

(249) 偏見って(続)

偏見ということを突き詰めて考えれば、親もやはり偏った見方をしていると前回書きました。
ネット辞書の大辞泉によれば偏見は「かたよった見方・考え方。ある集団や個人に対して、客観的な根拠なしにいだかれる非好意的な先入観や判断。」だそうです。この言葉には単純な偏りだけを言う場合とそれに伴う「非好意的な先入観や判断」を言う場合とがあり、大抵は後者の部分について親が過敏に反応してしまうのでしょう。

ある状況になるとパニックを起こすことが多い子に対して、あらかじめそういう状況にならないように配慮をすることは偏った見方ではありますが、非好意的な判断をしていませんので偏見ではありません。また、発達検査の時に、普段ならできていることができずにいるのを目の当たりにして、「今日は調子が悪いんです。いつもならできているんです」と言いたくなるようなこともよくあるかと思いますが、そのような抗弁で検査者が点数を甘くすることはまずありません。検査者は「そういうことも含めての能力ですから」と取り合わないでしょう。これは親と検査者の立ち位置の違いであって、そもそもどちらも偏ってはいないのです。

言葉遊びのように受け取られるかも知れませんが、親の側でも「好意的」という自身の都合のよさで判断して偏見だと言ってしまっていることは、常に頭の片隅に留めておく必要があると思います。

「世の中には社会常識というものがあって、それは守るべきものであり、逸脱しているものは非難される」という社会常識がある以上、ここを変えるエネルギーが莫大に必要になるだろうと思われること、他の逸脱者に対しても仲間意識を持てるのか自信がないこと、加えてこの社会常識によって非難されるにしても一定レベルに抑えられているというパラドキシカルな一面があることを考えると、私はなかなか偏見と戦う決意を固められません。

このあたりが、「斜に構えて」しまうところなのでしょうが。

2011年6月23日 (木)

(248) 偏見って

よく、「障がい児(者)への偏見を持たないで!」というような親御さんの書き込みを見たりします。でも、これはもう少し詰める必要があると思います。

障がい児だから、○○するんじゃないの? ○○できないんじゃないの? と予断を以って判断することを偏見とするならば、それは過去見聞きした事実を忘れて、目の前の障がい児だけを見て判断してくれ、ということになると思います。でも、それを主張するならば、親の側も同じことをしていないとおかしいですよね? 端的に言えば、親は自分の子を本当に偏り無く見ているでしょうか? 親自身、その子の過去の実績から離れて見られる人はそうそういないでしょう。療育をする時に、まっさらな状態では最適なプログラムも組めませんし。

こういう矛盾点に気付かないと、いくら言っても誰も耳を傾けてくれません。自戒を込めて言えば、私達親は、自分の子どもが何かやっていても悪く取らないでくれ、奇異な行動には理由があることを理解してくれ、ということを偏見を持たないでと言い換えているだけだと思うのです。表立っては異論をさしはさむ人もいないと思いますが、言われた側もこういう矛盾にはウスウス気付いてしまっていますし、それなのに完全に理解してもらえるということは、恐らく無いでしょう。

人間は学習したことを用いて新しいことに取り組む、つまりある程度予断を以って取り組む方が普通なのですから、偏見を持つなと熱く語るよりも、偏見を持つ方が自然だと受け止める方が現実に即していると思います。だからこそ、それを前提に偏見を持つことを責めるのではなく率直に話し合える雰囲気作りの方がはるかに有益だと思います。

子どもの療育で思いを受け止めることの大切さはよく説かれますが、そういう姿勢は療育だけでなく社会の理解を促進するためにも有益ではないでしょうか。

そんなことを思わないで、ではなく、どうしてそう思うの?と反語ではなく素直に教えてもらうことから始めていくことが大切だと考えるようになっています。

2011年6月21日 (火)

(247) 学校であったことを話す

息子には、学校で何があったのかを聞くようにしています。

給食に何が出たのか、食べられたのか、おいしかったのか、昼休みに何をしていたのか、先生に何か言われたことはないのか、等々を聞くと、最近は結構きちんとした文脈でお話してくれるようになりました。

正しい順番で記憶して起こったできごとを言葉にして話すのって、言葉がまだ怪しい息子にとってはかなり難易度が高いだろうと思うのですが、まあまあ身についてきたなと思います。

ただ、ちょっと気を抜くと「E233系電車は中央線快速で…」と自分の好きな世界の話が始まっちゃったりもするので、その点はまだまだではありますけどcoldsweats01

言葉が遅くて絵本の読み聞かせをやっていた頃のことを思えば、話してくれるだけで喜ぶべきなのかも知れませんが、親は欲深いものだなあとつくづく思います。

2011年6月19日 (日)

(246) 思い出話

今日、昼に家族でイオンに買い物に行き、フードコートで昼食を食べました。

その時、隣のテーブルで1歳半くらいの子どもとそのお母さんのバトル(笑)が繰り広げられていました。バトルの趣旨は簡単で、自分でスプーンを使って食べたがる子どもとボロボロこぼされて困ってしまいスプーンを取り上げようとするお母さんのせめぎあい、ということです。

家の中ならともかく、外だと床にこぼしたものの始末にも困りますし、そのお母さんの気持ちは非常によくわかります。でも、スプーンを取り上げられた子は泣くし、口元にご飯を差し出されても意地でも食べないぞ、とばかりの徹底抗戦の構えで隣のテーブルは大騒ぎになっていました。

幸い、周りも似たような世代(大体フードコートってそんなところですよね)なので、特段揉め事になることもありませんでしたし、うちの娘もそう言えばそうだったなあと思い出したりしました。ただ、次に妻が「息子の方は、ああいうこと無かったね」とつぶやいた時に、ちょっと不意を衝かれたような感覚に包まれるとともに、ああなるほどと思いました。

何で自分で食器を持とうとしないのかを個人的に想像してみました。要は自分の意思は自閉系の子にもあるのでしょうけど、それを示す方法がわからない、ということと、大人と同じようにスプーンを使う動作を真似できない(真似が下手)ということの合わせ技で自発的にスプーンを持とうという行動をしなかったのではないか、と思い至りました。

こんなところにも自閉の一端が表れていたらしいことに、今更気づいても遅いんだけどと苦笑せざるを得ませんでした。当時は全然問題視していませんでしたから(この想像の真偽は不明です、念のため)。

今は、自分のやりたいことも言うようになっていますが、まだまだ言い切れずに不愉快になって収拾がつかなくなってしまうことも少なくありません。それでもかなり改善したと思うべきか、先が長いと気を引き締めるべきか、おそらくその両方とも間違っていないだろうと思っています。

2011年6月18日 (土)

(245) 通級指導教室の増員

通級指導教室は、通学校とは別の小学校にあるので、朝は私が送っています。

今週いつものように連れて行ったら、引渡しの時に先生から「2学期からお友達が2名増えることになりました」と言われました。

こちらとしては、「そうですか」としか言いようがありませんが、そのようなことでもあれこれ考えてしまいます。

妻によれば、通級教室に通うには判定をパスする必要があり、それ自体は毎月行われているとのこと。一方で、パスしても空き待ちになるという情報もあり、そんな中で新しく入ってくるお子さんがいるのは、かなり狭い門を通過してくるんだな、という思いと、単純に申し込み時期の問題だろうか? うちは空き待ちじゃなかったけど、もしかしたらうちの子はより支援が必要だと判断されて先に通わせてもらえていて、ある程度落ち着いたので更に軽い子も入れるようにしたのかと深読みしたりと、傍から見たら「くだらない」の一言で片付けられそうなことをごちゃごちゃ考えてしまったりします。

まあ、何はともあれ新しい子が増えて少し学級らしい形になることは悪くないと思っていますので、その後の展開がよりよいものとなるよう期待しつつ見守りたいと思います。

その前に夏休みもあるし、その間に通級のことすら忘れてしまわないかという心配もあるんですけどねcoldsweats01

2011年6月14日 (火)

(244) 映画「海洋天堂」に関わり感じること

当ブログにもブログパーツを貼らせて頂いている映画「海洋天堂」の普及にいそしむべく(笑)何人かの友人に声をかけたりしていますが、その時の相手方の反応を見るとやっぱり自分とは異なるものを感じます。

結局は、障害のある子どもという存在に対する立ち位置の違いが顕著に現れると受け止めています。これを率直に表現すれば、「この世のどこかにそういう子どもが存在していることは知っている。だけど、身近じゃないし自分達の住む世界とは別世界のお話のようにしか感じられない。ゆえに、興味はあるけど重い内容だと受け止めきれないし、できればあまり関わりたくない」といった感じでしょうか。

確かに、大多数の健常児の親は、普段からそういう子どもたちと接しているわけでもありませんので、これもやむを得ないことだと認識しています。でも、この映画を観ることが「束の間の異界の疑似体験」であるかのような受け止めは、どうにも歯がゆい気持ちになります。

でも、「そういうことでは良くない」「もっと理解して下さい」「興味を持って下さい」と言えるのかと問われれば、私の回答は明確にNo!です。予告編を見ると、障害の有無以前に深い親子の情愛がひしひしと伝わってきて、つまらない理屈を越えて熱く胸に訴えかけるものを感じていますが、この素晴らしい映画を以てしても、障害を理解してもらえるかは別の話であり、せいぜい理解を促進する可能性の入り口にしかなりえないんだなあと思います。実際、見た人が皆良き理解者になってくれるわけでもありませんし、映画の良さとは別だと割り切ることも大切だろうな、と達観しています。

正直なところ、遠巻きに見守られるような今の状況がそう簡単に変わることはないだろうと思っています。かつての自分自身のスタンスを思えば、それもしゃあないなあと。

それでも、障害を持つ親の思いを映像化してくれたことについて、とても意義があることだと思いますし、ほんの少しでも理解者が増えれば、それはそれでありがたいことだと思います。

公開が待ち遠しく感じられます。

2011年6月13日 (月)

(243) ミスマッチ

療育機関にもいろいろあります。例えば人数にしても、集団での指導を行うところ、2~3人の小集団での指導を行うところ、マンツーマンで指導を行うところとあったりします。

これにいわゆるソーシャルスキルを学ぶのか、学校の授業で習った(あるいはこれから習う)ことの理解を深めるのか、といった要素が加わってきて、例えば社会性を習得するのが目的というのであれば、マンツーマンでの指導よりも他の子と一緒にいる環境の方が練習もできて良いこととなり、後はその子の社会適応状況を見ながら集団なのか、2~3人の小集団なのかを選ぶこととなります。また、学科への指導であれば、個人の認知の特性が子によってマチマチであることから、その対応としては基本的にはマンツーマンの指導が望ましいこととなります。

あたり前だと思われるかも知れませんが、いざ療育施設に通ってみると、少なくともミスマッチだなあと思えるようなところに子どもを通わせている例を少なからず見ます。他人がとやかく言うことではないとも思うのですが、集団の中に入れさえすれば何とかなる、或いは何とかしてくれると誤信しているのではないかと思われる例や、発達障害でも認知の仕方は個々人でさまざまなのに健常の子と同じやり方を身につけなければならないと思い込んだりしている例を見るにつけ、親も子も辛いだろうなあと考えてしまいます。

率直に言えば、場合によってはどうやってもできないこともある、くらいの気持ちでいる必要があると思います。できないことを反復継続して練習すればできるようになる、というのは発達障害の子にとってあまりにも無謀な挑戦(バンザイ突撃)になることが多く、それよりも得意なことを伸ばす方向に注力した方が、自己肯定感も高まって子どものよりよい成長を引き出せるようです。だからこそ、その得意なことを見つけてあげるところでつまづいてしまわないようにしなければなりませんが。

私は文系を選択し社会人となって20年以上が経過しています。学生時代に膨大な時間を費やして学んだことのうち、これができなければ今の自分の仕事はできない、と思われるものは極めて少ないです。できないことを克服するよりもできることを伸ばす方がきっと楽しいだろうと実地経験から感じています。

2011年6月 6日 (月)

(242) プチパニック

昨日、妻と息子と妹は療育施設に行きました(当方は、壊れたPC対応で同行せず)。

その帰りのバスで、いつもの停留所に近づいたのに息子がチャイムを押そうとしませんでした。それで、妻が押したところ「僕、降りない」と言い出したのだそうです。

妻が、とりあえず降ろして訳を聞くと「次のバス停まで行きたかった」とベソをかきながら主張したそうです。家への位置関係では普段使うバス停も、次のバス停も斜め下が斜め上になる程度で大差ありません。妻が「何で次のバス停まで行きたかったの?」と聞いたら「もっと長くバスに乗りたかった」んだそうです…

その後、「次のバス停まで歩く」と言って別の方向に歩き出した息子と家に早く帰りたがる妹の間で困った妻は取り合えず妹を家まで連れて帰り、自転車で次のバス停まで様子を見に行こうとしたところ、家の方向に向かってくる息子を発見して連れて帰ってきました。

息子はグダグダになっていて、「おうちには帰らない。車で日本一周の旅に出る。東北に行く。東北で『頑張れ東北』と言う」とよくわからないけど殊勝な主張をしています。

私は、「車には乗らないよ。次のバス停まで乗りたいんだったら、『次のバス停まで乗りたい』と乗る時に言わないとお母さんもわからないよ。言っていたの?」「言ってない」「言われなければ分からないよ」というような問答をしました。

心の理論、と言われるものがあります。有名なのはサリーとアンの課題というものですが、要は他の人にも心があり、それは自分と別のことを考えていることもある、ということへの理解ができないあるいはしにくいという性質が広汎性発達障害の人にあることを示す例として語られます。今回、息子はその性質が出てしまったのかな、と思ったりもします。普段から、「他の人にも別の気持ちがあるんだよ」と言い続けているのですが…。

その後も「夕飯食べない」と言い続けていましたが、放置してしばらくしたら、普通に夕飯を食べていました(笑)。

まだ、ベタでサリーとアンの課題を試したことはありませんが、やってみようかなと思います。

2011年6月 5日 (日)

(241) 子どもと過ごした時間の影響

マサキングさんの6月3日の記事を読んで、昔のことを思い出しました。

うちでは、息子も娘も共に里帰り出産でした。ただ、息子が生まれ里帰りから戻った時は、私の職場が田舎であったため職住超近接(徒歩3分)の環境にあり、昼休みはもちろん残業があっても夕方に一度帰宅できる状況にありました。その結果、ミルクを飲ませたり風呂入れしたりオムツを替えたりということを毎日かなりやっていました。ミルクについては、最初母乳の出が悪くミルクメインだったということも影響しています(母乳マッサージ等に通っているうちに、段々と出るようになり、最後は母乳メインとなりました)。

これに対し、娘の時は職場が家から遠く、昼に帰ることはもちろん不可能で、加えて息子の時の母乳マッサージ効果は衰えず、娘の時には最初から完全母乳となったことも合わせ、私が娘と関わる時間は息子の時に比較してかなり短くなりました。実際、妻が娘に母乳を飲ませている時には娘と関わることはありえませんし、そういう時はおもちゃで遊ぶ息子と関わることとなりました。

ということから、私は息子と娘では年齢によるものだけでなく、その関わり方からも圧倒的に息子と関わることが多くなっています。よって、息子の扱いの方が娘の扱いよりも慣れていますし、息子も娘と比べると父親に懐いています(比較の問題であって、子どもから見れば1位が母親であることに変わりはありません)。

このことが、息子を療育に連れて行く時に、妻が行くか私が行くかの選択を難しくさせつつあります(そんなに深刻なものではありませんが)。良い悪いはともかく、療育先では父親よりも母親が連れてきている比率が高く、母親同士の会話はお互いの息抜きになる一方で情報交換の場ともなっています。私以外にも父親が連れてきている例はありますが、父親ってそういう場で軽く会話するのって中々難しいんですよね。パパ友の輪ができているところを見ませんし、そういうママ友の輪に入るのも難しく、結局私は教室に連れていくとあまりやることがなくなってしまっています。

ということを考えると妻と息子で行く方が良いのですが、娘は娘で妻と一緒にいたがります。以前は、妻が2人を連れていくこともできたのですが、娘が段々行くのを嫌がるようになってきて(単純にやることが無くつまらないからでしょう)、結果は交代で行くようになってきています。

小さい時の関わり方って後々に影響を与えるんだなあとつくづく感じます。

2011年6月 4日 (土)

(240) 食事の様子

ここのところ、出されたものはきれいに残さず平らげることが多くなりました。

まあ、出す側としても基本的に食べそうなものを出すというスタンスではあるのですが、それでも以前は何かの拍子にへそを曲げると食べなくなってしまい、ご飯だけ食べて終わってしまうことも時々ありましたから、これは進歩だと思います。箸は相変わらずエジソンですが(笑)。

口内炎ができやすくなっているのを利用して、「野菜を食べないからだよ」と言い続けたせいもあるのでしょうが、多少取り引きをする場面はあるものの野菜も食べるようになりましたし、刺身やいくら・たらこ等の海鮮系を除けばかなり好き嫌いも減ってきたように思います。

食べる量もかなり増えました。ラーメンは大好物なのですが、普通に一人前食べちゃいます。シナチク以外の具は食べられるようになりました。

そんなこんなで身長もクラスでは高い方に属しています。その分、変わった行動をしてしまった時に、周りが「まだ小さいからしょうがない」という目で見てくれなくなってしまうというデメリットもありますけど・・・。

自閉症児の育児についての注意事項として「食べることの調節が困難で、運動が不足することによる肥満を防止すべし」ということがよく言われるのですが、うらやましいことに息子は太らない体質です。おとうちゃんが「控えども 控えども 我が腹はスリムにならず じっと手を見る」状態なので、カミさんに似たのかなあと。

今後は、大人の味覚に少しずつチャレンジしてもらいたいと思っています。本人の人生の楽しみを広げたいのと、親もそういうものが食べたいという欲求が募るのと、両方の理由からですが。

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