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2011年5月

2011年5月31日 (火)

(239) 運動会開催

今日は久々に天気が良くなり、これまで延び延びとなっていた運動会が開催されました。会社の仕事もちょうど先週末に一つ資料の提出を終えていて、他に急ぎの案件も無かったことから、お休みして見に行きました。

息子は朝、実はあまり機嫌がよくありませんでした。相変わらず夜更かししていて目覚めが悪く、朝ごはんも食べようとしません。なだめすかしてみたものの、結局目玉焼きと5個パックの薄皮クリームパンの1個だけしか食べませんでした。これだと、学校に行って空腹でさらに不機嫌にならないか、と先行きが危ぶまれました。

せっかくの晴れ間ということで、妻は溜まった洗濯物を処理してから行くこととなり、開会式のあたりは先発した私が見ることになりました。私が小学校に着いた時には開会間近ということで、生徒さんが既にそれぞれの場所に自分の椅子を持ち出して座っていて、来賓席脇の保護者エリアが校庭をはさんで反対側になるという立地的な関係から、目を凝らしても見つけきらず、そのまま運動会が始まって生徒さんが入場して整列しても息子は背が高いので後ろ側となり、前の子の頭が視線を遮る結果やっぱり見つけきらず、という状況になってしまいました。

本来なら、残念だと思うべきところなのでしょうが、私にとってこれは率直にすごく嬉しいことでした。なぜなら正直なところ、去年と同様普段補助についてもらっている先生の近くにいるだろうからその先生を目印にすればいいやと思っていたのに補助されずに紛れていた、しかも(親が言うのも何ですが)奇妙な行動をしている子を探しても見つけきらなかった、ということは(今流行の)想定外であり、息子の成長を感じられるできごとだったからです。

その後、開会式が終わって席に戻ったところでこちらも生徒席側に近寄り、やっと息子を見つけることができました。で、驚いたことがまた・・・

ちょうど他の学年の徒競走が行われていたところ、他の子と一緒にピョンピョン跳ねながら左腕を天に突き上げて応援していたんです。そんな感情が育っていたなんて・・・本当にビックリのひと言です。もしかしたら、他の子がやっているのを真似しているだけで、応援するという感情までは無いのかも知れませんが、それでもそういう動作模倣をできるようになっただけでもやっぱりすごいと思います。

2人一組の障害物競走では、多少「?」となるような不可思議な行動もありましたが、4つの障害を若干時間がかかりながらも2人でクリアしていました(他にもっと時間がかかっている組もあったのに)し、50m走ではレベルを揃えていたこともあって何と1位(でも、あのぎこちない走りで何で? と思っています。ブービーメーカーだと信じていましたので)、踊りはかなりぎこちないものの、後ろの子の差配に従う等して最後まで踊りきることができました。

スクールカウンセラーの先生とバッタリお会いした時に「ここのところ調子が良いようだったので、運動会も何とかいけると思っていました。1位になったのは頑張りましたね、最後まで気を抜かないということができたのが良かったのでしょう」と言われました。

自分が出ない時は自席にいるのですが、不意に立とうとする息子を他の子が止め、それに従って座るけどまたしばらくして立とうとして(以下繰り返し)ということもありましたが、そういう周囲の子ども達の手助けを実際に見ることができました。これはすごくありがたく受け止めています。

帰宅後「駆けっこ1番だったね。がんばったね」と言ったら息子は「1番だったか2番だったかわからなかった」と言っていました。でも、嬉しそうでした。

今日はとても嬉しい経験をできた日でした。

2011年5月29日 (日)

(238) 運動会再延期

最近の天気予報は極めて正確で、はらたいらさんに3,000点を賭けるくらい鉄板な予想通り、今朝もかなりの雨が降っており、運動会は順延となりました。よって息子は登校して通常の授業を受けることとなりました。但し、給食はないので弁当を持っていくことにはなりましたが。

火曜日の授業がスライドしているため、息子は6時限まで授業を受けて帰ってきました。強い雨足にズボンのスソが濡れていましたが、機嫌が悪いということもなく「お帰り~」と言うとニコッと笑って「ただいまぁ」と返してくれました。

息子が不在の間に妻や娘と買い物に行っていたこともあり、今日これからの外出予定はありませんし、実際息子も疲れたのか、テレビに見入っています。今日はこのまま終わりそうです。

明日は逆にお休みなので、娘が幼稚園に行った後におそらく息子の希望に沿って妻が鉄道博物館に連れて行くことになるでしょう(そういう親子も多そうです)。本当は、運動会で頑張ったご褒美として連れて行くつもりだったのですが…ここで反故にしたりすると運動会本番に影響してしまうでしょうから、やむなしでしょうね。その分、運動会当日にきっちり頑張ってもらうということで。

明日まで雨が降ると、明後日晴れても校庭のコンディションは良くないでしょうねえ。

2011年5月28日 (土)

(237) 運動会延期

本日予定されていた運動会が雨のため流れました。

この点については、既に昨日より息子にアナウンスしていたし、元々運動会が本人にとってノリノリになるような楽しいできごとでも無いため、大したことにはなっておりません(これが、例えば鉄道博物館への見学だったりすると、タダでは済まないだろうと思われます)。

明日の日曜日に順延となっていますが、現在の天候状況を考えると明日も厳しいだろうなあと。で、雨天なら通常授業ということになっており、その時にはどうなるか予想がつきません。

ちなみに、月曜日は明日の運動会実施の有無に関わらずお休みです。これは、既に給食の手配をしていないことからだと思われます。つまり、もし明日も運動会ができないとなると、次の開催予定は火曜日となります。

さすがにここまで引っ張れば開催できるのではないかと思われますけど、親の方は平日ということでギャラリーも少なくなるのはやむを得ないですよね・・・

幸い息子は、あまり拒否反応を示しておりませんし、「練習頑張っていますよ」という担任の先生の連絡帳へのありがたいひと言もあることから、昨年よりは若干期待するようになっています。

繰り返し言い続けますが、行事ごとはアレコレ思いが交錯してしんどいです。

2011年5月22日 (日)

(236) 運動会が近づいてきて

来週末は、運動会です。行事が迫ってくると、正直なところ親としても心配で段々落ち着きを失ってしまいます。

昨年1年間を振り返ると、行事ごとでは大失敗もなく終わってみればノープロブレムではあったのですが、その前の幼稚園時代の数々の思い出がトラウマとなって、昨年はたまたまだ、今度は大丈夫だろうか? と天を仰ぎ地に伏してしまうようになっています。特に、今年は2年生ですし、最下級生としてのお目こぼしも期待できませんし…。

運動会に向けた学校での練習は、補助の先生がついてみんなに遅れないよう指導してくれていると聞いていますが、その成果がどれくらいなのかは不明です。ただ、この補助の先生は結構指導が上手で息子も懐いているようなので、何とかいけるのではないか、と淡い期待も持っています。

行事ごとは健常のお子さんの父母にとっては楽しみなのでしょうけど、私はそういうゆったりとした気持ちを持てるようになるには、まだ少々時間を要するようです。これは障害の受容とは別で、周囲の評価が息子へ接する時の態度に跳ね返って本人の自己肯定感が下がってしまうことを心配しているのですけどね。大雨が続いて流れないか、地震でも起きて…(これは今シャレにならないですね)等と考えてしまいます。

ただ、息子自体はここのところ学校に行くのがイヤだと言わなくなっているので、意外に練習にもついていけているのかも知れません。

閉会式までうまく行きますよう、慣れない信心をする日々となりそうです。

2011年5月19日 (木)

(235) 外遊び

5月のGW以降、息子は学校からの帰宅後に外に出ることが多くなりました。

以前は、学校から帰った後、夕飯まで全く家から出ずにプラレールで遊んだりパソコンをしたりと1人遊びで時を過ごしていたのですが、社交的な妹がおやつを食べるとさっさと外の公園に行ってしまうのを見て、遅ればせながら外に出て行くようになっています。とはいえ、大抵はアリを捕まえる等の1人遊びですが。

公園の砂場(≠そば屋)では、何となく他の子と一緒にいたりすることもあるので、妻はそういう人との関わりの萌芽が少しでも育つように気をつけているようです。

実は、昨晩は腹痛を訴えて夜間救急病院に駆けこんだりした(盲腸を疑ったりもしましたが、腹風邪と診断されました)ため、最初は家でおとなしくしていてと今日の外遊びを禁じていたのだそうですが、妹が行ったのを見て「僕も行きたい~crying」と泣いてしまったので、少しだけ許可したんだそうです。

冷静に考えると、本当に人との関わりを求めて外に出たのか、単に外に出たいだけだったのか、はたまた妹に差をつけられたことがイヤだったのか、真相は全く藪の中ですが、外に出て何かを感じてくれるなら、それだけでも十分意義があると思います。

それにしても、昨夜の騒動のために、眠いです・・・wobbly

2011年5月14日 (土)

(234) さじ加減の難しさ

2年生になって、かなり宿題が出されるようになりました。脱ゆとり教育ということで、学習内容が増えたことによるもののようです。

これは、別にうちの息子だけに関係するものではなく、他の子も一律に出されているのでしょうから、このこと自体は素直に受け止めるしかないなあと思っています。

ただ、例えば「読」という字は、もう2年生の今頃習っちゃうことに驚きつつも(正直なところ、こんな画数が多くてバランスを取らないと書きにくい字なのに、と思っています)、まだ正しい鉛筆の持ち方ができていない息子には負担が一気に大きくなってきたな、と心配しています。

先日も宿題で漢字ドリルの書き取りを出され、四苦八苦しながら書いていました。ちょっと見ながら「よく見ようね。上の線の方が長いよ(「読」のつくりの上部)」と言ったらいきなり泣き出してしまい「悔しい」とボソッとつぶやきました。

こちらはそんなにきつく言ったわけでもないのですが、このように一度いっぱいいっぱいになると、その後は何を言ってもダメになってしまいます。息子が「もうできない、体の調子が悪い、ご飯食べない、もう寝る」と言い出したりして、その時はそのままにするしかありませんでした。クールダウンです。

実際、布団に入って10分程でやや立ち直りご飯も少しですが食べ、妻が見守る中宿題を仕上げることができましたが、このあたりのさじ加減は難しいなあと思いました。

今、榊原洋一先生の本「図解よくわかる発達障害の子どもたち」(ナツメ社)を読んでいます。この本の中で、「目標のハードルを下げて、取り組みやすくするほうが効果が上がります。漢字の書き取り練習なども、ほかの子どもが3回ずつ書かなければならないとしたら、発達障害の子どもには1回ずつでよいことにします。ただし、手本を見ながらていねいに書くということを条件にします」というアドバイスがあって、その通りだと思っているのですが、さすがに0回にはできないしなあ、と頭を抱えています。できたら誉めるようにしてはいますけど、問題は出だしで、もうこの年齢で小さい時のように手を取ってプロンプトというのも今度はプライドを傷つけてしまいそうでもあり(実際、他の件で手を振りほどかれたことがあります)、最初の一歩は自分で踏み出してもらわないことには厳しいなと思っています。

今回は結果オーライではありましたが、今後こういうことはもぐら叩きのようにポコポコ出て来るのだろうな、とちょっと不安になってしまいました。

2011年5月12日 (木)

(233) 脱インクルージョン教育

(169)(210)でも触れていることですが、私自身の考えはインクルージョン教育に極めて懐疑的です。(229)で触れた子どもの在籍の可否を投票で決めるという設定はさすがに非現実的ではあるものの、いじめ問題は実際によく聞きますし。

「・・・である」と「・・・すべき」の区別はハッキリして考えないと、議論は堂々巡りになるし、結局出した結論に妥当性が無くなって不幸を招くことになると思います。「いじめはやめるべき」ではありますが、世の中から無くなったことはありません。「いじめは世にありなくならないものである」という事実から話を始めないと、現実に即さない議論のための議論になってしまいます。

子どもが成長するにつれて母親への従属から少しずつ目が外に向いて、社会を学んで他者への許容と思いやりを身につけて大人になるという大雑把な過程を見ると、残念ながら異なるものの排除・拒絶という道徳的には正しくない行為も、その過程の一部に入っていると考えています。更に言えば、その過程で止まってしまう人も少数ですがいます。

周りと違うことによるいじめを受け、自己肯定感の低さで苦しむ発達障害の子が少なくない現状を考えれば、お互いが未熟である成長過程で両者をインクルーシブして教育するメリットは、デメリットよりもかなり小さいのではないでしょうか。「小さい頃からその存在を認め合うこと大切だ」というご意見もありますが、未熟さゆえに相互の多様性を認められる土壌がまだできていないのであれば、やむを得ないことだと認識しています。

例えば、外国人と共に育たないと国際人になれないかと言えばそうじゃないですし、むしろ人種や民族のルツボと言われる国々で相互理解が足りずに紛争が起こっている現実を見れば、一緒に育てば相互の存在を認め合える関係を築けるということも無いと思います。要は外国語能力に加えて人を個人として尊重できる資質を育てることが肝要かと。

「似たもの同士はよく混ざり合う」というのは、私が高校時代の化学の先生から教わったことで、要は水酸基(-OH)を持つ分子同士は混ざり合うし、持たないものと持つものは混ざらない、水と油が混ざらない理由はこれだ、ということです。こういう自然の摂理を無視してもしょうがないでしょう。

これは、自閉の有無だけの問題ではなく、自閉のない単なる知的障害者と健常者が同じ学級にいて学ぶことについても同様だと思います。片方には授業内容が難しく片方には簡単で、休憩時間に会話をしても成り立たない状況であるならば、そこに一緒にいることは双方にとって辛くなる可能性があると思います。そしてこれを敷衍すると、頭が突出して良い子が人間的な深みを持つためには同レベルの子と切磋琢磨する環境が必要なのに自然には出会えない状況だから、意図的に出会える環境を作ることが大切ではないか、そういう環境の方が歪んだ優越感やプライドを持つことも無く、ノブレスオブリージュを意識させることで社会により貢献できるようになるのではないか、と考えています。

なお、自閉系であることをもって知的障害の有無を問わずに同じクラスにしてしまう傾向がありますが、これも上記のように双方にとって辛いことになるだろうと思います。

このようなことになるのは、納税者の多数派の声が政策の大綱を決めてしまう弊害でしょう。「多数派でないもの」の中にも多様性があるのに、それをひと括りに「その他」と分けてしまうのは、行政の事務効率の優先という要請からで、子ども達に良いという判断はなされていないということです。その結果が昔から言われている七五三教育という上に行くほど理解できていない状況を招来しているのであればそれを改め、よくできる子はさらに伸ばす、できない子は教え方を工夫する、それぞれ別の環境を用意するのが本来のあり方だと思います。

今は脱「ゆとり」の流れなのか、小学校も高学年の算数では事実上の能力別授業をやっていると聞きます。それを差別というのは時代遅れだと思いますし、個々人の能力を高めるという教育本来のあり方に戻していくべきだと思います。

2011年5月 8日 (日)

(232) 祖父母への情報開示を考える

ゴールデンウイークを利用して、私の実家に帰省しました。

息子は妹はもちろん私の姉の娘(息子の従姉妹)と遊んだり、1人でパソコンゲームをやったりしていたのですが、それ以外には普段家にいる時のように周囲にあれこれと話しかけていたこともあり、それに付き合わされることとなった私の父母(息子の祖父母)からは
「ちょっと変わり者過ぎ。変わっているにしても限度があるのではないか」
「いきなり電車の話をし始めて、それも小難しい話をしてきた。細かいところにこだわるし、話がスッと入ってこなくて閉口した」
「子どものうちの性格は大きくなっても残る。社会に出てやっていけるのか」
「友達がいるのか」
「育て方が悪かったのでは」
等と言われてしまいました。

現状、祖父母には息子の障害についてカミングアウトしておらずこのようなリアクションを受けてしまうのはやむを得ないと思いますが、ちょっと堪えました。カミングアウトしない理由としては、祖父母の年齢的なもの(気力・体力等)と世代的なもの(障害者への理解)から、カミングアウトしても受容しきれないだろうと判断していることによります。このあたりはtwitterでつぶやいたところ、いろいろな方からご意見を頂き、今後場合によってはカミングアウトした方が良い方向に進むかも、という期待も無いわけでもないのですが、中々踏み切れない思いがあります。

このあたり、福島第一原発に関わる政府等の対応と被る部分があります。よく政府や東電は情報をすべて出していないのではないかと疑問視するマスコミの論調を見聞きしますし、私もおそらく全ての情報を出してはいないんだろうと思います。実際、炉心溶融があったことはおそらくもっと前から推測できていたのに、公式にそのことに触れるようになったのは割と最近のことですし。ただ、情報をすべて提供していない自分の立場からすれば、多少理解できる部分もあります。

まず、一旦発信してしまえばそれが一人歩きする恐れがあって、ハッキリ言い切れない事実を出すことには極めて慎重にならざるを得ないです。そして、情報発信者は一応それで飯を食っているプロであることが多いのに対し、受け手は殆どがアマチュアでしかありません。本来、情報をきちんと受け取るためには、受け手の側にもそれなりの知識・理性・心構えが求められるのに、そのままストレートに真実を包み隠さず話すことがどのようなことを引き起こすのかはよくよく吟味が必要でしょう。真実追求のためには全てをさらけ出すことが必要だというのは理想的ではあるものの、そのことがすべての幸福につながるかについては、また別の判断があると思います。

特に、老いて気力が低くなっている人間に、真実を突きつけて受け入れろ、とはとても言えません。結局のところ最後はエイヤーの賭けになってしまいます。行けるところまではこのままで、と思う所以です。

とはいえ、祖父母から見ても息子はやはり普通の子と違うのは明らかなんだなあと認識を新たにしました。そういう奇矯な行動は、やはり少しずつでも減らしていかなければならないなと思っております。その動機は、「自分が楽をしたい」でも「親(祖父母)を安心させたい」でもなく、「本人の生きやすさに寄与する」からです。名誉健常児に対する整理はまだできていませんが((202)参照)、できることを増やすことは障害の有無に関わらず必要なことですし。

2011年5月 5日 (木)

(231) 通級の良し悪し

通級についての考え方はいろいろあるようです。

それについて議論する前に、通級指導教室ってどういうものなのかの解明が必要だと思い、現在わかっていることを書いてみます。

通級指導教室は、普通学級に在籍している子が通う教室です。100%普通学級の在籍で、通級指導教室に在籍する、という概念はありません。そして、教育委員会の判定を受けて通級指導教室に通うことを許可された子が通級指導教室に通うと、所属している普通学級の出席日数にカウントされる(=欠席扱いされない)こととなります。

言い換えると、通級指導教室に出ている間、当然所属する普通学級で授業が行われているのですが、そちらに出ることは物理的に不可能で、かつその分の補習が別途行われることもありません。通級も学校で行う授業の枠内の仕組みであるということです。

ここで、親として気をつけなければならないのは、週のうち普通学級で4日、通級指導教室で1日を過ごすことにより、国語や算数という学科においては、通級の日の分が欠けてしまう(一応、通級指導教室でも学科の時間はあるそうですが、普通学級からきれいに引き継いで進め、また元に戻すということは現実的ではない)ので、それは家庭等で補わなければならないということです。

以上の前提がまずあって、通級に通うことを考えると、クラスに所属する時間が物理的に減るので、クラスの子とやり合う時間が短くなります。このことの功罪はいろいろ出てきます。

まず、通級指導教室はメリットとして

  1. 人数が少ないので指導が行き届く
  2. 似た特性の子がいて、落ち着く
  3. 特性に合った授業を行ってくれるので理解を促進する
  4. SST等の指導もやってくれる

ということが上げられます。逆にデメリットは

  1. クラスの子と一緒にいる時間が短くなり、交流が薄くなる
  2. クラスの子から偏見を持たれる可能性がある(端的にはイジメ問題)
  3. 自身を客観視できるようになると、なぜ自分が他の子と違うのか悩むようになる

ということがあるようです。

実際、進級するに従い、通級指導教室に行きたがらない子が増えてくるようなことがあるそうです。更には、行っていた事実すら無かったことにしたいと考えるようになる子もいるとか。周りが見えるようになるのは成長で喜ばしいことなのに、本人の成長に適した形の配慮を込めた通級が、本人の成長を促進したことによって忌まわしいものと思われる矛盾を内包してしまう。これをどのように整理して受け止めるのかを問われる時がいずれ来ます。

我が家の整理は今のところは明快で、

  1. 1年生の時には通級指導教室に通っていなかったものの、(161)に書いた通りバカと言われていたわけで、今更通級指導教室に行き始めたことをもって偏見がひどくなることはあまりないと判断した
  2. 仮に通級指導教室に行かない選択をしていたとしても、やはり不規則・奇異な発言はあっただろうし、周囲の友達から見た状況に差が出ていたとも思えない
  3. 通級指導教室に通っていることで担任の先生の注意喚起を引き出すことができる
  4. 普通学級のお友達と関わる時間が短くなっても、現状では長くいたからと言って適正な関わりが増えるとは思えない
  5. 所詮小学校の付き合いが一生続くわけでもないし、いざとなったら私立に編入する道も無いわけではない

ということから、通級指導教室に通わせる方がメリットが大きいと思います。もちろん(225)で書いたように、自分はたまたま期待が持てる先生方だったからそう判断したのであって、メリットが無いようなやる気の無い先生方であったら、判断はまた別だったと思います。

なお、通級指導教室の先生からは、ほぼ毎週のことでもあり隠せるものでもないから行っていることをオープンにした方が良い、というようなご意見を頂きました。ただ、世の中善意の人間ばかりではないんですよね。昨今の風評被害の例を見るにつけても、その思いを強くします。まだ言わなければならない状況にはなっていませんが、言うにしても診断名は言わないようにしようと思っています。

2011年5月 1日 (日)

(230) 記者会見と如才のなさ

今回は、本当に斜に構えていることをお断りしておきます。

ここのところのテレビの報道で、主に原発の動向に関わる記者会見の様子を見る機会が多くなりました。

ただ、私の見方はちょっと変わっているかも知れませんconfident。会見の内容ももちろん見ているのですが、それ以上に日本を代表するリーディングカンパニーや役所や委員会の方の話しぶりに注目しています。正直なところ、全員ではありませんがどうも「スペクトラムのこちら側」の人のような印象を受けることがあります。

それなりの高学歴の方々なのでしょうけど、どうにもぎこちない。感情を制御しているというよりも素で感情が表れない性質をお持ちなのではないかと感じています。とりわけ、これだけの災厄をもたらした以上、もう少し当事者意識を全面に押し出した方が(フリだけでも済まなそうな雰囲気を醸成した方が)、国民の理解は得やすいと思うのですが、どうにもそういう意識、被災者への共感性の薄さを感じてしまいます。

日本には、官尊民卑という言葉があります。一般には様々な公的権限を持つ官の方が社会的影響力が強く社会的地位も上であり、高学歴者はそちらを志向する傾向がありました。ただその裏側には、民間で必要な如才なさを持っておらず、筋目で考えることが好きなことから、民間ではなく官庁に行く方が自身の特性に合っていることを自覚してその道を選ぶということも多かったのではないかと思っています。

今回のリーディングカンパニーは、形式的には民間企業ですが、日本国民で純粋な民間会社だと思っている人はあまりいないと思っています。一部自由化されたとはいえ地域独占色は根強く残っていますし。実際、官僚よりも官僚らしいと例えられることすらあります。原子力関係以外でも、人との関わり方をあまり求められないのではないでしょうか。計画停電を始めた時の混乱を見ると、その感を強くします。

普通の人は、何だこりゃと思うのでしょうけど、私などは申し訳ないですがこの程度の社会性でもサラリーマンとしてやっていけるんだなあと妙な期待感を持ってしまいます。この手の障害を持つ子の親としての戯言として聞き流して下さい。

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