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2011年1月22日 (土)

(206) 働くことを考える

上岡一世著「自閉症児のY君が就職するまで━母と共に歩んだ指導の記録」(明治図書)を読みました。この本は、言葉の出ない自閉症児のY君が、高等部時代に教師と母親にサポートされつつ能力を伸ばして就職できるようになる(就職後の様子も若干出てきますが)までの様子を、主に指導記録(教師と母親の両方が記入)からの抜粋でつづった内容で、一つ一つの課題を根気よく習得させるよう努めた教師と母親、そしてその働きかけに呼応して成長してきたY君の様子が詳細に記載されています。ここまで持ってこられた努力に素直に敬意を表します。

著者は「働くこと=障害児の幸せ=実社会で堂々と生活できる」というスタンスでこの本を書かれているのですが、この本が書かれてから25年が経過した今、全く別のところで起こっている某社長の「恥ずかしいのは大人になっても自分でご飯が食べられないことだ」というコメントからスタートする騒動について考えてみました。

結論から言います。憲法13条で保障される「個人の尊厳」を達成するために各個人が自己実現に向けた取り組みをすることは疑いなく肯定されるべきものである一方、自己実現=自分でご飯を食べることではない、と考えます。正確に言えば、自分でご飯を食べられるようになることは、自己実現に向けた取り組みの発現形態の一つではあるのですが、それ以外の形もあり得る、ということです。その個人個人が納得した人生を歩み、それが社会のあり方とバッティングしない限りにおいて、他人がとやかく言うことではないなと思います。

ただ、大多数の人間が事実としてやっている「自分でご飯を食べること」について、親が本人の意思を無視または確認することなく最初から諦めるようなことは、恥ずかしくはないが宜しくもないと思います。単にパニックを恐れて負荷をかけないというのは親の自己保身であり論外としても、不得手であってもできるところまではやってみるという姿勢を持つことは、健常者だけでなく障害者にとっても望ましいことです。助け合いが大切だとは言われますが、助け「合い」はみんなが助けられる側にばかり回れない=助けることができる人の存在を前提としているわけですから、必然的な帰結だと考えます。

健常児も障害児もいずれは学校を終え、社会に出る時がやってきます。また、通常の場合親は子どもよりも先に亡くなります。その遠く見えるが日々を送るうちに確実に近づいてくる時を見据え、できることを増やす努力を継続していくことはとても大切です。

なお、ここで思うのは、健常児は自己実現のため自己の全ての能力を賭けて社会に挑戦していくこととなりますが、障害児はそれが難しいことがあり得ます。健常児の自由競争社会に対し、障害児は規制社会になる部分がある点で差は生じるな、と思います。とはいえ、それが本人と社会とで折り合えている限り、特段問題にはならないことだと思いますし、それで社会が回り、成り立つのならそれで良いことではないでしょうか。

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